継姉、初めての「おねえちゃん」に涙する
朝の光が、ふわりと薄いカーテン越しに差し込んでいた。
公爵家の一室――天蓋付きのベッドに身を横たえていたリセルは、静かに目を開ける。整った天井の装飾を見つめながら、ひとつ深く息を吐いた。
「……おはよう、今日もちゃんと朝が来たね」
昨日の記憶が、胸の奥にあたたかく広がる。
机に向かい、紙芝居のような即席の絵本を開いたときの二人の瞳。
セラフィオスが初めて自分の意志で椅子に座り、物語を追いかけてくれたこと。
セラフィーが、か細い声で「おともだち……?」と囁いたこと。
あの小さな一歩が、どれだけ大きな意味を持つのか、リセルには痛いほど分かっていた。
ほんの少し前まで、あの子たちは世界に背を向けるように、扉の影に隠れていたのだから。
「……少しずつでいい。あの子たちが、自分の言葉で世界と繋がれるようになってくれたら、それだけで」
言葉にすればするほど、胸にじんと沁みる。
この気持ちは、きっと前世の記憶だけでは説明できない。
この世界に来て、また子どもと向き合える日々が訪れるなんて――いや、それよりも。
あの二人が、初めて自分を見てくれた、あの瞬間。あれが、嬉しくてたまらなかった。
「やっぱり……二人は天使だわ」
心からそう思った。純粋で、儚くて、誰よりも守ってあげたい存在。
たとえ血のつながりがなくても、今の自分にとっては、世界で一番大切な弟と妹。
「前世の私が見たら……泣くかもね」
そっと起き上がり、鏡台の前に腰を下ろす。
鏡に映る自分の顔を整えながら、リセルは静かに思う。
この家はまだ、閉じたままだ。
でも、扉の隙間から差し込んだ昨日の光を、私は決して手放さない。
「今日も会えるかな。もっと笑ってくれたらいいな……新しい絵本も、喜んでくれるといいけど」
小さく自分に言い聞かせるように囁くと、リセルは髪を結い直し、整った身なりで窓辺に立った。
朝露に濡れた庭が光を受けて、宝石のように輝いている。
今日という一日も、あの子たちの記憶に、あたたかなものとして刻まれますように――
そう願いながら、リセルはそっと瞳を閉じた。
昨日、セラフィーが小さな声で「おともだち……?」とつぶやいた瞬間が、リセルの胸に焼き付いていた。
たったひとこと。それだけのことなのに、涙が出そうになるほど嬉しかった。
(あの子が、言葉を……。心を、少しだけでも開いてくれた)
今日は、その続きを見せてもらえるかもしれない。
その期待が、足取りを自然と軽くしていた。
「リセル様、あの……少し、よろしいでしょうか」
廊下の角で声をかけてきたのは、双子の身の回りを見ている年配の使用人だった。
丁寧に頭を下げながらも、その声音にはどこか頼るような色が混じっている。
「私事で申し訳ありませんが……セラフィオス様とセラフィー様のこと、どうか、これからも見て差し上げていただけないでしょうか」
「えっ……私が?」
リセルは少し驚いた顔を見せる。
公爵家の人間でもない自分に、そんなことを任せていいのだろうか――そう思う気持ちが胸をかすめた。
「もちろん、ご負担になるようでしたら……ですが、昨日のあと、セラフィー様が……ほんの少し、笑われたのです」
使用人の声がわずかに震える。
「セラフィオス様とセラフィー様が、あのように楽しげなお顔をされたのは……この屋敷に仕えて以来、初めてでした」
その言葉に、リセルの胸が熱くなる。
(……本当に、少しずつだけど、届いてる)
「わかりました。私にできることなら、喜んで」
そっと胸元に抱えていた自作の絵本を見下ろし、リセルは優しく微笑んだ。
今日はこの絵本を使って、もっと心の距離を縮めたい。
やがて、子ども部屋の前にたどり着く。
軽くノックして扉を開けると、昨日と同じようにセラフィオスが妹を庇うようにして立っていた。
だがその瞳の奥には、確かにわずかな“余裕”が芽生えている。
「おはよう。今日はね、あなたたちにひとつ、また新しいお話を読んであげたくて来たの」
リセルはやさしく語りかけながら部屋に入り、椅子に腰かけ、膝に絵本を置いた。
ふたりはすぐには動かない。けれど、視線だけは絵本に向けられている。
「このお話はね、あるお城の花壇で生まれた、小さな芽のお話なんだよ」
