最終話 ほろほろ日乗
よろず料理店の木戸から入る風は、すっかり春の気配を帯びていた。
店内には穏やかな薪の香りが漂っている。
結は、慣れた手つきでカウンターを磨きながら、店内を見渡した。
伊織のいた頃とは違う、静かで深い安堵感が、この店には満ちている。
結の料理と同じだ。
強く主張しなくても、そこに確かな存在感がある。
「女将」
厨房から声がかかる。
結の視線の先には、若く真面目な顔の青年が立っていた。
美月が書いた「強制的な許し」というタイトルの記事を読んで、数年前に「この静けさの正体を知りたい」と飛び込んできた、初めての弟子だった。
「はい、お出汁、今日は少しだけ甘みを抑えてみて。蕪の甘さが勝つから」
結の声は、以前よりも低く、落ち着いている。
誰も彼女を「伊織の代わり」とは言わなくなった。
彼女は完全に、二代目「よろず料理店」の女将、結として、この場所を彼女自身の静けさで満たしている。
結は、営業を終えた店内で、ふと、カウンターの隅に置かれた小さな木箱に目をやった。
伊織が残した、「日乗」と書かれた古い料理日誌だ。
伊織から店を継いだ日の、鉛のように重い空気。
初めてお客から「優しすぎる」と酷評された日の、手の震え。
そして、あの批評家、美月との再会。
美月が最後に残した言葉が、結の進むべき道を決定づけた。
「あなたは、私の鎧を、強さではなく、静けさで解いた。あなた自身の強さなのね」
優しさは、甘さや妥協ではない。
それは、最高の技術と、相手の心の奥底を見通す許容性から生まれる、最も静かで、最も強固な力なのだと知った。
それ以来、結の料理は、誰かを癒すことを目的としながらも、一切のブレがなくなった。
それは、優しさを貫くための、鉄のような決意だった。
振り返れば、よろず料理店は、ただの料理店ではない。
伊織と結、二人の「料理」が、時間を超えて繋がり、多くの人々の心と心とを繋ぎとめてきた、結び目だった。
結は立ち上がり、店を出るため木戸に手をかけた。
そのとき、店の上部に掲げられた、伊織の丁寧な筆跡の「よろず料理店」の看板を見上げた。
伊織の魂は、この看板に宿っている。
そして、彼女が築き上げた、誰もが戻れる温かい居場所は、今、結の料理という形で息づいている。
「ありがとう、伊織さん」
心の中で伊織に感謝を告げ、結は静かに木戸を開け、外の冷たい空気に一歩踏み出した。
――私たちが綴ってきた日乗は、ここで一つの結びを迎える――
結は、新しい一日に向かって歩き出す。
よろず料理店の暖かな灯りは、消えることなく、ただ静かに、次の朝を待っていた。
了




