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83 皇子の記憶

 その夜、レオクスは理事長室を後に、アカデミーの静かな廊下を歩いていた。


 白姫との激戦、エストの純真な喜び、ローゼの気高くも温かい眼差し、バルマードの懐の深さが胸によみがえり、彼の心を満たしていた。


 勝利の余韻に浸りながら、レオクスは中庭のベンチに腰を下ろした。


 ふと、ローゼの「エストさんと一緒なら、もっと楽しいことができそうですね」という言葉が耳に響き、彼の口元に小さく微笑みが浮かんだ。


 あの気遣い、あの強さは、遠い昔から変わらない。

 そう、彼女とバルマードとの絆が、彼を支えてきたのだ。

 レオクスが静かに目を閉じた。


「ローゼさんやバルマード様との時間、まるで昨日のことのようだ⋯⋯」


 彼は過去の記憶に思いを馳せた。




    ◇◇◇




 ーー十年前




 レオクスは八歳の春、マクスミルザー公爵家の庭でバルマードの剣の稽古に汗を流していた。

 木々の間から陽光が差し込む中、彼はバルマードの指導に必死で応えていた。


 ふと視線を感じ、庭の端を見ると、五歳のローゼが木剣を手にドレス姿で立っていた。

 彼女の目は好奇心と少しの不満に輝いていた。


 ローゼが頬を膨らませ、近づいてくる。

 レオクスに鋭い視線を向け、木剣を構えた。


「皇子さまだからって、お父様を独り占めするのはずるいわ。まずはお父様の弟子である、この私を負かしてからにしてよね」


 レオクスは少し戸惑い、礼儀正しく頭を下げた。


「バルマード様のお嬢様を、ケガさせるわけにはいきません」


 ローゼの目がいたずらっぽく光り、木剣を振った。


「あら、弱気かしら? ケガをさせたら責任を取って、私をお嫁さんにすれば良いだけじゃない」


 彼女はバルマードの制止を振り切り、レオクスに飛びかかった。

 レオクスの木剣はあっという間に宙を舞い、草の上に落ちる。


 ローゼは得意げに笑った。


「やっぱり大したことないわね。でも皇子さまだからチャンスをあげるわ。私から一本取れたら、お父様を譲ってあげる」


 レオクスは木剣を拾い、困った顔でバルマードを見た。

 バルマードはローゼのわがままに、温かい笑みを浮かべた。


「一度だけ、相手をしてもらえないかい?」


 レオクスはうなずき、ローゼと向き合った。

 バルマードは二人の動きを見守り、木剣が身体に当たらぬよう常に間合いを測っていた。


 試合はローゼの独壇場だった。

 夕暮れが庭を赤く染めるまで、彼女はレオクスの木剣を弾き、叩き折った。


 レオクスは汗と土にまみれ、息を切らせながらも諦めなかった。

 ついにローゼが木剣を置き、肩で息をするレオクスを見た。


「その根性は合格だわ。年下の私に負けても折れない心は大したものだから、お父様を貸してあげる。でも、もう日が暮れるから明日からね。これから夕食だけど、よかったら一緒にいかが?」


 レオクスは疲れ果てながらも、ローゼの笑顔に心を温められた。


 あの夜の食卓の賑わいが、彼の孤独な皇子としての日々に、はじめての安らぎをもたらした。




    ◇◇◇




 ーー五年前




 レオクスは皇妃リンシアの刺客から身を守るため、変装魔法を駆使していた。


 マクスミルザー公爵家の門をくぐるたび、彼は安堵の息をついた。

 この屋敷だけが、皇室の重圧から彼を解放してくれる場所だった。


 ある日、ローゼがレオクスを公爵家の一室に招いた。

 彼女は愛らしいレディに成長し、かつての生意気さは気品に変わっていた。


 ローゼは慎重に切り出した。


「噂だけど、気を悪くしないでくださいね。私を妃にすることが、レオクス様が皇子として生き残る最善の策だなんて、誰が言い出したのかしら? お父様が魔王を退けた後に増えてきた、貴族派の人たち?」


 レオクスは一瞬言葉を失い、宮殿の冷たい現実を思い出し、静かにうなずいた。


「皇室がバルマード様の助けで、今の地位を保っているのは事実です。宮殿では、ガルト公爵家の後ろ盾を持つリンシア皇妃と、その息子のラシオンの派閥が我が物顔で振る舞っています」


