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ペネロペの頭はしばらく驚きに支配されていて、現状を理解するのを拒否していた。
だって、ちゃんと指定された侍女に声をかけたはずだ。
もしかして嵌められた? 第一王子じゃなくて第二王子に裏切られた?
この体勢では明らかに、第一王子がメロディのフリをしたペネロペを襲おうとしている。
「病気が治った婚約者を連れ回していると聞いたからどんなのかと思ったら、レックスはこういうのが趣味だったのか」
肩を押さえつけられて、吐き気がする。
第一王子にも第二王子にも吐き気がした。
もしや第二王子は第一王子がこうすることを分かっていてペネロペを一人でここに来させたのかもしれない。第二王子の婚約者メロディ・オルグレンにこんなことをしたと分かれば、さすがに第一王子も謹慎くらいはさせられるんじゃないだろうか。
これが力のない下位貴族の令嬢だったら泣き寝入りだろう。
そこまで考えてペネロペはやっと怒りと吐き気で頭が回り始めた。
「あいつがこのことを知ったらどんなツラをするんだろうな」
ドレスの上から足を触られて気持ち悪さが這い上がってくる。
第二王子は裏切ったのだろうか。裏切ると言えるほど信頼関係はあったのか。あるいは、小姑公爵はこれを許可したのだろうか。
本物のメロディならこんな目には絶対遭わせないだろう。
私がペネロペ・ドーソンだからこんなことをされていいのだろうか。いや……それとも、メロディはいつまで生きられるか分からないからこういうことをしてもいいと思ったのだろうか。だって、ペネロペがこんな目に遭ったところで今はメロディのフリをしている。つまり第一王子を糾弾するには、メロディを被害者としていなければいけない。そうすると……メロディの名誉だって汚されるのだ。
恐怖も驚きもあるのに、こんなことを考えられるほど頭の中のある部分は酷く冷静だった。そしてメロディもペネロペも裏切られたかもしれないという判断に至った瞬間に、頭の奥で何かが切れた音がした。
なんで、女に生まれたからってこんな目に遭わされなくちゃいけないの。
私は、いや私もメロディもこんなことをされていい人間じゃない。
王位争いだか何だか知らないけど、男たちで勝手に争ってろ。何で、力でも何でも弱い私たちが巻き込まれなきゃいけないの。第一王子は第二王子とだけ争ってなさいよ。
ドレスの上を這いまわっていた手がいよいよドレスの中に入って来そうになったところで、それまで抵抗らしい抵抗をしていなかったペネロペは足を勢いよく振り上げた。間髪入れずにもう一度繰り返す。
ヒールで股間を蹴られたら大層痛いだろう。同情なんてしないが。
悲鳴さえも上げられず「う……ぐ……」と呻く第一王子を突き飛ばし、靴を素早く脱いでから周囲を見回す。
ここは二階だから窓から出たら危険だ。ドレスがぐちゃぐちゃになって明らかに「何かありました!」と全身で訴えているようなものだ。
顔を伏せて足早に王族休憩室を出る。足元はドレスで隠れるし、メロディの栗毛は珍しい髪色ではない。なんとか誰にも見られないようにここから離れなければ。靴を脇に隠しながら足早に進む。
足元を見るついでに服装の乱れを確認したところで、男性の靴が見えた。
顔を伏せたまま何とか通り過ぎてやり過ごそうとしたところで、腕を取られる。
「メロディ。どこに行っていた。第二王子といないから心配して」
振り払おうとしたがしなかった。小姑公爵が焦ったような様子で私の腕を掴んでいたからだ。
なぜだろう。いつもは小姑公爵に会っても嬉しくも何ともないのに、今は涙が出そうだ。取られた腕だって震え始めた。
「第一王子が……休憩室に」
つっかえながらそう告げると、公爵は察したようで顔色を変えてすぐに手近な他の部屋に入った。
ソファに座らされて、小脇に抱えた靴を取り上げられる。
「何をされた」
「股間を蹴って逃げたので大丈夫、です。ドレスの上から触られただけで……」
今更ながらに全身に震えが襲ってくる。
