第一章 終幕 守れなかった今日を、忘れないために
今回が第一章「白紙の記録」の最終話になります。
奈落へと落ち続ける俺たちの周囲には、先ほどから大量の銀貨が浮かんでいた。
落下しているはずなのに、俺が踏み込んだ銀貨は不思議なほど安定しており、足場として使うことができる。
おかげで俺はアリアを抱えたまま、落下の勢いを利用して銀貨から銀貨へ飛び移りながら、少しずつ上へと進んでいた。
「ねえカナタ、もう少し普通に移動できないの?」
「普通って?」
「普通はこういう場所で、お金を踏み台にして飛び回ったりしないの!」
アリアは俺の腕の中でそう言うが、今の状況では他に方法がない。
足場がないなら作ればいい。
使えるものがあるなら使う。
それだけだ。
「でも、これなら早いぞ。」
「早いとかそういう問題じゃないのよ!それに、その銀貨ってさっきまで普通にお釣りとして使ってたやつでしょ!?」
「そうだな。」
「だったらもっと大事にしてよ!」
「でも今は足場として大事に使ってる。」
「そういう意味じゃない!」
アリアの声を聞きながら、俺は次の銀貨へと足を伸ばした。
踏み込んだ瞬間、銀貨がわずかに沈むこともなく、まるで見えない床でもあるかのように俺の体重を受け止める。
そこからさらに前方へ跳び、別の銀貨へ着地する。
──幸運941。
この数値が関係しているのかは分からないが、少なくとも今は助かっている。
落下するはずの銀貨が足場になり、しかも俺が移動するのに合わせるように都合よく配置されているのだから、これを利用しない手はない。
「……しかし、これだけあると本当にすごいな。」
「何が?」
「お釣り。」
「そこ!?」
俺が周囲を見渡すと、奈落の中にはまだ大量の銀貨が浮かんでいた。
光を受けるものすらない暗闇の中で、それぞれの銀貨だけが淡い光を反射している。
普通なら綺麗だと思うところなのかもしれないが、今の俺には完全に移動用の足場にしか見えなかった。
そんなことを考えていると、前方から赤黒いノイズを纏った蜘蛛型の魔物が飛び込んできた。
「カナタ!また来たわよ!」
俺は一枚の銀貨を蹴って身体を横へ流し、そのまま蜘蛛の攻撃をかわした。
すれ違う瞬間に右手のフリクションペンを伸ばし、ラバー部分を蜘蛛の身体へ押し当てる。
これまで何度も繰り返してきた動作だ。
特に迷う必要もない。
そのままペンを擦ると、蜘蛛の身体を覆っていた赤黒いノイズが削れていく。
さらに二度、三度と擦ると、輪郭そのものが薄くなり、最後にはその場から完全に消えた。
「……相変わらず、それで消せるんだね。」
「バグだからな。」
「便利すぎない?」
「便利だな。」
「本人が認めちゃったよ……。」
アリアが呆れたように呟く。
俺はフリクションペンを持ち直し、再び前へ進んだ。
ところが、今度は下から蛇のようなバグが飛び上がってくる。
俺は銀貨を踏んで上へ跳び、そのまま蛇の頭上を通り過ぎながらペンを走らせた。
ラバーが触れた部分からノイズが消え、蛇の身体が崩れていく。
着地したと同時に振り返ると、今度は別の蜘蛛がこちらへ向かってきていた。
「まだ来るの!?カナタ、早く準備を……!」
「分かってる。」
俺は次の銀貨へ飛び移る。
蜘蛛はまだ追ってきている。
俺は振り返りざまにペンを伸ばし、その身体を擦った。
蜘蛛は跡形もなく消滅し、さらに後ろから別の魔物が現れる。
今度は蛇だ。
その蛇を消したと思うと、そのまた後ろから次々に蜘蛛が現れる。
やっていること自体は単純だった。
迫ってくるバグをフリクションペンで消しながら、銀貨を足場にして上へ進んでいく。
それだけなら、これまでと大して変わらない。
ただ、少しずつ違和感が増えていた。
「……カナタ。」
「どうした?」
「さっきより……増えてない?」
アリアの言葉に、俺は一度だけ後ろを振り返った。
確かに、増えている。
