継姉、愛のない育児に真っ向から異を唱える
朝の静けさがまだ屋敷の廊下を包んでいたころ、リセルの部屋の扉がそっとノックされた。
「……失礼いたします、リセルお嬢様」
入ってきたのは、公爵家に仕える年配の執事だった。きちんと整えられた銀髪と、背筋の伸びた立ち居振る舞いに、この家で長く仕えてきた重みがにじんでいる。
リセルは椅子から立ち上がり、静かに会釈した。
「おはようございます、……お名前を、まだ伺っていませんでしたね」
「これは失礼いたしました。私は、執事のエルネストと申します」
丁寧に一礼したあと、エルネストは静かに切り出した。
「今朝は……少しだけ、お話をさせていただきたくて参りました。あくまで、私個人の思いとしてお聞きいただければ幸いです」
「……わかりました。どうぞ」
リセルが促すと、エルネストは深く息をつき、どこか苦しげな表情で言葉を紡ぎ始めた。
「公爵様――いえ、御当主は……ああ見えて、本来はとてもお優しい方なのです。若い頃は、使用人にも、家族にも、穏やかに接しておられた……」
リセルは無言で耳を傾けた。
「ですが……ある時から、何かが変わられた。心の奥底に、深く傷を負われたように。それが何かを申し上げるのは控えますが……その傷が、今の冷たさを生んでしまっているのではないかと、私どもは思っております」
「……それでも、あの冷たさが正当化されるわけではありません」
リセルの声は静かだったが、揺るぎなかった。
エルネストはすぐに頷く。
「まったくもってその通りでございます。ですが……私たち使用人には、御当主のご命令には逆らえません。そしてその中で、セラフィオス様、セラフィー様にも……本来あってはならぬ寂しい思いを、させてしまっていたこと……私たちも、決して平然としていられるわけではないのです」
その言葉に、リセルの胸がわずかに揺れる。
「それでも――あなた様が来てくださったこと。あのお二人に、真っ直ぐな愛情を注いでくださっていること。本当に、感謝しております」
エルネストは深く、まるで一礼では済まぬというように、丁寧に頭を下げた。
「今はまだ、表立って動ける立場にはございません。しかし、私どもは……決して、お嬢様を悪いようには思っておりません。それだけは、どうか……ご承知いただければと」
リセルは数瞬、何も言わずにその姿を見つめていた。
やがて、ゆっくりと歩み寄り、彼の言葉に応えるように小さく頷いた。
「……ありがとうございます。お気持ち、しかと受け取りました」
その瞬間、静かな信頼の糸が、確かに一本――リセルの背後に結ばれた。
リセルが子ども部屋へ向かうと、セラフィーとセラフィオスが布の積み木を並べていた。彼女が部屋に入ると、ふたりは顔を上げて笑みを浮かべる。
「おかえりなさい、お姉ちゃん」
「これね、おうちつくってたの!」
「あら、上手にできてるわね」
リセルが膝をついて一緒に積み木を眺めていると、扉が再び控えめにノックされた。
「失礼いたします。……朝のお食事を、お部屋の方へお持ちいたしました」
入ってきたのは、これまでほとんど目を合わせることのなかった若い女中だった。彼女は銀のワゴンを押しながら、どこか緊張した面持ちで、しかし丁寧に微笑みを浮かべていた。
「……あの、セラフィオス様、セラフィー様。お食事、お口に合うといいのですが……パンは少し温かいままご用意しました。柔らかくしておりますので、どうぞ召し上がってください」
女中がセラフィーにそっとスープ皿を差し出すと、セラフィーは驚いたように目を見開いた。
「やさしい……」
セラフィオスも、女中の顔をちらりと見て、小さく「ありがとう」と呟いた。
(……今までのあの子たちなら、こんなに素直にお礼なんて言えなかったはず)
リセルはふたりの変化に目を細めながら、同時に女中の表情の揺れを見逃さなかった。あどけない子どもたちからの純粋な感謝は、確かに彼女の心に何かを残したのだろう。