がたがたと震えるペネロペに小姑公爵は自分の上着を脱いでかけてくれた。
部屋を出て最初に出会ったのが彼で本当に良かった。
第二王子だったら、ペネロペは一日に二人の王族を害して犯罪者になっていたかもしれない。第一王子を突き飛ばしたけれど、頭を打って死んでいないだろうか。それならそれで自業自得だ。
どうでもいいことを頭の冷えた部分で考えているのに、体の震えは止まらなかった。
「息をゆっくりしろ。吐いて、吸って」
お小言も呆れたような視線もなく、顔をしかめた公爵はペネロペの前に跪いてそう指示した。そんなに酷い顔をしているのだろうか。公爵の方がどこかを刺されたような顔をしているのに。
しばらく呼吸を続けていると、震えがおさまってくる。
「絶対に、あいつを、王位に就けないでください」
公爵は返事をせず、ペネロペの足をまるで繊細なガラス細工のように扱いながら靴を履かせる。しかも、自分の手にハンカチまで巻いて肌同士が触れないように配慮してくれながら。
彼の手はペネロペの震えが伝染したのか、少し震えていた。
こんなに丁重に扱われると、ペネロペは自分が高貴な人間どころかお姫様になったような錯覚に襲われた。
「こんな目に遭ってまでここにいる必要はない。辛いだろうがもう動けるか。早く帰ろう」
相変わらずどこか刺されて痛そうな表情をしながら公爵は立ち上がった。
彼の握りしめた手が震えているのが見えてやっと安心できた。この人はこんなことが起きるのを容認していなかったのだと、本当の意味で理解したから。
もしかするとあの赤毛の侍女が裏切ったのかもしれない。
「抱き上げてもいいが……そうなるとメロディがまた体調を崩したなどと言われるだろう。すまないが、少しの距離を歩けるか?」
小姑公爵の嫌味がない。本気で心配してくれている声音だ。
こんな彼を初めて見た。そりゃあ、目の前にいるのがニセモノでなりかわりでも、メロディによく似た女の子が震えていたらこういう対応になるか。彼にもちゃんと人の心はあったのだ。
「会場に、一度戻ります」
「は……?」
ペネロペの言葉に公爵は本当に呆けた顔をした。
でも彼の苦しそうな痛そうな表情が緩んだので、ペネロペはまた少し安心した。
「第一王子は……今の状態は知りませんが……もし第一王子が会場に戻って嘘を言ったら……このまま帰ったメロディは何と言われますか?」
第一王子は股間を蹴られてどのくらいで回復するのか知らないが、会場に戻ってメロディを襲ったと騒いだら? メロディが自分を誘惑したなんて信じられない嘘を吐いたら? メロディの名誉はどうなる? 想像しただけで息が詰まりそうだ。
このまま逃げるように帰ってはダメだ。何もなかったように少し会場に留まって誰かに自分たちの姿を目撃させないといけない。
これまでの夜会で煌びやかな高位貴族たちの汚らしい面を大いに見てきた。
「今帰ってしまえば、メロディの評判が落ちるかもしれません。万が一、第一王子が責任を取るとか言って新しい婚約者にされるのも嫌です。ですから、一度会場に戻らなくてはいけません。数十分滞在して、それで……帰りましょう。いいでしょうか?」
公爵はしばらく目を見開いてペネロペを見ていた。
そしてゆっくりペネロペの言葉をかみ砕いたのか、奥歯を噛みしめたようだった。
「お前はそれでいいのか」
公爵の「お前」という呼び方で、彼がメロディだけでなくペネロペ・ドーソンを心配してくれているということが伝わってきた。
良かった。第二王子はどうだか分からないけれど、このジルベール・オルグレン公爵は人でなしではない。家のためであっても、女性を駒や道具のように扱うことにちゃんと抵抗を持ってくれている。
「はい。そして、あの第一王子を絶対に王位には就けないと、約束してください。あんな男をトップにしないでください」
公爵は一瞬目を瞑り、息を吐いて頷いた。
「約束する」
ペネロペもこんなことを言うのは震えた。下位貴族で、王子に会うなんてありえなかった身分のペネロペが。
公爵の手はペネロペよりもさらに小刻みに震えていた。
この人も怖いのか。
それが見えただけでペネロペは安堵できた。