さっきまでなら数匹消せばしばらく途切れていたはずなのに、今は消したそばから新しい魔物が現れている。
蜘蛛や蛇だけではない。
形の崩れた何かが暗闇の奥から這い出し、その後ろからさらに別のバグが姿を見せていた。
「確かに……増えてるな……。」
「やっぱり!?」
「でも、まだ問題ない。なんとか対処はできる。」
「その『まだ』が怖いんだけど!」
アリアが叫ぶ。
俺は返事をせず、目の前のバグへペンを走らせた。
擦るたびにノイズが削れ、姿が消えていく。
だが、その数は減っているようには見えなかった。
むしろ、俺が消す速度に合わせるように増えている。
「おかしいな……。存在自体を消してるはずなんだけどな……。」
「それは見れば分かるよ!問題は消した以上に出てきてることでしょ!」
確かに、その通りだった。
俺は銀貨を踏みながら、周囲を見渡す。
暗闇の向こうには赤い光がいくつも浮かび上がっている。
それらはすべて魔物の目なのか、それとも別の何かなのか、今の時点では判断できない。
ただ一つ分かることがある。
数が多すぎる。
「アリア、しっかり掴まってろ!少し速度を上げるぞ。」
「ちょっと待って、今でも十分速いんだけど!?」
返事を待たず、俺は銀貨を強く踏み込んだ。
身体が一気に前へ進む。
次の銀貨へ着地し、さらにその先へ飛ぶ。
落下してくる銀貨を利用しながら、俺は速度を上げていった。
「ちょっ、カナタ!本当に速くなってる!速い!速いってば!」
「大丈夫だ。」
「だから何が大丈夫なの!?」
アリアの声が後ろへ流れていく。
俺は次々と銀貨を踏み、迫ってくるバグを避けながら上へ向かう。
フリクションペンを握った右手は休む暇がない。
蜘蛛を消し、蛇を消し、さらに迫ってきた別の魔物へペンを走らせる。
それでも、魔物の数は減らなかった。
むしろ、増えていくばかり。
そして、その頃には俺も気づき始めていた。
──銀貨の動きがおかしい。
今までなら踏み込んだ瞬間にしっかりと足を受け止めてくれていたはずなのに、ほんのわずかだが、揺れる。
「……?」
俺は次の銀貨へ足を乗せる。
キィン、と音が鳴った。
だが、その直後──。
銀貨の表面に赤黒いノイズが走った。
「カナタ?」
「……ちょっと待て。」
俺は足を止める。
銀貨は消えてはいない。
だが、確かにおかしい。
その表面がわずかに歪み、金属であるはずなのに、水面のように揺れている。
「何これ……。」
アリアもそれに気づいたらしい。
俺は周囲を見渡した。
さっきまで大量に浮かんでいた銀貨のいくつかが、いつの間にか姿を消している。
落ちたわけじゃない。
消えたのだ。
その代わりに、空間のあちこちへ赤黒いノイズが広がっている。
それはただの煙や霧ではなかった。
何か粘り気のある泥のように、空間そのものへまとわりついている。
「……処理落ち、か。」
「処理落ち?」
「ああ。魔物が多すぎるんだと思う。」
俺は周囲を見ながら答える。
敵の数が増え続けている。
それを俺が消し続けている。
そのうえ、俺自身も941のステータスを使って高速で動き、周囲には大量の銀貨まで存在している。
もしこの世界が、俺の想像している通り何らかのシステムによって構成されているのだとしたら、処理するデータが多すぎれば当然負荷がかかる。
「じゃあ、このままだと……。」
「分からない。」
「分からないって……。」
「でも、嫌な感じがする。」
俺がそう言った直後だった。
視界が一瞬だけ暗転した。
「……っ?」
何が起きたのか分からない。
音が途切れた。
身体の感覚も一瞬だけ消えた。
そして次の瞬間、世界が無理やり再生されたように、すべてが一斉に動き出した。
「きゃあっ!」
アリアの身体が揺れる。
俺も咄嗟に足へ力を込めたが、思ったように動かなかった。
「……なんだ、これ。」
足を動かすと──。
遅い。
もう一度、踏み込んでも──。
やはり遅い。
まるで身体の中へ泥を流し込まれたように、動きそのものが重くなっている。
