エピローグ:怪人の最期と実像
大正維新から十余年。
荒澤玄蔵の周囲からは、かつて彼を伝説の指揮官として崇拝し、影のように付き従って遊説や農村の視察を護衛していた日露戦役の元部下たちや養民会幹部の姿は消えていた。
彼はある時期を境に、最も信頼していた者たちから順に遠ざけ、ごく少人数、あるいは単独での移動を繰り返すようになっていたのだ。
コミンテルンの殺意、旧支配層の怨嗟、そして大権を簒奪された宮中グループの怒り。
彼を取り巻く幾重もの見えざる包囲網を考えれば、護衛を外すというその行動は、まるで自身の首を刃の前に差し出しているかのような異常なものであった。
ひょっとすると国家の欠陥として冷徹に切り捨てた者たちの憎悪を、ただ一人で一身に引き受けることこそが、彼が自らに課した使命の総仕上げであったのかもしれない。
一九三一年(昭和六年)九月十八日。
全国遊説の途上、荒澤玄蔵は単独で東京駅のプラットフォームに立っていた。
彼の隻眼に映っていたのは、かつて関東大震災で灰燼に帰し、そこから不死鳥のごとく復興を遂げた帝都の偉容であったことだろう。
プラットフォームを行き交う労働者たちの顔は煤に汚れていたが、昭和不況後の経済政策が功を奏して反転した好景気の恩恵を受け、その瞳は確かな明日への希望できっと輝いていたことだろう。
銃声が轟いたのは、特急列車の発車音が鳴り響いた直後である。
雑踏の中から現れた暴漢の凶弾を受け、荒澤はプラットフォームに崩れ落ちた。
不可解なことに、この日、東京駅構内では不審者の通報が相次いでいたにもかかわらず、所轄の警官は誰一人として出動していなかった。
犯人はそのまま雑踏へと消え、後日、身元不明の死体となって東京湾に浮かんだ。
政府首脳部の意向により、捜査は早々に打ち切られた。
一度は彼に乗っ取りを許した国家というシステムそのものが、彼の抹殺を黙認したのである。
まるで二度目は無いと言わんばかりに。
翌朝 九月十九日。
秋の穏やかな一日。
各紙の朝刊は昨日特段目立ったニュースがなかったにも関わらず、この怪人の不審な死を紙面の片隅でひっそりと報じた。
天涯孤独であった荒澤の遺体は、引き取り手もなく無縁仏として処理されるはずであった。
だが数日後、彼の亡骸は身元を伏せた数名の屈強な男たちによって秘密裏に引き取られ、ひっそりと荼毘に付されたという。
それは彼自身が遠ざけたはずの日露戦役の元部下たちであったと推測されている。
歴史の闇に葬られた怪人の最期は、彼が駒として使い捨てたはずの者たちの、無骨な祈りによって弔われたのである。
国家の構造的欠陥を物理的に排除した冷血なるマキャベリスト。
神聖なる天皇大権を恣意的に操作し、憲法を蹂躙した国体破壊の逆賊。
あるいは、世界革命のエネルギーを根こそぎ奪い去った歴史の泥棒。
後世の歴史家や列強の首脳たちが彼に与えた呼称は、どれもが真実であり、同時にどれもが彼の本質を捉えきれてはいないように思える。
だが、あえて彼を定義するなら――。
*
パタンと分厚い表紙が閉じられる音が、静かな日本家屋の広間に響いた。
初老の男は手元にあった真新しい書籍『大正維新――農地改革の陰で消えた怪人』を畳の上にそっと置き、長く、深い溜息をついた。
男の視線の先には、線香の煙が細く立ち上る古い仏壇がある。
その奥には彼が物心ついた頃から変わらず飾られている一枚の白黒写真があった。
日露戦争の二〇三高地を生き抜いた祖父と、その横で左目に包帯を巻いて座る草臥れた下士官の写真だ。
そして束の間手元の本に目を戻す。
「……歴史家先生、あんたの書いたこの本よく調べてるよ」
顔をあげた男は遺影の中の祖父と、その隣で少しだけ悲しそうな目をしている男に向かって、ぽつりとこぼした。
「世間も学者も、特務曹長殿のことを冷血なマキャベリストだってさ。国のシステムを書き換えるために、感情すらも捨て去った怪人だってね。でもじいちゃんは言ってたよ。あんたは死んだ部下の顔を見ながら、わんわん泣いていたって」
線香の香りが、静かに部屋を満たしている。
「俺たちを二度と飢えさせないために。犬死にさせないために。ただそれだけのために、一人で地獄の底まで落ちていった。本当に不器用な人だよな」
その時、背後の襖がスッと開いた。
「じいちゃん、お茶淹れたよ」
今年から大学生になった孫が顔を出した。
孫の視線が畳に置かれた真新しい本へと向く。
彼が今日、大学の生協で見つけて、祖父のために買ってきたものだ。
「どうだった、その本? 結構難しそうだったけど。じいちゃんのじいちゃんの上官の話なんだろ?」
「ああ。じいちゃんが知らないことがいっぱい書いてあった。だがな、一番肝心なことが書かれていなかった」
男はそう言うと、仏壇の引き出しを開け、小さな桐箱を取り出した。
中に入っているのは、ボロボロになった一冊の野帳だ。
祖父が死ぬ間際まで手放さず、中隊長殿から託されたのだと言って大切にしていた遺品。
そこには、思想も国家戦略も書かれていない。
ただ、二〇三高地の泥濘の中で死んでいった小作農の次男坊や三男坊たちの名前と、彼らの故郷の村の名前だけがびっしりと書き殴られている。
祖父は常々彼らの家族を任されたのだと言っていた。
今となって年一の親睦会への参加は自分が引き継いでいる。
「なあ、お前」
「ん?」
男は、その古びた野帳を皺だらけの手で優しく撫でながら、孫に向かって静かに微笑んだ。
「俺もそろそろ、いい歳だからな。この野帳とそこに写っている写真の人について、世間の本には絶対に載っていない『本当の話』を、お前にだけしておこうと思うんだ」
秋の虫の音が、歴史に名も残さなかった農民兵たちの鎮魂歌のように、いつまでも静かに響いていた。