「配膳を終えたらすぐに下がりますので、何かご入用の際は呼び鈴を鳴らしていただければ……!」
慌てたように言って一礼し、女中は部屋を後にした。
その日の午後、リセルが廊下を歩いていると、すれ違った別の使用人――年配の皿洗い係が、小さく会釈をしてきた。
「お、お嬢様。……よく、お手伝いされていると伺っております。お身体に気をつけて」
「ありがとうございます。そちらこそ、いつもお仕事お疲れ様です」
リセルが丁寧に返すと、使用人は驚いたような顔をし、次の瞬間、ほんの少しだけ笑った。
(……変わってきてる)
目立つほどではない。けれど、たしかに――この屋敷の空気が、少しだけやわらかくなっていた。
子ども部屋を出て、リセルが廊下を曲がると、角の向こうからずんずんとした足音が響いた。
「……リセルお嬢様、ちょっとお話がございます」
中年の女性――乳母のセシリアが、腕を組んで立ちはだかった。鋭い眼差しには、明らかな敵意と――それ以上に深い、苛立ちが滲んでいた。
「あなたがいらしてからというもの、セラフィオス様とセラフィー様は、まるで別人のように……情緒不安定になられて」
「……情緒不安定? 私には、ようやく“笑う”ようになったように見えましたが」
「“笑う”のと“はしゃぐ”のは違います。お立場をわきまえず、庭を駆け回るような真似は、決して誉められたものではありません!」
セシリアの声は鋭く、壁に反響した。
だがリセルは、怯まなかった。むしろ、相手の言葉の裏にある「怒りの質」に気づく。
(……これは、無関心な人の怒りじゃない)
リセルはゆっくりと息を吸い、目を伏せずに言った。
「セシリア様。あなたは、あの子たちのことを本当に心配していたのですね」
セシリアの眉がわずかに動いた。
「……何を、今さら」
「ずっと、公爵様の目を気にして、“できる範囲”でお世話してくださっていたのでしょう?外で騒げば叱られる。目立てば咎められる。――だから、あの子たちには“静かにしていること”だけが正しいと教えた。そうではありませんか?」
沈黙。
廊下に、微かな風の音だけが流れた。
やがてセシリアは、少しだけ視線を逸らしながら言った。
「……あなたには、まだおわかりにならない。あのお方は、優しい方だった。でも、奥様とのことがあってからは……あの子たちに目を向けることもおできにならなくなったのです」
「……ええ。聞いています」
リセルは一歩前に出た。
「でも、それは“大人”の事情です。セラフィオスもセラフィーも、“ただ子ども”なんです。彼らには、そんな過去も政治も関係ない。ただ――“大人に見守ってほしい”だけなんです」
セシリアの目がわずかに潤んだ。だが、その表情はまだ硬い。
「私には……あの子たちに、何もしてやれませんでした。守ってきたつもりでも……私は、公爵様の命令には逆らえなかった」
「だから、矢面に立つのは、私がやります」
きっぱりとした声。
「私は、公爵様にも、母にも気に入られてはいません。だったら、私が動いて咎められる分には、構いません。あなたまで矢面に立つ必要はありません」
「……無茶をなさいますね」
「いいえ。私にできることをするだけです。でも、もしあなたが――あの子たちを本当に思ってくださるのなら、私の“味方”になっていただけませんか?
それに、私は……この歳ですし、正直なところ、子育ての経験はありません。だから、あなたのように長く現場を見てきた方の知識を、貸していただけるだけでも本当に助かるのです」
セシリアはしばらく無言でリセルを見つめ、やがて深く息を吐いた。
「……まずは、“お手並み拝見”といきましょう。私は……何も約束はしません。でも……あなたの目は、うそをついていないように見える」
その言葉を受けて、リセルは初めて少しだけ微笑んだ。




