第4話
「うわぁ、おっきい建物……」
目の前に聳える、未だかつて見たことがない立派なお屋敷を見て、思わず呟いた。ぽかん、と口を開けたままのわたしの肩を、隣に立つファレンデールちゃんがトントンと叩き、ハッとする。いけない、間抜けな顔を晒してしまった。
「ではエウリカ、わらわは中に入るからの。少しの間、気をつけるのだぞ」
「うん、行ってらっしゃい」
「くれぐれも、くれぐれも、見知らぬ人に着いて行くのではないぞ」
「いくらわたしでも大丈夫だよ、ファレンデールちゃん」
笑顔のわたしとは違い、ファレンデールちゃんは不安で不安で仕方がないという顔だ。そんなに信用ないのかな、わたし!
しぶしぶ、といった様子で屋敷の中に入っていったファレンデールちゃんを手を振って見送り、さて、と仕切りなおす。
今、わたしはファレンデールちゃんに誘われて、交易都市であるレセンタに来ていた。ファレンデールちゃんのもとに遊びに行ったら、どうしてもこの街に用があって外出するというので、誘われるがままについてきたのだ。村からレセンタまでは王都を越えて更に進まねばならず、馬車を乗り継いで10日はかかるため、訪れたことのある村人はほとんどいない。そこをなんと、ファレンデールちゃんにかかれば魔法でひとっ飛びなのである。曰く、交易が盛んなこの街は、彼女の縄張りに含めてあるのだそうだ。
そんなこんなで、初めて訪れた街、そして二度と訪れることができないかもしれない街に、わたしは大興奮である。一緒に行動しようというファレンデールちゃんにこれでもかと頼み込み、彼女が用を済ましている間、わたしは自由時間を得た。さて、なにをしようか!
街外れにある豪邸から中心部へと戻ると、人々の活気が一気に増した。あちこちから客を呼ぶ声が聞こえ、食欲をそそる匂いで溢れかえっている。
わたしは意気揚々とメインストリートに足を踏み入れた。あれもこれも食べてやるのだ!
ーーーそう思っていた頃もありました、ええ、つい数分前までは。
なんと、経験したことのない人の多さに、わたしは瞬時に人酔いしてしまった。何も得ないままでは帰らない!と無理やり目についた露天の食べ物を買ったものの、一口食べたら症状が悪化し、よろめきながら街外れの木陰へと避難した。こんなはずではなかったのに、なんとも口惜しい。
如何せん、この気温もわたしの邪魔をする。村とは何度違うのか分からないくらい、この街は暑かった。
ぱたぱたと手で仰ぎつつ、悔しく思いながらぼんやりと人の行き交う通りを眺める。と、見覚えのある姿が視界に入った。幻かと目を凝らしたが、やはり間違いない。
「ラっ……」
ランジェさんだ、ランジェさんがいる!
仕事中ではないのか、いつもの騎士服ではなく、白のシャツに黒のスラックスというラフな格好のランジェさんが、雑踏の奥に見えた。人の隙間からちらちらと見える様子からすると、しゃがみこんで動けないおばあさんの傍で腰を折って何やら話しているようだった。何か面白いことでもあったのか、おばあさんが笑い出し、バシバシと肩を叩かれたランジェさんはなんとも言えないしかめっ面になった。どうしていいか分からない顔だな、あれは。
ふふっ、と思わず笑うと、ランジェさんがこちらを見た。思わず体が強張る。
聞こえているわけがない、この距離で聞こえているわけがない!
でも、確実に目が合った上に、睨まれている!
なぜ分かった!
とりあえず笑い返し、手を振ってみたが、より一層睨まれた。凄い、見事に逆効果である。怖い、怖いよランジェさん。
ランジェさんがあまりにもこちらを睨むので、視線の先のわたしの存在に、おばあさんも気づいたようだ。ランジェさんに一言二言話しかけたかと思うと、ランジェさんはようやくわたしから目をそらした。深い溜息をついたのが遠目にも分かる。ランジェさんが傍に屈んで後ろを向くと、おばあさんがその背におぶさった。おばあさんを背負って立ち上がったランジェさんが、こちらに向かってくる。
ーーーこちらに向かってくる?
