33回目 その2
夕食の時間まで、まだ少し間があった。
廊下の奥に掲げられた“男湯・女湯”の暖簾が、ふわりと湯気を漂わせている。
「温泉、入っちゃおっか♪」
杏奈がタオルを肩に掛けながら笑う。
「ふわりも~♡ 旅といえば温泉~♡」
「え、えっと……あの……」
鈴音がタオルを胸に抱きしめたまま、視線を泳がせている。
「ど、どうせなら、露天……入りたいですっ」
「おっ、リンちゃんノリいいじゃん♪」
「い、言ってから恥ずかしくなってきましたっ!」
顔を真っ赤にする鈴音の横で、ふわりがのんびり笑う。
「大丈夫だよ~♡ ふわりも初めての露天だもん~♡」
それぞれ脱衣所へ消えていく三人。
俺は男湯の方へ。
ガラガラと戸を開けると、湯気がもわっと立ち上り、木の香りが鼻をくすぐった。
(……あったかいな)
湯に肩まで浸かり、ぼんやりと天井を見上げる。
湯気の向こう、ほんの少しだけ外の雪景色が見える。
――そのとき。
遠く、仕切りの向こうから、明らかに聞き覚えのある声が聞こえた。
「ひゃあっ♡ 熱いっ♡」
「ふわりちゃん、入る時はゆっくりですって!」
「杏奈ちゃん! 桶、桶が流れていきますっ!」
ガコンッ、チャポンッ。
(……あいつら、何やってんだ)
女湯側。
薄い湯けむりの向こう、雪をかぶった岩風呂。
肩まで湯に浸かる杏奈が、ふぅ、と息を吐いた。
「はぁ~、極楽~♡」
「気持ちいいねぇ~♡ ふわり、とろけそう~♡」
「ふわりちゃん、とけたらダメですっ!」
「えへへ♡ リンちゃんが助けてくれるでしょ~♡」
「も、もうっ……!」
湯気に揺れる三人の笑顔。
髪に雪が少しずつ積もっていくのが、まるで光の粒みたいで――
「ねぇリンちゃん」
「な、なんですか?」
「れー君も、今ごろこっち覗いてたりして♡」
「み、見てませんっ!」
「まだ何も言ってないけど?」
「い、今の杏奈ちゃんの口ぶりで分かりますっ!」
「ほらほら~、反応が可愛い~♡」
「ふわりも~♡ リンちゃん、ほっぺ赤いよ~♡」
「ふ、ふわりちゃんまでぇ~!」
――ぱしゃっ。
桶の水しぶきが飛んで、杏奈の顔にかかる。
「ぶはっ!? ちょ、冷たっ!」
「す、すみませんっ! 手がすべって!」
「こら~っ、リンちゃん反撃~♡」
「きゃあああ♡」
しぶき合戦、勃発。
一方そのころ、男湯の俺は――
「……めっちゃ笑い声聞こえるんだけど」
壁越しに響く嬌声と水音に、もう集中できない。
「……覗かねぇよ。覗かないけど……気になるっちゃ気になるな」
心の中で言い訳をしつつ、湯をかける手が止まる。
(くそ、こっちは静かなのに……向こう、楽しそうだな)
すると突然、壁越しにふわりの声。
「れーじく~ん! そっち、あったか~い~?」
「えっ!? お、おう! そっちこそ楽しそうだな!」
「うん~♡ リンちゃんが水かけてくる~♡」
「か、かけてませんっ!」
間髪入れず杏奈の声が響く。
「れー君~! 覗いたら訴えるからねっ!」
「してねぇっての!」
湯気の向こうで、宿全体がほんのり笑い声に包まれた気がした。
風呂から上がり、髪をタオルで拭きながらため息をつく。
「……ま、こうなると思ってたけどな」
湯上がりの廊下の先、女湯の戸が開く。
杏奈が湯気をまとったまま出てきて、いたずらっぽく笑った。
「れー君、いい湯だった?」
「お前らの声がうるさくて集中できなかったわ」
「うっそ、聞こえてたの!?」
「バッチリだ」
「きゃーーーっ!?」
