数字パズル
嘉数、という苗字はこの辺では珍しい。
最初にその名前を知ったのは新入社員歓迎会の、自己紹介のときだ。
ニコリともしない挨拶に、正直無愛想な印象を受けた。
が、新入社員全員が自己紹介を終え、着席するよう促されたときに、彼女は微かに頬を緩めた。
ほっ、と安堵する仕草に、あの無愛想は緊張ゆえかと思い至った。
人見知りする性質なのか。他の新人は卒なくこなしたのに、大勢の前であの自己紹介はマイナスだ、と心中で評価した。
ただ、『嘉数』という苗字はちょっといいな、と思った。名前に『数』が入ってるなんて面白い。
その印象がひっくり返ったのが、偶々就業間際に総務課の前を通りかかったときだった。
一番出入り口に近い廊下側のデスクに、彼女は座っている。見かけるときには大抵無表情だ。顔立ちは悪くないのにもったいない、アレが営業なら商談不成立は確実だ。……と、思っていたのだが。
背景の一部で視界の隅に引っかかる程度の存在感だった彼女が。
何のきっかけか、瞬間、ふわ、と笑った。
すごい引力だった。
思わず持っていたファイルを取り落とすくらいだ。
慌てて大事な書類を掻き集めて目を戻すと、彼女は廊下のちょっとしたハプニングに気付いておらず、いつもの無表情だった。
見間違いか、と我が目を疑ったが、脳裏には柔らかい笑顔が焼きついていた。
それから、彼女を観察する日々が始まった。用がなくても、外回りで社に戻る必要がなくても、僅かな空き時間に総務課前を通るようになった。
時々目にする奇跡のように柔らかい笑顔。どういう時にあの笑顔が見られるのか、まるで分からない。
デスクに座って、何か細々と作業しているときが多いような気がする。
人と話すとき、親しげな女性事務員となら、少し和らいだ表情になる。が、あの笑顔には程遠い。
俄然、やる気が出た。
彼女の笑顔の条件はなにか。
この問題が解ければ、いつでもあの笑顔を見られるかもしれないじゃないか。
パズルは、難しいほどチャレンジし甲斐がある。
耳をそばだててみれば、多少の噂は聞こえてくる。
親元を離れて一人暮らししているらしい。
人見知りだが、慣れてしまえば普通に話せるらしい。
異性にはやたらガードが堅く、既に玉砕したヤツがいるらしい。
……マジか。誰だソレ。後輩ならさりげなくいびってやる。そもそも俺以外に彼女に目をつけた奴がいるってのが気に入らない。あの笑顔はレアなんだ。
彼女の噂を仕入れる度に、ジリジリと彼女に嵌っていく。直接話したこともないってのに、楽しくて仕方ない。
これはアレだ。
新しいパズルを手に入れて、解きにかかる前の、あのワクワク感だ。
難問が解けたときの達成感も気持ち良いが、取り掛かる前のワクワクする感じが、多分一番好きだ。
イケメンではなくとも、身奇麗にして仕事のできる男はそれなりにモテる。そこそこ経験もあると自負している。
三十路も間近で、今更恋愛に現を抜かす年でもない。
なのに、今、まるで初恋のように浮かれているのは、何故だろうか。
「あれ、このクリップ、音符になってる」
総務課から回ってきた経費の書類に、些細な異変があった。
持って来た総務課のお局サマを見やる。
「ふふー。ちょっと面白いでしょう? いっつも領収書領収書ーってうるさがられちゃう書類だからね。愛嬌を添えてみました」
溜め込むな直ぐに処理しろ、といつも急かされている身としては、音符くらいで胸を張られてもどうかと内心では思うのだが。
「うん。面白い。どうしたのこれ」
実はねー、と、お局さまが話してくれたのは、難解なパズルのヒントだった。
「嘉数ちゃんって、こういうの好きみたいでね。面白い文房具イッパイ持ってるの。だから今、総務課ではちょっとしたブーム」
うっかり、ときめいた。嘉数ちゃん。嘉数ちゃんって呼ばれてるのか。
「……へえ。そうなんだ。こういうのって、どこで売ってるの?」
営業先でこういうのを使えば、そこから話題が広がるかもしれない。
ついでに。
うまくすれば、彼女と話す糸口ができる。
もう三十路手前の身としては、あんまりガッついたところは見せたくない。さりげなく、さりげなく。
そう意識してる時点で既にガッついてるんだと、冷静なもう一人のオレが指摘した。
仕事用という言い訳で下心を押し隠して、思い付く中で一番品揃えがありそうな文房具売り場にやってきた。
即行動、は成功の鉄則だ。思いがけないラッキーに遭遇した。
彼女がいる。
よほど文房具が好きなのか、細々した何かを手にとって見ては微笑んでいる。レアな笑顔の大盤振る舞いだ。
よし。
ここは、あの音符のクリップのことで話しかけて、そこから引っ張って、営業先でも使えそうな面白グッズを教えてもらおう。
適当な何かを買ったら、買い物に付き合わせたお礼といってお茶に誘ってみてもいいかもしれない。
段取りをアレコレ考えて、さりげなく売り場を回って彼女に近づいた。
……なんか、ヤバイ人みたいだな俺。
横目で彼女の位置を確かめつつ商品を眺めている振りをして、ふと、我に返った。
こういうの、ストーカーとか。
いや、言わない。今日ここであったのは紛れもなく偶然だ。
……あの音符クリップのことを考えれば必然とも言えるか? 運命とか言っちゃうと本気でアレな人になるから、無しの方向で。
しかし、今ここで声をかけたら、ヤバイ人と思われないだろうか。下心があって疚しいからそう思うのか。いや何のための言い訳だ、きちんと仕事に使えるグッズ探しだし!
