109.
どこでもない場所に、闇があった。
壁も床も天井もない。
ただ、分厚い闇だけがある。
その中心に、それはいた。
無数の鎖が、四方八方から伸びている。
岩に、空間そのものに、あるいは何も見えない虚空に根を張り、一つの存在をがんじがらめに縛り上げていた。
災禍。
名を持つ者は少ない。
知る者はさらに少ない。
だがこの国に生きる妖魔たちは、本能でわかっていた。
あれは、触れてはならないものだと。
「……失敗、か」
声は低く、静かだった。
女の声だった。
怒鳴るわけでも、嘆くわけでもない。
ただ、事実を確認するような口調。
それが余計に、重かった。
鎖の外、闇の縁に人影があった。
若い男だった。
すらりとした長身に、仕立てのいい着物を無造作に羽織っている。
腰には道具袋。
顔には、薄い笑み。
七福塵。
妖刀を生み出した男。
この国で最も危険な魔道具師と呼ばれる者。
「失敗、ですねえ」
男は他人事のように繰り返した。
「まったく、困ったものです。あの二人にはそれなりの仕事をしてもらうつもりだったんですが」
「七福塵」
災禍が口を開いた。
鎖がぴんと張る。
「奴は、どこにいる」
「東京ですよ。元気にしています。今頃、女の子たちと仲良くやってるんじゃないですかねえ」
男は楽しそうに言った。
まるで、知り合いの近況を話すような気軽さで。
「なぜ連れてこない」
「連れてこれるなら、最初からそうしてますよ。あの子は、ちょっと規格外すぎる」
七福塵は肩をすくめた。
「妖刀使いを二人ぶつけて、あの結果です。正面からやり合って勝てる手駒が、今のわたしにはいない。それだけの話」
「ならば、策を練れ」
「練ってますよ、ちゃんと」
男は懐に手を入れ、小さな瓶を取り出した。
中に、どろりとした黒い液体が揺れている。
「はい、今日の分」
瓶を鎖の隙間から転がした。
瓶は闇の中に消え、やがて低い音が響いた。
災禍が、息を詰める。
「……貴様」
「なんですか」
「わかっていてやっている」
「何がですか?」
七福塵は首を傾けた。
顔には、ずっと同じ薄い笑みが張りついている。
わかっていた。
もちろん、わかっていた。
あの瓶の中身は、災禍の呪力を凝縮したものだ。
外に漏れ出た呪力を回収し、瓶に詰めて返す。
一見すれば親切にも見える行為だが、実態は違う。
自分の呪力を目の前に突きつけられた災禍は、本能的に取り戻そうとする。
取り戻そうとすれば、呪力があふれる。
あふれれば、また回収できる。
苛立てば苛立つほど、呪力は増す。
「あなたはわたしの大事なお得意様です。それ以上でも、それ以下でもない」
七福塵はさらりと言った。
「それより、次の手の話をしましょう」
男は懐から一枚の紙を取り出した。
「正面から取りに行くのは、現状では無理です。だから、奴の方から来てもらう」
「……どういうことだ」
「大阪に来ますよ、あの子は。関西支部の件がありますからねえ」
災禍が黙った。
「大阪で上手いことやれば、奴を手に入れる機会くらいは作れる。まあ、保証はしませんが」
「保証できないものを策と呼ぶな」
「策というのは、どれも保証できないものですよ」
七福塵はあっさりと言い、道具袋を軽く叩いた。
「待っていてください。わたしが動きます」
男の姿が、闇に溶けていく。
最後まで、笑っていた。
残されたのは、鎖と、女と、静寂だけだった。
しばらくして、低い声が闇に響いた。
「……必ず来い、霧ヶ峰悠仁」
鎖が軋む。
封印は、まだ解けない。
だが、少しずつ、確実に、何かが動きはじめていた。