 ローゼの瞳に同情の色が浮かび、声を低くした。


「魔王軍を前に逃げ回った人たちが栄えて、お父様と戦った勇敢な皇帝派の貴族たちが戦から戻らなかったなんて、世の中間違っていますわ。レオクス様がお父様と訓練なさってるのが身を守るためだなんて、不愉快な噂もありますが、違いますよね。レオクス様は、お父様のような英雄志望だと信じていますわ」


 レオクスは彼女の言葉に心を動かされ、正直に微笑んだ。


「皇室の権威が権力争いに晒されている今、否定はできません。帝国の重鎮だったアリスタ侯爵家や、多数の皇帝派の貴族が魔王の侵攻で没落したことが悔やまれます。ですが、彼らの活躍があればこそ、今の平和が守られたのには感謝しています。こうやって、ウィル公子やローゼ公女の笑顔が見られるだけで、今の私は幸せなのです」


 ローゼの言葉は、レオクスの孤独な心に温かな光を灯した。

 彼は彼女の笑顔を胸に刻み、刺客の影に怯える日々を耐え抜いた。




    ◇◇◇




 ーー武闘大会の一ヶ月前




 レオクスはエストとの出会いを通じて、帝国の課題を解決に導き、皇帝派の支持を着実に集めていた。

 彼女は他の貴族令嬢とは異なり、打算なく自然に振る舞う存在だった。


 レオクスにとってエストは、マクスミルザー公爵家の庭に咲く花のように、清々しい安らぎを与えてくれた。

 だが、皇帝である父は男爵家の娘を、決して妃として認めないだろう。


 皇帝派の勢力を固めるには、マクスミルザー公爵家のローゼのような、高位貴族の令嬢が必要だった。


 レオクスはエストの純真さに惹かれているが、同時にローゼの気高さと内に秘める優しさにも、無意識に惹かれている。


 ある日、バルマードとの訓練を終え、マクスミルザー公爵家を出ようとするレオクスを、ローゼが廊下で呼び止めた。


「今日はエストさんもいらしてますし、レオさんも夕食をご一緒されてはいかがですか?」


 レオクスは立ち止まり、弟の顔を思い浮かべ、穏やかに微笑んだ。


「離宮のノアの近くにいてあげたいのです。ノアを一人前に鍛えるのも、私自身の修行になりますし、バルマード様もノアを訪ね、勇気付けてくれています」


 第二皇子のノアは、平民出身の母を持つため、リンシア皇妃により離宮送りにされていた。

 廃墟のような離宮で、最小限の使用人と暮らすノアの姿に、レオクスは心を痛めていた。


 ローゼもノアを案じていた。

 ノアの分け隔てない優しさに触れるたび、彼女も自然と笑顔になれた。


 今ではエストの存在が、ローゼに貴族社会のしがらみを忘れさせてくれた。

 ローゼも、ノアにそんな思いを感じて欲しいと願っていた。


 ローゼが温かく微笑み、言葉を続けた。


「レオさんもノア皇子も、我が家を家族と思ってくれたら何よりです。私やウィル、そしてお父様も、二人を家族のように大切に思っていますよ」


 レオクスは彼女の言葉に心を救われ、微笑んだ。


「その言葉は、何より嬉しいです」


 ローゼはさらに提案するように手を広げた。


「いつか問題が解決して、心が晴れると良いですね。ねえ、レオさん。今度、マクスミルザー公爵家の湖に、エストさんをお連れしてはいかがですか? 良い気分転換になると思いますよ」


 レオクスはローゼの気遣いに感謝し、エストと過ごす穏やかな時間を想像した。


 その瞬間、ノアの未来と自らの使命が、少しだけ軽く感じられた。




    ◇◇◇




 ーーそして、今。



 武闘大会の優勝は、レオクスの未来を明るくした。


 劣勢だった皇帝派に中立の貴族たちが集うきっかけとなり、後に貴族派とも互角以上に渡り合う勢力となる、その大きな一歩となる。


 レオクスは胸を高鳴らせ、離宮のノアにこの喜びを真っ先に伝えたいと願った。

 彼は心の中でノアに語りかけた。


(ノア。いつかお前が、真の自由を手に入れる日がくることを、心より願っているよ)


 仲間たちの笑顔を胸に刻み、レオクスは静かな中庭で未来を見つめた。


 エストの純粋な言葉に背を押され、ローゼの気遣いとバルマードの支えがあれば、ノアの未来も、帝国の未来も、きっと明るいと確信した。


 レオクスは軽やかに微笑み、新たな決意を胸に一歩を踏み出した。

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