もの凄く不機嫌そうな顔のランジェさんが近づいてくる、この恐怖。会うのはこれで3回目だというのに、わたしはすっかり恐怖を植え付けられていた。
「ラ、ランジェさんこんにちは!」
「なぜこんなところにいるのです」
挨拶には挨拶で返して欲しいです、ランジェさん。
とりあえず笑顔でした挨拶は華麗に無視されてしまったので、わたしは大人しく質問に答えることにした。不機嫌なランジェさんには逆らわぬが吉。
「ファレンデールちゃんの仕事の付き添ーーー」
「あれあれなんとまぁ可愛らしいお嬢さんだこと!」
わたしの言葉を遮ったのは、ランジェさんの背に乗ったままのおばあさんだ。降ろしてくれ、といってランジェさんの肩を叩く。ランジェさんの顔がまたさらに歪んだ。
おばあさん、ランジェさんをそれ以上刺激しないでください。被害を被るのは恐らくわたしです。
「こんな良い男と知り合いとは、中々やるねぇ!」
「は、え、あの」
「このお兄ちゃんたら、動けない私にさっと声をかけてくれてねぇ! おまけに、木陰に行きたいと言ったらここまで背負ってくれて、優しい男だよ! しっかりものにするんだよ!」
「えっ、あ、え」
豪快に笑いながら、おばあさんは尚もランジェさんの背を叩く。あまりの強さにランジェさんが小さく噎せた。
やめておばあさん、それ以上は命の危険を感じます。主にわたしが。ランジェさんが帯剣していないことだけが救いだ。
話の内容も内容な上、口を挟む隙を与えずに話し続けるおばあさんに、たじろいて何も言葉を返せない。
というか、おばあさんはすっかり自力で立っているけれど、先ほどまでの具合の悪さは何処へいったのだろうか。
「お兄ちゃん、ありがとねぇ。少し木陰に来ただけで楽になったよ」
「…………」
「そ、そうですか、よかったですね!」
何も言葉を返さないランジェさんの代わりに、わたしが返事をする。やっとでまともな文が話せた。
「お嬢ちゃん、見たところこの街の子じゃないね?」
「はい、初めて来たんです」
「そうかいそうかい! レセンタはいいところだろう? 存分に楽しんでいっておくれ、この街を代表して私が歓迎するよ!」
「ありがとうございます」
にこにこと笑いながら、おばあさんがわたしを抱きしめてきた。先ほどはランジェさんをしきりに叩いていたし、スキンシップが過激なおばあさんだ。急に抱きつかれて少したじろぎつつも、歓迎してくれているというのが全面に伝わってくるのも嬉しく、わたしも笑顔でおばあさんを抱きしめ返す。
と、いきなりおばあさんがわたしから引き離された。引き離したランジェさんをポカンと見つめると、彼はそのままおばあさんの手を捻り上げてしまう。
「痛い痛い痛い! やめとくれ! な、なにをするんだい!」
「その手にあるものはなんです」
捻り上げられたおばあさんの手を見ると、そこには見覚えのある小袋が。って、あれ、あれは。
ーーーわたしの財布!
「私の目の前で盗みを働くとは、いい度胸ですね」
「し、知らない! 手に引っかかっただけだよ! 放しとくれ!」
「煩い」
絶対零度の声音で、ランジェさんがおばあさんを睨みつける。痛い痛いと喚いていたおばあさんもさすがに押し黙った。いくら道の中心から外れた木陰とはいえ、おばあさんの声を聞きつけ、街の人がパラパラと集まってくる。
ランジェさんは、おばあさんを拘束していない方の手で、空に三角を描いた。すると程なくして、人混みの中から男性が数人駆け寄ってきた。
「ランジェ様、遅くなりました」
「この者を捕らえなさい。現行犯です。お前たちが騒いでいた人物でしょう」
「はっ。ご協力、感謝いたします」
やってきた男性と事務的に会話し、ランジェさんがおばあさんを引き渡す。おばあさんは手を縛られると、観念したのか大人しく男性たちに連れられて行った。最後に残った1人も、ランジェさんに敬礼をすると、先に行った者の後を追っていく。
「何を間抜けな顔をしているのです」
全ての出来事が一瞬で片付き、呆気にとられて開いた口が塞がっていなかったわたしに、ランジェさんがおばあさんから取り返した財布を渡してきた。慌てて受け取り、しっかりと握りしめる。
「あ、ありがとうございます、ランジェさん」
へらり、と笑うと、ランジェさんが眉間に皺を寄せた。
「エウリカ、あなたは馬鹿ですか?」
「へっ?」
「ああ、愚問でしたね。あなたは馬鹿だ、馬鹿」
ランジェさんが深い溜息をつく。そんなに馬鹿馬鹿言わなくても!
