1、田村エリシュカの場合
「いっけなーい!遅刻遅刻ぅー!」
様式美、出落ち、お約束。
数々の主人公が吐いたとか吐かないとかいう台詞が、何故か自分の口から出ている。
口に咥えているのは食パンではなくシュトレンである。お洒落感は漂わせる癖に、丸かじりしているのだから冗談ではない。この体は朝からどれだけのカロリーを摂取する気だ。どこのドイツのクリスマスだ。
そう文句を付けたくなるが、飲み物も無しに順調にシュトレンを食べ進めていく大食少女こそが、花村エリーが体を間借りしている高校生の少女、田村エリシュカである。
(またエリシュカか…)
名前の既視感にマイヤーズだった彼女の最後を思い出して悲しくなったが、高校生に成り立ての田村エリシュカは走って学校へ向かっているらしい。走りながらシュトレンを水なしで完食した強者っぷりに、意味もなく震えたくなる。
「私の名前は田村エリシュカ、十五歳!お金持ちが集まる名門学校、園時学園に入学したばかりなの」
走りながら突如喋りだしたエリシュカに、中のエリーは絶句した。
(え、なに怖、誰も聞いてないのに喋ってる…。なにこの子、怖っ…)
「それで、今日は待ちに待った入学式の日!楽しみにしていたのにお母さんが寝坊しちゃってもう大変!急いでシュトレンを咥えて出てきたの」
(あ、これあれだ!なんかプロローグ的なやつ!漫画とかドラマとかの導入のやつだ!でもやっぱりシュトレンをチョイスする辺り変だぞこの子!)
頭を抱えてしゃがみ込みたい衝動に駈られるが、エリシュカは先程から止まる気配が全くない。というか、もう長い距離を白塗りの壁に沿って走っている。もしかせずとも、壁の向こうは園時学園の敷地なのではなかろうか。
「はあ、もう疲れちゃう!今日は同じ学校に通う生徒会に所属するお兄ちゃんに自転車を貸しちゃったから走るしかないのに!」
(出たよ、生徒会所属。こういう学園ドラマによくある展開だけど、世間一般の生徒会って一体どんな権力を持っているんだ…)
遡る花村エリーの学生時の記憶で、生徒会が目立った活動をしていたか覚えがない。エリーの記憶にないだけで、実は華々しく活躍していたのかもしれないが。
(お金持ちが集まるって前提の学校に自転車通学…目立つだろうなあ…)
逆流性食道炎に悩まされたエリーの胃腸とは違う強靭なものを持っているエリシュカは、食事を終えたばかりで速度も落とさず走る足を回す。
他人事のように思いを馳せたエリーは、びゅんびゅんと視界を流れていく白い壁を横目に己の身になにが起きているのかを思い返してみた。
ほの暗い部屋と、天井近くまで伸びた大きな棚。なにが入っているのか予測もつかないが、臙脂色のローブの人物が蝋燭を光源にしていたことから少なくとも現代日本の生活水準からは外れていると思った。
(あの大釜も、まるでおとぎ話に出てくる魔女のものみたいだった)
部屋に居たのは魔女ではなく、猫背が特徴の怪しい人物ひとりだった。あれが魔女なのかもしれない。
(じゃあ、あれを魔女と仮定するとして、どうして私は釜の上に吊るされていたのかしら)
大釜の中にエリーも投入される意味を考えて、己の勘の良さに絶句した。世の中、気付かない方が幸せだったことも存在しているのだ。
(私も材料だったのか…)
一体どう転べば、魔女の大釜に投入される人生を予想出来よう。花村エリーという人間の終着点の無情さは、思わず一句詠みそうになる。
(でも待てよ。大体、どうして私はあんな風に宙吊りにされていたんだろう。私は…ええと、確か、夜…あれ?思い出せない…)
花村エリー自身について思い出せる範囲に偏りがあることに気が付いた。ふっと湧いてくる記憶に手を伸ばしても、まるで霞を掴まされたような錯覚に陥るのだ。