「ふわりたちの笑い声も、ちゃんと聞こえてたぞ」
「ふぇえ~♡ 恥ずかしい~♡」
「鈴音の『桶がぁ!』って声もな」
「うぅぅぅ……!」
俺は苦笑しながら、三人の頭を軽く撫でた。
「ほら、早く上がって風邪ひくなよ」
「……ねぇれー君」
「ん?」
「こういうの、幸せだね」
「……ああ」
湯気の向こう、雪がまたひとひら落ちてきた。
湯上がりの空気って、どうしてこんなに心地いいんだろう。
ほのかに漂う湯気の残り香と、畳の匂い。
雪の夜気がガラス戸の向こうからそっと流れ込み、部屋の灯りを揺らしていた。
俺が髪をタオルで拭きながら一息ついた頃、障子の向こうから足音が近づく。
「れー君~♡ おまたせ~♡」
先陣を切って入ってきたのはふわりだった。
浴衣の帯をゆるく締めて、頬は湯上がりのせいでほんのり桜色。
肩までおろした髪からは湯気がゆらゆらと立ちのぼる。
「ふわり……それ、ちょっと着崩れてないか?」
「え~? そうかなぁ~♡ ふわり、暑くて~♡」
「そりゃ、湯上がりだからな」
「ねぇねぇ、れーじくん。のぼせたふわりをうちわでパタパタしてくれない~?」
「自分で扇げ」
「えぇ~♡ 王様の特権で~♡」
「王様関係ねぇだろ」
思わず笑ってしまう。
そこに――襖がスッと開いた。
「ふわりちゃん、れー君を困らせてるでしょ!」
「困らせてないもん~♡ ふわり、癒してるだけ~♡」
「どっちにしても一緒でしょ!」
杏奈が腰に手を当てて現れる。
髪をタオルでまとめ、浴衣の襟を少しだけ開けたまま。
肌の色がほんのり灯りに照らされて――危険なほど目に毒だ。
「……お前ら、まじで風呂上がりの破壊力わかってんのか?」
「え、褒めてる?」
「照れてる?」
「からかわない」
「杏奈ちゃん、れーじくんに“おつかれさまの肩もみ”してあげようよ~♡」
「いいね、それ! 温泉マッサージ♡」
「おいおい、勝手に決めるな」
「じゃあ鈴音ちゃんもやる?」
「へ!? わ、わたしは……! そ、その……!」
ちょうど鈴音が襖の影から顔を出したところだった。
髪をタオルでまとめ、浴衣をきっちり締めて、両手に牛乳瓶。
「れ、れーじ君っ。牛乳、飲みます?」
「あ、ありがとう」
「えらいね~リンちゃん♡ ちゃんと冷蔵庫チェックしてる~♡」
「そ、そういうわけじゃ……! ここのお宿、風呂上がりに無料で飲めるって書いてあったからっ」
「はぁ~♡ リンちゃん、真面目~♡」
「もう、ふわりちゃんっ!」
慌ててふわりの頬をむにっと引っ張る鈴音。
そのやり取りに、自然と笑いがこぼれた。
「ふわりちゃん、れー君が先に飲んでる間、ふわりたちはマッサージ係ね!」
「ふふ~♡ 了解~♡」
杏奈が背後に回り、ふわりが膝立ちで横に座る。
「れー君、肩こってるでしょ? いつもみんなの荷物持ってくれてるし」
「そ、そうか? あんま意識してねぇけど……」
「じゃあ、ふわりマッサージ~♡」
どすん、と柔らかい音が背中越しに伝わる。
「ふわり、ちょ、力入れすぎ!」
「え~? ふわり、そ~っとしてるのに~♡」
「そ、そ~っとじゃないって!」
後ろから杏奈がくすっと笑う。
「ねぇれー君、旅先でマッサージしてもらうなんて贅沢だね?」
「そういう問題じゃねぇよ……!」
「鈴音もやる~?」
「わ、わたしは見守りに専念しますっ!」
「えぇ~♡ リンちゃんもやろ~♡」
「む、むりですぅぅぅ!」
真っ赤になった鈴音が、慌てて牛乳を飲み干す音が響く。