「カナタ!?」
「大丈夫……いや。」
俺はそこで言葉を止めた。
今の俺には、これが何なのか分かってしまった。
やはり処理落ちだ。
世界そのものが、俺たちの存在を正常に処理できなくなっている。
そして――。
俺の足元にあった銀貨が、赤黒いノイズに覆われた瞬間、音もなく消滅した。
「クソっ……まずいな。」
その言葉が口から出たとき、奈落の奥から今までとは比べ物にならないほど大きな異音が響いた。
ズズズズズ……と空間そのものを震わせながら、暗闇の中で巨大な何かが動き始めていた。
奈落の奥から響いた異音は、今まで聞いてきたどんなバグの鳴き声とも違っていた。
空間そのものが軋んでいるような低い音が何度も重なり、俺たちの周囲に浮かんでいた銀貨まで小刻みに震え始める。
赤黒いノイズはさらに濃くなり、さっきまで何もなかった場所にまで広がっていた。
「カナタ……これ、本当に大丈夫なの?さっきから何かがおかしいよ。銀貨も消えてるし、身体も思ったように動かないし、それにあの奥にいるもの……さっきまでこんなのいなかったよね?」
「分かってる。だから、ここからは無理に魔物を相手にしない。」
俺はそう答えながら、周囲を見渡した。
今までなら、迫ってくる魔物を一体ずつ消していけばよかった。
フリクションペンさえ使えれば、どれだけ数が増えてもいずれは片付けられると思っていた。
でも、今は違う。
敵を消すたびに、別の場所から新しい魔物が現れる。
さらに処理落ちの影響で身体の動きまで鈍くなり、俺たちの足場だった銀貨まで次々と消えている。
このまま戦い続ければ、いずれ逃げるための足場すらなくなる。
「上へ行くぞ。もう少しだけ耐えてくれ。」
「うん。でも、カナタも無茶しないで。今までみたいに全部一人で何とかしようとしたら、本当に動けなくなるかもしれないから。」
「分かってる。」
俺はアリアを抱え直し、残っている銀貨を探した。
その瞬間だった。
上空から、何かが落ちてきた。
「カナタ!」
アリアの声に反応して、俺はとっさに横へ飛んだ。
だが、処理落ちのせいで身体の動きが一瞬だけ遅れる。
いつもなら完全に避けられる距離だったはずなのに、足が銀貨へ引っかかり、思うように身体を動かせない。
「……っ!」
蜘蛛型の魔物が、俺たちのすぐ横を通り過ぎた。
だが、それだけでは終わらなかった。
蜘蛛の身体から伸びた赤黒いノイズが、まるで糸のように空中へ広がり、俺たちの進路を塞いでいく。
俺はアリアを抱えたまま、その隙間を抜けようとした。
「こっちだ!」
「カナタ、待って!上にもいる!」
アリアの言葉を聞いて顔を上げる。
上からも、別の魔物が迫っていた。
俺は身体を捻り、どうにか攻撃をかわそうとする。
しかし、その瞬間に足元の銀貨が赤黒いノイズへ覆われた。
足場が消える。
「しまっ――。」
身体が一気に落下する。
俺はアリアを抱えた腕へ力を込めた。
自分がどうなろうと、少なくともアリアだけは離さない。
そのまま下へ落ちながら、何とか次の銀貨を探す。
だが、視界の中へ入ってきた銀貨は、俺が手を伸ばすより先に消えてしまった。
「カナタ!」
「大丈夫だ!」
そう叫んだ直後、上から伸びてきたノイズの糸が俺たちの間へ割り込んだ。
俺は咄嗟にアリアを庇う。
だが、完全には間に合わなかった。
赤黒いノイズがアリアへ触れた瞬間、彼女の身体を淡い光が包み、その一部に異常なノイズが走った。
「――アリア!」
俺は反射的に彼女を抱き寄せた。
アリアは何とか意識を保っていたものの、さっきまでのように声を張ることができない。
魔力の流れそのものが乱れているのか、身体の輪郭にまで細かなノイズが浮かんでいる。
「……大丈夫。これくらい……平気だから。」
「平気なわけないだろ……。」
俺の声が低くなる。
アリアは俺の腕の中で小さく息を整えながら、それでも俺を安心させようとするように笑った。
