其九十三
かくして再び龍精は元通りになり、全ての事件は終結した。
「信重きい」は「華波葵」に戻り、飛龍精としての役目を全うすることを、陵に、そして飛龍に誓った。
その後、葵は睦月寮を後にすることに決めた。
全ての荷物をトランクに詰めた葵は、玄関に立って寮生達と向き合っていた。
「…行っちゃうんだね、葵くん。」
「はい。」
「いつでも帰っておいでね、葵くん。」
「ありがとうございます。」
「じゃあな、葵…くん。」
「呼び捨てでいいから…」
「元気でね!」
「ありがとう。」
「私達のこと…忘れないでくださいね!」
「勿論だよ。」
口々に別れの言葉を告げる中巴樹だけは口を一文字に結び、床を見つめていた。
ふいに、巴樹の頭に温かい感触が載せられる。
導かれるように巴樹が顔を上げれば、そこには優しく細められた葵の瞳が巴樹を映していた。
「あぅ、あ、葵くん…」
「…じゃあね、巴樹。」
わしゃわしゃ、と髪が搔き乱される。
それに気を取られていた巴樹がもう一度正面を向くと、もう葵は背を向けていた。
がちゃり、と、巴樹にとってはすっかり聞きなれていて、それでいて聞きたくない音が耳に届く。外の光が室内に差し込む。
気づいたときには、巴樹は、葵の大きな背中に抱き着いていた。
「…巴樹」
葵がそう名前を呼ぶと、返ってきたのは鼻をすする音。そして嗚咽だった。
「また…帰ってくるよね?」
「うん。巴樹が望むのならいつでも。」
「また、また会えるよね?」
「勿論」
そう言った葵は、もう一度優しく微笑んだ。
体を離した巴樹は葵に顔を見せようとせず、掌で涙を拭うような仕草をする。
「何も言ってくれないのかと思ったよ」
「だって…」
「よかった、巴樹とちゃんと話せて。」
そう言い残して、葵は今度こそ睦月寮を後にした。
ー
どくり、どくり。
心臓の音がうるさく響く。
住宅街のどこかで、男性は苦しそうに頭を押さえた。
ー
巴樹は、ふいに元・葵の部屋を訪れた。
虫の予感のような、そんな直感が彼女をそうさせたのだ。
巴樹が部屋に入ると、やっぱりそこには何もなかった。勿論、元々備え付けられている棚や机はそのままだったが、その部屋の主をなくした室内はがらんどうとしていてどこか寂しくも感じる。
しかし、巴樹はたった一つの違和感に気が付いた。
「あれ…なんだろう、これ。」
机の上には一枚の便箋が置かれていた。
触れて、察する。それには封印が施されている、と。
巴樹は、すっかり慣れた手つきで封印を解く。宛名は巴樹だった。
そこには、見慣れた文字で、数文だけ書かれていた。
『これを読んでいるのが巴樹だけであることを願って。』
『俺がいない間のために、巴樹に伝えておかないといけないことがある。』
ー
ふう、と息をつき、男性はゆっくりと背を伸ばした。
真っ赤な髪をかき上げ、次の瞬間、閑静だった住宅街に男の笑い声がこだまする。
「…はは、あはははは!」
お腹を、頭を、額を押さえ、笑い続ける。
どこか狂気じみたその行動に終止符を打ったのは「男」の声だった。
「お前にしては、爪が甘いのではないのか、『闇夜』」
次の瞬間、黒い霧のようなものが男性を包むように現れる。
男性は霧を一瞥もせずに払い除ける。
「うるさいなぁ、負け犬は黙っててくれない?」
オレンジの瞳がぎらり、と光った。
次の瞬間、どこからか現れた銀の刀身が霧を貫く。
「弱体化して、その程度しか実態を保てないお前を祓うのは簡単なんだからね?」
「…ふん。」
そんな声がしたそのすぐ後、霧は空に溶けていく。
ようやく邪魔者がいなくなった、というような晴れやかな表情を浮かべて、男性は大きく伸びをした。
ー
葵からの手紙はこう続いていた。
『二つの記憶が混ざったことではっきりと分かったことがある。』
『気を付けて。この世界に、』
神霊 佐久という人間は存在しない。
「…え、どういうこと?」
ぽつり、と巴樹は言葉を漏らす。
手紙がぽとりと手から滑り落ちた。
それは、元通りの世界などではなかった。
「あぁ…やっぱり空気は気持ちいなぁ!あんまりにも気持ちよすぎて___ぶっ壊したくなる。」
そう言って、"男性"は…"神霊 佐久"はからからと笑う。
オレンジの瞳はすっかり濁り、三日月のように唇を歪ませた。