「ふふっ……なんか、いつも通りだね」
杏奈がぽつりと笑った。
露天の湯気が薄れていく夜、こたつの中で肩を並べる4人。
湯の香り、雪の冷気、浴衣の袖が重なる距離感。
「旅先なのに“いつもの感じ”って、なんか安心する」
「そうだな」
「ふわりも~♡ お家みたい~♡」
「……そうですね」
鈴音もふっと微笑んで、牛乳瓶をコトンと置いた。
その静かな笑顔を見ながら、俺は少しだけ背筋を伸ばす。
(こういう瞬間が、きっと一番のご褒美だな)
夜も更けて、外は静まり返っていた。
雪はまだ止まない。窓の外では、街灯の光が白い粒を照らしている。
部屋の中は――ぬくぬくこたつ天国。
こたつの上には、旅館のサービスで出された和菓子、みかん、ポテチ。
そしてその真ん中には――例の木箱。
「ねぇねぇ、今日もやろっか♡」
杏奈が目を輝かせながら取り出した。
「出たな……恒例の悪魔ボックス」
「えへへ♪ “絶対俺だけ王様ゲーム”♡」
こたつの反対側で、ふわりが嬉しそうに拍手をする。
「れーじくんが王様で、正室を決める~♡」
「ふわりちゃん、毎回楽しそうですね……」
「うん~♡ リンちゃんも慣れてきたね~♡」
「そ、そんなことありませんっ!」
俺は苦笑しながら棒を手に取る。
「はいはい、じゃあ今日もいくぞ」
三人が同時に声を合わせた。
「「「王様れーじ君♡♡♡」」」
くじの木箱をシャカシャカと振る。
ガラガラ、と一本ずつ棒を引き抜く音が響いた。
「……お?」
手の中の棒に視線を落とした瞬間、俺は思わず声を漏らす。
先端に――真っ赤な印。
「う、うわっ! で、出ましたっ!」
鈴音が目をまん丸にして叫んだ。
「逆転ルールですっ!」
「マジか……久しぶりだな」
杏奈が身を乗り出す。
「ってことはさ……」
「そう、俺が命令する側だ」
「きゃー♡ 出たー♡ 零士様ターン!」
ふわりが拍手をしながら笑う。
「どんな命令出すの~?♡」
「ふわり、怖いくらい嬉しそうだな」
「れーじくんの命令なら~、なんでも聞いちゃうかも~♡」
「ふ、ふわりちゃん!?」
「リンちゃんもでしょ~♡」
「ち、違いますっ! 鈴音はっ……!」
顔を真っ赤にした鈴音が、みかんの皮をいじりながら俯く。
「さて、どうするかな」
俺は棒を軽く振りながら、三人の顔を順に見渡す。
杏奈は挑発的な笑み。
ふわりはとろんとした目で、まるで試すように見つめてくる。
鈴音は……口をきゅっと結び、でも目線はこっちに釘づけ。
「おお、久々だな……俺が命令する番か」
自分でも少し緊張する。
ずっと受ける側だった俺が、いざ“出す側”になると、背筋が妙に熱い。
「じゃあ――」
棒の先で三人をゆっくり指しながら、笑ってみせる。
「まずは、軽めからいこうか」
「軽めって~?」
「いや、まだ秘密だ」
杏奈が目を細める。
「れー君、それ絶対“軽め”じゃないでしょ」
「フラグが立ってるね~♡」
「や、やっぱり怖いですっ!」
こたつの中の空気が、じんわりと熱を帯びていく。
外では雪が静かに降り続き、窓ガラスを白く曇らせていた。
(――たまにはいいか。王様らしい命令ってやつを)
俺は深呼吸して、静かに宣言した。
「第33回、“絶対俺だけ王様ゲーム”。命令内容は――次回発表だ」
「えぇぇぇぇぇ!?」
「引っ張る~♡」
「そ、そんなぁぁぁっ!」
3人の抗議の声が部屋に響き、俺はこたつに沈みながら笑った。
旅の夜は、まだ始まったばかりだ。