「私はいいから……カナタは上へ行って。今のままじゃ、二人とも動けなくなる。だったら、カナタだけでも先に戻って……。」
「……何言ってるんだ。」
「だって、このままだと本当に危ないから。私を抱えたままじゃ、カナタまで動けなくなる。だから、お願い……私を置いていって。」
その言葉を聞いた瞬間、頭の中で何かが切れた。
「……放すわけねえだろ。」
「カナタ……。」
「お前を置いていくくらいなら、こんな場所から出る意味なんてない。」
俺はアリアを抱き直した。
目の前には、まだ大量の魔物がいる。
周囲の銀貨は次々と消えていき、身体は思うように動かない。
普通に考えれば、ここで魔物を倒し続けるなんて無理だ。
だったら、戦う必要なんてない。
「……俺は、何のためにここまで来たと思ってる。」
フリクションペンを握った右手へ力を込める。
魔物を消すためじゃない。
全部を倒すためでもない。
アリアを連れて、生きて帰るためだ。
「だったら、やることは一つだ。」
「カナタ……何するつもり?」
「逃げる。」
アリアが目を丸くする。
「え?」
「ここで戦い続けるから処理が重くなる。敵を消しても次が出てくるなら、全部相手にする必要はない。だったら、この場所そのものから抜ける。」
「でも、どうやって……?」
「今から考える。」
「考えてから言ってよ!」
いつものようなツッコミが返ってきた。
その声を聞いて、俺はほんの少しだけ安心した。
まだ大丈夫だ。
アリアはここにいる。
なら、俺が諦める理由はない。
俺は周囲を見渡した。
銀貨。赤黒いノイズ。落下する魔物。
そして、この奈落そのもの。
今まで俺は、幸運941を「都合のいい結果を引き寄せるもの」だと思っていた。
けれど、ここまでの出来事を思い返してみれば、もっと別の見方ができる。
俺が必要だと思ったものは、何故か都合よく残っている。
足場が必要になれば銀貨が現れた。
敵を消す方法が必要になればフリクションペンが機能した。
なら――。
「……幸運941。」
俺は小さく呟いた。
この状況で必要なのは、攻撃力じゃない。
必要なのは、ここから逃げるための道だ。
その瞬間、俺の視界の端で何かが光った。
「……あれは?」
暗闇の中。
俺たちが落ちてきた場所とは別の方向に、ほんのわずかに青白い光が見えている。
それは魔法の光でも、魔物のノイズでもない。
もっと薄く、もっと静かな光だった。
まるで、この奈落の中に残された「正常なデータ」のように。
「アリア、あそこを見ろ。」
「……青い光?」
「ああ。」
「でも、あんなところに道なんて……。」
「道じゃなくてもいいんだ。出口になってくれれば!」
俺はアリアを抱えたまま、残された銀貨へ足を乗せた。
処理落ちで身体が重い。
銀貨もいつ消えるか分からない。
それでも、青い光へ向かって、俺は進む。
すると、不思議なことが起きた。
俺たちの周囲を覆っていた赤黒いノイズが、一瞬だけ薄くなった。
「……今だ。」
俺は銀貨を蹴った。
身体が前へ進む。
次の銀貨へ。
さらにその先へ。
しかし、背後から大量の魔物が一斉に迫ってくる。
「カナタ!後ろからいっぱいきてる!」
「分かってる!」
俺は振り返らない。
魔物を倒すことより、前へ進むことを選んだ。
それでも、魔物の群れは俺たちを逃がすつもりがないらしい。
巨大な蜘蛛が上から迫り、蛇型のバグが下から道を塞ぐ。
俺はアリアを抱えたまま、わずかに残った銀貨へ次々と飛び移っていく。
だが、その銀貨すら次々に消えていく。
「カナタ、このままじゃ足場がなくなる!」
「だったら――足場を作る!」
「どうやって!?」
俺は右手に握ったフリクションペンを見た。
そして、ふと思いつく。
「……消すんじゃない。」
今まで魔物相手に使っていたペン。
俺はそれを、別のものへ向けた。
「書き換える。」
俺は迫ってきたノイズへラバーを押し当てる。
すると、赤黒いノイズが大きく歪んだ。