「ここは村とは違うのです。分かりやすいところに財布を持つのはやめなさい。他人に接触されたら警戒しなさい。あなたみたいに田舎から来たのが丸わかりの女性が1人で歩くのはやめなさい。格好のカモです。根本的に、こんな街にくるのはやめなさい」
「全否定ですか!」
「当たり前でしょう。まったく、魔女は何をしているのです」
「ファレンデールちゃんは用があって、その間に街を見て回ろうかと……」
「多方、エウリカが言い出したのでしょう」
「なっ、なんで分かるんですか?」
「分かるに決まっています。あの魔女がすすんであなたを1人にするわけがない」
鋭く睨まれ、わたしは反論のために開こうとしていた口をおとなしく閉じた。ランジェさん怖い。
しかし、ランジェさんの言うことももっともだ。わたし1人では危険にも気づかず、遅かれ早かれ財布を失うことになっていたのだろう。いや、財布だけで済むのならまだましかもしれない。
「ランジェさん、さっきはありがとうございました。助かりました」
「…………いえ」
改めてお礼を述べると、ランジェさんは更に眉間の皺を増やし、視線を外した。何故だ。
この後のことを聞かれたので、ファレンデールちゃんがもうすぐ合流してくれるはずだと伝えると、それまでランジェさんが一緒にいてくれることになった。近くにベンチを見つけ、2人並んで腰掛ける。
「ランジェさんはお仕事ですか?」
「……まあ、そんなようなものです」
「そうですか、お疲れ様です」
会話はそこで途切れた。黙って時間が過ぎていくが、何故かランジェさんとは沈黙が苦に感じることもない。
「エウリカ」
本当にいい天気だなぁ、などと何とは無しに思いつつ、ぼんやりしていると、ランジェさんから話しかけられた。いつも口を開くのはわたしからだったので、なんとも珍しい。
「あなたは、私に何も尋ねてきませんね」
横を向くと、ランジェさんがこちらを見ていた。相変わらずにこりともしていないが、この距離で、これ程しっかり視線が合ったのは初めてではないだろうか。
尋ねる、とは、恐らくランジェさんの仕事であったり、身分であったり、その他諸々のことだろう。騎士ということは服装で分かってはいるけれど、その他のことを問おうとしないわたしに、ランジェさんの方から問うような瞳を向けてきた。
「確かに、わたしがはっきりランジェさんから教えてもらったのは、ランジェさんのお名前だけですけど」
「そうですね。不審でしかないでしょうに」
「でも、悪い人じゃないってことは、見てたら分かりますから。ランジェさんはランジェさん。わたしにはそれで十分です」
3回しか会ったことがないけれど、睨まれることばかりだけれど、悪い人ではないのは確信している。それが分かれば、わたしには十分だ。
彼が尋ねてほしくない、と思っているだろうということを、よく分かってもいる。
「あっ、でもさすがにお名前くらいは、教えてもらっていなかったら聞いていたと思いますけどね」
努めて明るくそういい、笑いかけると、ランジェさんの瞳が歪んだ。一度目を閉じ、深い溜息を吐いたかと思うと、すっと腕が伸びてきてわたしの頬に触れる。
疑問符を浮かべるわたしの頬を、あろうことか、ランジェさんの指が摘んだ。
「いっ、いひゃひゃひゃ!」
「…………まったく、あなたは本当に馬鹿ですね」
今このタイミングで馬鹿と言われるのは何故ですか!
そう問おうにも、頬をつねられた状態ではまともに口も聞けない。そんな私に代わって言葉を発してくれたのは、用を済ませてやってきた彼女だった。
「わらわのエウリカに何をしておる、狗めが」
ファレンデールちゃんはわたしの頬をつまむ手をはたき落とし、ランジェさんを睨みつけた。ランジェさんはファレンデールを睨むことはないが、今日は少し不機嫌そうに見つめ返す。
「あなたの、と申されるなら、なぜしっかりと管理しておかないのですか」
「ふんっ、お前に言われずとも、次は首輪でもしておくわ」
そんな、人を物か動物みたいに!
と、わたしが抗議できるような雰囲気でもなかった。2人の間の空気があまりにも冷たく、冷や汗が出そうだ。こんなにも暑いのにおかしいな。
ファレンデールちゃんはふんっと鼻を鳴らすと、わたしの腕を掴んで立ち上がらせた。
「帰るぞ、エウリカ。わらわの魔法でひとっ飛びだ」
「わわ、ま、まってファレンデールちゃん」
帰還の魔法を使おうとするファレンデールちゃんの周りが、淡く発光し始める。空間が歪み、一筋の亀裂ができたかと思うと、あっという間にその口を広げて、わたしとファレンデールちゃんを包み込まんとした。
「ランジェさん! またお待ちしてますね!」
空間転移が終わる直前、慌ててランジェさんにそう言って笑いかける。亀裂から僅かに見えたランジェさんは、わたしをしっかりと睨みつけていた。
なぜ!?