一見して使い道の分からないグッズを睨みながら暫し葛藤して、やっぱり話し掛けようと決意するころには、既に彼女はいなくなっていた。
なにやってんだよ俺。阿呆か。
せめて彼女が何を眺めていたのかと見失った辺りに行く。
棚にはいろいろな種類の付箋が並んでいた。たかが付箋にこんな種類があるとは知らなかった。
……そろそろ付箋が無くなりそうだったっけ。
いつものやつを探しかけて、ふと、ピンクが目に入った。
愛嬌たっぷりな丸いフォルム。『To Do!』って顔らしき部分にあるから、これはあれか。トドとTo doを掛けているのか。
ふむ、と考えてみる。
営業先で、この付箋を使うのはどうだろうか。
先方の要望を聞いたとき、さりげなくこの付箋を使う。ピンクで目を惹くし、『To do!』で絶対やりますアピールになる。何しろ俺の名前が藤堂だからシャレにもなるだろう。
ふざけている、と受け取りそうなお堅い相手には注意が必要だろうが、試す価値は充分ある。
フロア一体を一通り見て回り、使えそうなものを幾つか見つけた。
ファンシーグッズと侮っていたが、機能だけじゃないメリットがありそうだ。
今日は、無駄足じゃなかった。例えアホらしい葛藤で千載一遇のチャンスを逃したとしても、断じて無駄じゃない。無駄になんかしない。
ピンクのトドの一枚目に、『笑顔!』と書き込んだ。
その後、彼女のデスクにピンクのトドを見つけて、ピンと来た。
試しに真っ当な用件を書いて、シレッっと彼女のデスクに貼り付けると、彼女はまるで疑わずに資料を揃えてくれた。初めてまともに会話したが、『笑顔!』には程遠かった。
変化球でボールペンを都合してもらったときには、彼女はボールペンを見て微かに笑った。畜生。ボールペンに負けている。
営業先で鍛えられた警戒されない笑顔も、通じない所か、ますます警戒されているっぽい。攻略方法が見つからない。
数字パズルなら論理的に考えていけば確実に次の一手が分かるのに。
細々と用事を作って、いい加減彼女も気付いているだろうに律儀に付き合ってくれる。最近俺に対しては遠慮が無くなって来た。四角四面な敬語じゃなく、時々ぶっきら棒な物言いもある。
そろそろどうだろうか、と、ドキドキしながら置いた、今日のメモ。
待ち合わせ、と言っても、一方的に場所を指定しただけ。本当に待ち人が来てくれるのか、確証は無い。むしろ、無視されそうな気もする。
時間を指定しなかったのは意図してのことで、彼女が来ようが来なかろうが、終電まではここで待つつもりだ。
そのつもりで、時間つぶしのパズルも持ってきた。コーヒースタンドのカウンターに陣取り、鉛筆と消しゴム、そしてパズルを取り出す。
携帯電話をストップウォッチモードにして、いざ。
1から9の数字を9×9のマスに当てはめるこのパズルは、余計なことを考えたくないときには最適だ。
集中してやれば、大抵の問題は10分程度で終わる。ただし、集中できなかったり、他事に気を取られると、すぐミスをする。
だから、自動ドアが開くたびに彼女が来たかと目をやったり、あるいは来ないんじゃないかとため息をついたりしていては、このパズルは解けない。
……くそ、ミスした。
一度間違ったまま解き進めると修正できないのもこのパズルの特徴だ。間違ったら、潔く全部消してやり直すしかない。
食べ物も並べるカウンターに消しゴムのカスを落とすのはあまり気分の良いことじゃない。だから、紙ナプキンを広げて、そこに消しカスを落とした。
集中、集中、と唱えながら、1から9の数字だけを考えた。
9×9のマスが埋まった。ふう、っと息を吐きながら顔を上げると、彼女がいた。
カラカラ、とミニカーを弄っている。……ミニカー?
「……あれ?」
広げた紙ナプキンから零れ落ちていた消しゴムのカスが掃除されている。
「食べ物のせるテーブルに消しゴムのカスがあるのって、あまり良い気分しませんよね」
「ああ。うん。それは確かに。だから紙ナプキン広げてたんだけどね」
パズルに熱中するうちに、無造作に消しカスを払ってしまっていたらしい。
「これ、消しカス用のミニクリーナーです」
彼女はミニカーを見せてくれた。なるほど動かすと中のブラシが回って消しカスを集めるのか。
「便利だね、それ。なんか、健気に仕事してるって感じ?」
「可愛いでしょう?」
ふわ、と彼女が笑う。……今度はミニカーに負けたのか。
「うん。やっぱり可愛い」
やばい。うっかり本音が出た。が、彼女は気付かなかったようだ。それとも、ガードが堅いってことか?
「パズル、好きなんですか? 何度か声かけたんですけど、聞こえてなかったみたいですよね」
「あ、ごめんね。集中しちゃうとつい。待たせちゃった?」
「いえ。5分くらいです。……ストップウォッチ、8分ですけど。このパズル8分で解いたんですか?」
「ん。そうだね。このタイプのなら、大抵10分は要らないくらいで解けるかな」
「すご……」
目を丸くしている彼女は、多分この手のパズルをやったことがあるのだろう。
「まあ、なかなか解けない難問も目の前にあるんだけどね。……で、本題だけど」
あんな言葉足らずのメモで、来てくれた。期待してもいいのだろうか。
『俺と付き合ってください』
用意していた『To Do!』を、ぺた、と彼女の前に張った。
で、速攻「お断りします」とか。