語りかけながらページをめくると、つたないが色彩豊かな花と芽の絵が現れる。
ページをめくるたび、ふたりの瞳が、ほんの少しずつ近づいてくる。
まだ完全には心を許していない。けれど、その奥には、確かな“好奇心”の火が灯り始めていた。
(あと少し。もう一歩だけ)
リセルは心の中でそっとそう願いながら、物語をやさしく語り続けた。
絵本を読み終えたあと、リセルはそっとページを閉じた。
「……これでおしまい。どうだったかな?」
返事はない。けれど、部屋には昨日とはまるで違う空気が流れていた。
セラフィオスは妹の手を取り、そっと前に出る。
セラフィーもためらいながら、小さな足で一歩だけ踏み出す。
そのまま、立ち止まる。
リセルが優しく微笑み、膝をついて目線を合わせたその時だった。
「……リ、セル、は……おね……ちゃ……?」
ひとことずつ、舌足らずに、でも確かに紡がれた言葉。
セラフィーの大きな瞳がリセルをまっすぐに見つめていた。
リセルの心臓が、跳ねた。
「……!」
けれど言葉を返すよりも早く、隣にいたセラフィオスが静かに頷く。
「そうだよ、セラフィー。リセルは、僕たちのお姉ちゃんなんだよ」
その言葉に、セラフィーが一瞬きょとんとして、次の瞬間――
「お、ねえ、ちゃっ……!!」
はっきりと、力強く呼んだ。
その瞬間、リセルの視界が涙でにじんだ。
「……うん。そうだよ、セラフィーちゃん。私は、お姉ちゃんだよ」
震える声でそう言いながら、小さな体をそっと抱きしめた。
セラフィーは驚いたように固まったが、すぐに――ぎゅっ、とリセルの服をつかんだ。
扉の陰で見守っていた使用人が、そっと手を口元にあて、目頭を押さえた。
静かな、けれど温かい感情が、部屋中に満ちていた。
そして、そんな二人の様子を見ていたセラフィオスも、ほんの少しだけ、唇の端をやわらかくほころばせた。
セラフィーの叫ぶような声が、部屋の中に響いた。
「お、ねえ、ちゃっ……!!」
その瞳には涙が浮かび、言葉の震えとは裏腹に、胸の奥から湧き上がるような真っすぐな感情が宿っていた。
リセルはその小さな体をぎゅっと抱きしめる。
「うん……お姉ちゃんだよ。セラフィーの、お姉ちゃん」
そう答えた瞬間、セラフィオスもリセルの隣にそっと寄ってきた。
妹の頭に優しく手を添えて、静かに笑う。
「よかったね、セラフィー。……これで、僕たちのお姉ちゃんができたね」
――その光景を、誰かが扉の外から見つめていた。
扉の少し奥、廊下に身を寄せていた数人の使用人たち。
誰も声を出さず、ただ息をひそめ、目の前の奇跡に言葉を失っていた。
「……セラフィー様が、自分から……」
ひとりがつぶやくように言うと、隣の年配の侍女がそっと手で口元を覆った。
「ほんの一週間前まで……おふたりとも、誰の言葉にも反応を示されなかったのに……」
「まるで……春が来たみたいね」
涙ぐむ者、胸に手を当てる者、言葉もなくただ頷く者。
その表情は、どこか救われたような安堵に満ちていた。
先ほどリセルに声をかけた老女の使用人が、そっと前へ出てくる。
リセルと双子たちのやりとりを見届けると、深々と頭を下げた。
「リセル様……。本当に……ありがとうございます。あのような笑顔を、私たちは一度も見たことがございませんでした……」
「……私、なにも大したことはしていません。ただ……」
リセルは腕の中のセラフィーを優しく揺らしながら、言葉を続けた。
「“あの子たちが笑ってくれたらいいな”って、そう思っただけなんです」
その言葉に、使用人たちは静かに微笑み、再び深く礼をした。
やがて、セラフィーがぱちぱちと瞬きをしながらリセルを見上げる。
その視線はどこまでもまっすぐで、迷いも恐れもなかった。
「お、おね……ちゃ……」
「ふふっ。そう、リセルお姉ちゃん、だよ」
再び名前を呼ばれたリセルは、胸の奥に温かいものがじわりと広がるのを感じた。
(守らなきゃ。この子たちを)
(この子たちの小さな世界が、ちゃんと広がっていくように)
それは、命を預かる者としての責任でもあり、
何よりも――この屋敷でたったひとり、真に求められた証だった。
(私は……この子たちの、居場所になる)