空間が震え、銀貨の動きが一瞬だけ止まる。
そして――。
落下していたはずの俺たちの身体が、ほんの少しだけ浮いた。
「……え?」
アリアが目を見開く。
俺も自分の身体に起きている変化を確認した。
重力の向きが、おかしい。
──いや、違う……。おかしいんじゃない。
「……反転した。」
俺たちを下へ引っ張っていたはずの力が、一瞬だけ逆方向へ働いている。
俺はその変化を逃さなかった。
「アリア、しっかり掴まってろ!」
「ちょっと待って、また何かする気!?」
「今度は、上に落ちる。」
「そんな矛盾したような言葉ある!?」
俺は銀貨を最後の足場として強く蹴った。
その瞬間、俺たちの身体を包んでいた重力の向きが完全に反転した。
ただ「落ちる」のではない。
上へ――落ちていく。
奈落の底へ向かっていたはずの身体が、まるで見えない何かに引っ張られるように、一気に上空へ加速していく。
「きゃああああああっ!?」
アリアの叫び声が響く。
俺は彼女をしっかり抱えたまま、ただ上だけを見た。
暗闇の向こうに、わずかな光が見える。
──地上だ。
「……帰るぞ、アリア。」
俺はそう呟いた。
そして俺たちは、奈落の闇を抜けるために、一気に上へと駆け上がっていった。
もはや、足元にまともな道なんて存在していなかった。
崩壊した空間に残った僅かな足場を蹴り、俺はアリアを抱えたまま、ひたすら上だけを目指していく。
背後からは赤黒いノイズが押し寄せ、その中から無数の魔物が這い出してくる。
フリクションペンで進路を塞ぐものだけを消しながら、それでも止まらずに進んだ。
今ここで立ち止まれば、あの奈落の闇にもう一度飲み込まれる。
腕の中にいるアリアは、先ほどまでとは明らかに様子が違っていた。
身体から力が抜け、呼吸も弱くなっている。
それでも俺が何度も確認するたびに、彼女は無理にでも目を開けようとしていた。
「カナタ……大丈夫だよ。ちゃんと意識はあるから。だからそんなに心配そうな顔しないで。私がこんな状態なのに、カナタまで焦ったら、本当に二人とも危なくなっちゃうでしょ?」
「……分かってる。でも、今はお前を無事に外へ連れていくことだけ考える。もう少しだから、それまで絶対に目を閉じるなよ。」
「うん……分かった。カナタがそこまで言うなら、ちゃんと起きてる。だから……あと少しだけ、頑張ろう。」
アリアの言葉を聞きながら、俺は前方へ視線を戻した。
そのとき、暗闇の向こうに僅かな青色が見えた。
最初は錯覚かと思ったが、進むにつれてその光は少しずつ大きくなっていく。
赤と黒に染まった奈落の中で、それだけが異様なほど鮮明だった。
「……見えた。あそこだ。出口がある。」
「本当……?あれ、外の光なの?」
「ああ。間違いない。あそこを抜ければ地上に出られる!」
アリアが僅かに顔を上げる。青い光を見つめた彼女の表情には、ほんの少しだけ安心したような色が浮かんだ。
俺も同じだった。
ここまで来て、ようやく終わりが見えた気がした。
だが、その瞬間、背後から大きな振動が伝わってきた。
振り返ると、赤黒いノイズの塊がこちらへ向かって押し寄せている。
魔物の大群が、崩壊する空間ごと飲み込みながら追いかけてきていた。
「……まだ追ってくるのかよ!」
俺はフリクションペンを構え、迫ってきたノイズの一部を一気に消した。
しかし、消した場所から新しいノイズが生まれてくる。
今まで以上に処理が重くなっている。
完全に相手をすることなんてできない。
だから、俺は出口だけを見た。
ここで全部倒す必要なんてない。
逃げ切ればいい。
それだけでいい。
俺はアリアを抱え直し、最後の距離を一気に詰めた。
その直後、足元の空間が大きく揺れた。
「カナタ、危ない!」
身体が一瞬だけ横へ持っていかれる。
それでも俺は踏みとどまり、アリアを落とさないように腕へ力を込めた。
視界が大きく歪み、足元にあったはずの地面が赤黒いノイズへ変わっていく。