何故思い出せないのかは分からない。ただ、分からないことがエリーには存在しているという事実を確認出来たことは大きな収穫だった。
(少しずつでも思い出さなきゃ…どうして私が宙吊りに遭わなきゃならないのか、とか…)
一度思考に区切りを付けたのは、走るエリシュカの前に高さ十メートルはある大掛かりな装飾の付いた金色に輝く門が見えたからだった。
(金持ち学校ってすごいえげつな…)
呆然とするエリーを置いて、エリシュカはその門目指してひた走る。あれが園時学園高等部の正門だと知っているからだ。
(あれ、本物の金とかだったらどうしよう…)
純金ではなくても、いくらか混ぜられていそうな気がした。あまり考えては庶民的なエリーの思考に負荷が掛かる。ここは大人しくエリシュカのするがままに従っておくのが楽かもしれない。
正門を前方右手に見ていたエリシュカが顔を上げれば、広大な敷地面積を有する学園の中でも一際凝った外観の時計塔が立っている。
時刻は八時ちょっと前。
これならば余裕を持って入学式に挑めそうだ。
(遅刻って言いたかっただけの可能性が生まれたな…)
田村エリシュカという少女が模範的な少女漫画に憧れを抱いていて、気分だけでも味わってみたかったのかもしれない。中学生気分の抜けない夢見がちな空想家タイプにはよくある妄想癖だ。
(っ、ああ…黒歴史黒歴史…)
エリシュカの中のエリーが遠い目をした所で、正門の前から歩道にかけて一列に並ぶ新入生の黒い頭に気が付いた。大人しく列からはみ出さない彼等を横目に、エリシュカは速度を落とさず駆けていく。
(あ、あれ?エリシュカも並んどいた方がいいんじゃないの?)
真新しい薄緑のボレロタイプの制服に身を包む女子生徒達や同色の詰襟タイプの制服を纏う男子生徒達が、並ばず走り抜けようとしているエリシュカの姿にざわつき始めている。やはりここは大人しく並んだ方が良さそうだ。
そう思ってシュトレンのカロリーを着実に燃焼させていく体を止めようとするが、間の悪いことにエリシュカは正門の傍で佇む眼鏡を掛けた柔和な微笑みを浮かべる人物に気付いてしまった。
(あ、待て待てエリシュカ、ストップ!ステイ!)
マイヤーズのエリシュカと違い、エリーの思考も反映されない田村エリシュカはまた走る速度を上げる。このエリシュカは一体どれだけ体力が有り余っているのだろうか。
「お兄ちゃーん!」
大きく手を振る妹に気付いた兄は、目を見開いて両手を振っている。それを見たエリシュカが、内心兄の仕草にときめいたことはエリーにも分かった。
分かったが多分、エリーは兄が止まれとジェスチャーしたことも理解していた。しかし、相変わらず体の主導権はエリシュカにある。
(ああ、これは突っ込んでいくのか、行くのか田村エリシュカよ…)
なされるがままに他人事のように思ったエリーは、お行儀よく一列に並んでざわつく生徒達と、制止する兄の声が右から左に抜けていく猪少女を見守る。
「待ってエリシュカ!ストップ、ストップ!」
いつもはのほほんと小春日和に縁側で緑茶片手に日光浴をしているような爺臭い兄が慌てている。珍しいこともあるものだとエリシュカは思ったのだろう。耳を貸さぬまま、エリシュカはついに正門を跨いだ。
「あ、あ…ああ…遅かった…」
エリシュカが正門を跨いだ時、同じ瞬間に足を踏み入れた男子生徒が一人いた。
園時学園入学式の日、新入生は一人ずつ正門をくぐらねばならないという校則があることを、猪少女は失念していた。
「へ?」
素っ頓狂な声の後、時計塔の上部にある大きな鐘が狂ったように鳴らされて、次の瞬間空が鳴った。
「エリシュカ…お馬鹿さん」
深い溜め息を吐いた兄の言葉の後、どういう訳かエリシュカは雷に打たれてその場に倒れた。
(何事だこれ…!)
置いてけぼりを食らったエリーも、エリシュカに伴うように意識を手放し闇に落ちた。