3-1:シンクロする悪夢
5月も半ばを過ぎる頃。
あの黒い古書の怪異は、梅雨時の湿気のように、じっとりと三嶋たちの日常を侵食し始めていた。
その重苦しい気配を肌に感じながら、ある火曜日の朝、三嶋は事務室のデスクで数日前からの未処理の書類に目を通していた。
ペンを動かす音だけが響く部屋で、ふいに背後の木製ドアが開き、白井と加瀬がほぼ同時に部屋に入ってきた。
2人の姿が視界に入った瞬間、三嶋の手がぴたりと止まった。ペンを握る指先が、生理的な危険信号を察知して強張る。
白井の顔色はさらに土気色を増し、頬は不自然にこけて皮と骨だけになっているようだった。
その目は睡眠不足という次元を超えた狂気的な光を宿したまま固定され、視線の焦点が現実の世界ではない別の場所に合っているかのようだった。
一方の加瀬も、かつての瑞々しい女子大生の面影は完全に消失していた。長い髪は手入れもされずにパサつき、視線は宙を彷徨っている。
2人はお互いに挨拶を交わすことも、視線を交わすこともしなかった。
まるで、最初から一つの同じ神経系で繋がっているかのような、示し合わせた全く同じ歩幅、同じ速度で、机の上に置かれたあの黒い本の前に歩み寄った。
「……白井先生」
加瀬が、掠れた、どこか湿った声で口を開いた。
「昨夜、またあれを見ました」
白井は感情の起伏を完全に失った平坦な声で、ゆっくりと首を縦に振った。
「あぁ。僕もだ。
昨夜の午前3時、ちょうど外で激しい雨が降り始めた瞬間に、僕はあの場所へ行った」
「やっぱり……。先生もそこにいたんですね」
加瀬の口元に、歪んだ、しかし恍惚とした笑みが広がる。
「あの、どこまでも続く、冷たくて暗い地下の回廊。天井が低くて、歩くたびに背中が擦れそうな場所……」
「そうだ。天井のコンクリートの割れ目から、絶え間なく、濁った泥のような水が滴り落ちてくる場所だ。
僕たちはそこで、壁を背にして並んで座っていた。
目の前には、巨大な文字が、壁の裏から染み出す赤黒いインクによって次々と形を成し、増殖していた。
僕たちはそれを、ただじっと見つめていたんだ」
三嶋は背筋に氷水を流し込まれたような猛烈な冷気が走るのを感じ、椅子を引いて立ち上がった。
「おい、2人とも朝から何の話をしてるんだ?
昨夜の午前三時って、白井は大学の近くのアパートにいたはずだし、加瀬だって実家のマンションに帰ったんだろ?
なんで同じ場所にいるなんて話になるんだよ」
白井はゆっくりと、まるで錆びついた人形のように首を巡らせ、感情の消え失せた硝子のような瞳で三嶋を見た。
「夢だよ、三嶋。君にはまだわからないのかい」
「夢……? 夢の中で会ったって言いたいのか?」
「そうだ。僕と加瀬さんは、昨夜、まったく同じ夢の空間を共有していた。
それは単なる脳の記憶の整理などという生易しいものではない。
僕たちの意識が、睡眠という現実の防壁を超えて、同じ高次元の現実にアクセスしたんだ。
その場所の空気の異常な冷たさも、滴り落ちる水の鉄錆のような味も、壁に刻まれた文字の不気味な凹凸の質感も、すべてが完全に一致している。
彼女が夢の中で着ていた服の綻びまで、僕は正確に描写できるぞ」
あの古書を巡って激しく言い合いをしていた2人が、今度は揃って、そんな気味の悪い怪談話を真顔でぶつけてくる。
その様子が、まるで自分を標的にした悪質な悪ふざけのようにしか思えなかった。
「そんなの、ただの偶然だろ! 嫌がらせならやめてくれ!」
三嶋は強い口調で言い放った。
すべてはただの偶然に過ぎない――そう頑なに思い込み、科学的に説明のつかない超自然的な現象を強引に否定しなければ、自分の頭がおかしくなってしまいそうだったからだ。
「偶然なものか」
加瀬は、現実から目を背ける三嶋を心底哀れむような目で、くすくすと嘲笑った。
「じゃあ、三嶋さん。これが口裏を合わせた悪ふざけだと言うなら――今から私と白井先生で、その壁の文字をここに同時に書き写してみせましょうか?
人間の言葉では言語化できない文字ですが、形なら一画の狂いもなく一致しますよ。
私たちはお互いに何を視て、何を理解したのか、すべて瞬時に伝わっているんです。
私たちはもう、別々の人間ではないのかもしれませんね」
狂気すら孕んだ加瀬の提案に、三嶋は言葉を失い、ただ喉を鳴らすことしかできなかった。
試すまでもない。目の前の二人は本気だ。
言い返す言葉すら失った三嶋の怯えを、正面から見届けた白井と加瀬は、同時に目の前の黒い本へと視線を戻し、声を出さずに不気味に微笑み合った。
2人の精神は、三嶋の預かり知らぬ未知の領域で、確実に同期を始めていた。
三嶋だけが、その不穏な繋がりの外側に取り残され、断絶された正気の世界の住人として、圧倒的な数の暴力に怯えるように、恐怖に身を震わせるしかなかった。