出口はもう目の前だった。
俺は迷わず、そこへ飛び込んだ。
次の瞬間――視界が白く弾けた。
冷たい風が頬を撫で、眩しい光が目に飛び込んでくる。
反射的に目を細めながらも、俺はアリアを抱えたまま地上へ飛び出した。
旧区画の路地裏。
崩れた建物と古いレンガの壁に囲まれた、見慣れた場所だった。
俺は勢いを殺しきれず、そのまま石畳へ着地する。
足元のレンガが大きく軋み、さっきまで俺たちが飛び出してきた場所には巨大な裂け目が残った。
それでも、俺は倒れなかった。
アリアだけは絶対に落とさないように、身体を支えながら着地した。
「……出られた……?」
腕の中から、かすかな声が聞こえた。
「ああ。地上だ。もう大丈夫だ。」
「そっか……よかった……。」
アリアが安心したように目を閉じる。
その瞬間、俺は嫌な予感を覚えた。
「アリア?」
返事がない。
「おい、アリア。聞こえるか?」
もう一度呼ぶと、彼女は僅かに瞼を動かした。
「……聞こえてるよ。ちょっとだけ……疲れただけだから……。」
「そうか。なら、もう少しだけ我慢してくれ。すぐにジークさんの店へ行く。」
「うん……お願い……。」
俺はアリアを抱え直し、すぐに立ち上がった。
その瞬間だった。
背後から、ガシャインッという大きな音が響いた。
振り返ると、崩れていたはずのレンガの床が勝手に動いていた。
散らばっていたレンガが一つずつ元の位置へ戻り、巨大な裂け目がまるで最初から存在しなかったかのように塞がっていく。
最後の一枚が綺麗に収まったところで、床は完全に元通りになった。
「……幸運の力、か。」
思わず呟いた。
こんなところまで辻褄を合わせるらしい。
だが、今はそんなことを考えている場合じゃない。
俺はアリアを抱いたまま、旧区画の路地を走り始めた。
身体は限界に近かった。
それでも足を止めることはできない。
腕の中にいるアリアの体温を感じるたびに、もっと早く走らなければならないと思った。
もし今、俺が立ち止まったら、さっきの奈落で起きたことが現実として押し寄せてきそうだった。
だから、ただ走った。
古い建物の間を抜け、曲がり角を何度も曲がり、ようやく見慣れた看板が見えてくる。
ジークさんの古道具屋だ。
俺は扉を勢いよく開けた。
「ジークさん!マルタさん!頼む、アリアを診てくれ!」
店内に俺の声が響く。
奥からジークさんとマルタさんが出てきた瞬間、二人の表情が変わった。
「アリア……!いったい何があったんだ?」
「大迷宮で魔物に巻き込まれた。俺の処理が間に合わなくて……かなりやられてる。詳しい話は後でいい。今は、とにかくアリアを頼む。」
マルタさんはすぐに状況を察し、アリアを受け取った。
「分かった。ここからは私たちに任せて。君は一度休みなさい。あなたも相当無理をしているでしょう。」
「俺はいい。それよりアリアを……。」
「だからこそ、今は邪魔をしないで。あなたがここに立っていても治療の手は増えないでしょう?」
そう言われ、俺は黙った。
正論だった。
何もできない自分が、そこに立っているだけだった。
マルタたちがアリアを奥の部屋へ運んでいく。
その姿を見送りながら、俺は拳を握りしめた。
扉が閉まり、店内が静かになる。
そこでようやく、自分の手が震えていることに気づいた。
大迷宮にいる間は、そんなことを気にする余裕すらなかった。
けれど、外へ出て、アリアを託して、追いかけてくるものが何もなくなった今になって、あの場所で起きたことが一気に頭の中へ押し寄せてくる。
俺の判断が遅れた。
俺が逃げるのを遅らせた。
俺がアリアを巻き込んだ。
何度考えても、その事実だけは変わらない。
俺は店の隅に置かれた椅子へ腰を下ろし、黒い手帳を取り出した。
いつもの手帳だ。
何もかも忘れてしまうかもしれない俺へ向けた記録。
本来なら、今回の攻略について冷静に書かなければならない。
大迷宮の構造、魔物の特徴、処理落ちの原因、退避バグが成立した条件。
未来の自分が次に攻略するときに必要になる情報は、いくらでもある。
けれど、今の俺にはそんな文章を書く余裕がなかった。
手帳を開き、フリクションペンを取り出す。
そして、いつもより強くノックした。
俺は紙へ押しつけるようにして、最初の文字を書いた。
『5月2日。大迷宮のバグをナメていた。』
文字が少し歪んだ。
それでも、そのまま書き続ける。
『俺のせいで、アリアが重傷を負った。』
そこで、手が止まった。
奥の部屋から微かな物音が聞こえる。
俺は手帳を見つめたまま、歯を食いしばった。
──悔しい……。どうしようもなく悔しい。俺には最強の941があのに……。幸運も941。素早さも941。
フリクションペンを使ったデバッグだってできる。
それなのに、一番守りたかったものを守れなかった。
俺は何のために、ここまで力を手に入れたんだ。
何のために、毎日手帳へ記録を残しているんだ。
忘れる自分に何度でもやり直させるためじゃないのか。
それなのに、今日の俺は失敗した。
ペンを握る手が、また震えた。
俺はその震えを押さえ込むように、さらに強くペンを紙へ押しつけた。
『あの優しすぎる女の子を、俺は守れなかった。』
そこまで書いて、視界が滲む。
涙が落ちそうになる。
俺は顔を伏せた。
悔しかった。
怖かった。
そして何より、自分自身が許せなかった。
それでも、手帳は閉じない。
今日のことを残す。
俺が忘れてしまっても、ここだけは消さない。
俺は震える手で、続きを書いた。
『悔しくて、涙が止まらない。』
そして、次の行へ進む。
『記憶をなくした俺へ。』
ペン先を止める。
ほんの少しだけ息を整えてから、俺はその先を書いた。
『この悔しさを絶対に忘れるな。アリアを傷つけたバグどもへの怒りも忘れるな。今日、自分が何を間違えたのかを全部覚えておけ。』
文字はどんどん乱れていった。
それでも構わなかった。
綺麗な文章なんて必要ない。
次の俺に、この感情が伝わればそれでいい。
だから最後は、強く、何度もペン先を紙へ押しつけるようにして書いた。
『絶対に、次は俺が完璧にクリーンアップして、彼女を救い出すんだ。』
記録を書き終えたが、俺はしばらく、そのページから目を離せなかった。
黒い手帳に残された文字は、いつもの記録とは違っていた。
整理されてもいない。
綺麗でもない。
ただ、今日の俺が感じた悔しさと怒りだけが、そのまま紙の上へ残っている。
だが、それでいい。
次の俺が今日を忘れるなら、このページが覚えていればいい。
俺はゆっくりと手帳を閉じた。
そして、奥の部屋へ続く扉を見つめる。
アリアは、まだそこで戦っている。
なら俺も、ここで終わるわけにはいかない。
今回の攻略は失敗した。
だけど、失敗したからこそ分かったことがある。
大迷宮には、まだ俺が知らないバグがある。
そして、そのバグを完全に理解できれば、次はもっと先へ進める。
俺は黒い手帳を胸元へしまった。
「……次は、絶対に間違えない。」
小さく呟いて、俺は奥の扉を見つめ続けた。
窓の外には、何も知らないような青空が広がっている。
奈落の闇を抜けた先にあった、あまりにも白く、あまりにも眩しい空。
その青空を見上げながら、俺は静かに拳を握った。
今日の俺は、アリアを守れなかった。
だからこそ――明日の俺には、絶対に守れるようにする。
黒い手帳に刻まれた1ページが、その決意だけを静かに残していた。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます!
今回で第一章「白紙の記録」は完結となります。
カナタにとって、忘れたくないほど悔しい最初の30日。
その想いが第二章へどう繋がっていくのか──。
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