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いつもお読みいただきありがとうございます!
これで完結です。
絞り出そうとした挨拶が喉へと戻って行きそうだ。
「お元気でしたか」
かろうじてそう絞り出した。公爵は私の手を離してくれないし、右手も握られたままだ。
女性の中では背が高いのだが、公爵はもっと高い。ペネロペの視線は彼の喉元くらいだ。視線を向けなくとも金に近い色の目がペネロペを見ているのを感じる。
「最初はメロディまで亡くなったからかと思っていた」
公爵はペネロペの問いに答えずに淡々と続けた。
メロディの名前が出たせいでペネロペはうっかり公爵の顔を見上げてしまった。
記憶と寸分も違わない金色に近い色の目と目が合う。
なんとはなしに彼は大変だっただろうなという同情めいた気持ちが湧き上がってきた。もう公爵だから爵位を巡っての争いはないだろうが、ペネロペが身代わりをしていた時でさえ令嬢たちに囲まれていたのだ。メロディが亡くなった後は婚約者になりたい令嬢たちが殺到したことだろう。
「メロディ様が亡くなったからでしょう」
「それもあるがずっと覚悟はしていた。だが、お前がいなくなってからだ。こんなにすべてが味気なくなったのは」
「きっと、メロディ様を亡くされた傷が深いのでしょう」
ペネロペは隣国の女学校に入れてもらって環境をがらりと変えたから公爵の様にはならなかっただけだ。公爵の場合は、同じ生活を繰り返していたらそこかしこにメロディの思い出がある。
見るたびに思い出しただろう。
あの屋敷から出たペネロペだって思い出すのだ、ダンスを踊る時、よく似た造りのバルコニーを見た時、ふわふわの栗毛を見た時。
大切な人が亡くなったらこんな感覚になるのだ。
ペネロペは今まで全然知らなかった。こんなに誰かが亡くなると悲しいだなんて知らなかった。
そうして以前のペネロペに戻れなくなった。
以前のペネロペだったら何の迷いもなく、明日死ぬならどうするだろうかなんて考えずにレオン・ランズローと婚約していたはずだから。
「なぜ、あのランズロー子爵令息を選ばなかったのか。レックス王太子が頭をかしげていた」
公爵に唐突にそう言われて、ペネロペの頭の中でものぞいたのかと疑いたくなった。
そしてやはり、レックス王太子は留学と婚約者をセットで考えていたのだ。
頭では分かっている。レオン・ランズローほどいい条件の相手は自分に現れないだろうなんていうことくらい。
でも、以前のペネロペにはもう戻れないのだ。
条件だけ見たらレオン・ランズローほどいい人はいなかった。その点をレックス王太子はよく分かっていた。
でも、レックス王太子は分かっていない。あるいは彼は慣れてしまいすぎたのだろう。
大切な人の死を目の前にしてしまったら、もう自分に嘘はつけないということに。
「ランズロー子爵令息は良い方でした。彼にはもっと良い人が現れるでしょう」
公爵がペネロペの手を引っ張ってまた踊り始めようとした。今度は彼が男性パートのようである。
「ずっと止まって話していると怪しまれるぞ」
「……大体、婚約者がいらっしゃるのになぜこんなことを」
公爵に引きずられるようにペネロペはまた踊り出す。今度はきちんと女性側としてだ。
そもそも公爵が手を離さないのではないか。
ペネロペだって常識的なことは目の前の公爵から叩き込まれたのだ。暗い人気のない庭で、婚約者でもない男女が手をつないで親密そうに語らっていればどう見られるかくらいのことは知っているし、するつもりもなかった。
それなのに。
公爵の手を振り払えなかった。
頭の中ではこんなことをしていてはいけないと重々分かっているはずなのに。
「今日、お前がこの夜会に来なかったらすっぱり諦めるつもりだった」
これ以上は聞いてはいけない。だって、都合が良すぎるから。
それなのに、ペネロペはまだ公爵の手を振り払えなかった。
「言うことを聞かずにバルコニーにジャンプして勝手にメロディに会うその自由さも、夜会で危険な目に遭いながらメロディの名誉を気にする高潔さも。病弱なメロディに一度でも早く死んでしまえばいいのにと思ったことのある俺には眩しかった。同時に痛かった」
意外だった、シスコンに見える小姑公爵がそんなことを思っていたとは。
でも、ずっと病弱な家族が家にいたのなら。一瞬だけ思ってしまうのは仕方がないのかもしれない。それを罪悪と感じたからこそ、公爵はメロディをあれほど大切にしていたのか。
「それでも、そう思ってしまったとしても、公爵様がメロディを愛していたことは変わらないはずです」
「そう言ってくれるのはお前くらいだ」
「屋敷で暮らしていて見ていたからでしょう。婚約者の方だってそう言ってくれるはずです」
「もし明日死ぬなら、お前といたいと思った」
ペネロペは流されるように踊っていたが、その足を思わず止めた。
レオン・ランズロー子爵令息との婚約を露骨に期待されていた時にペネロペが思ったことと同じだった。
この人と一瞬でも同じことを考えていた。メロディが亡くなった時は同じ痛みを間違いなく共有して。
それだけで嬉しかったが、それだけで十分としなければいけない。
なぜなら、彼はオルグレン公爵だからだ。
子爵令嬢なんて愛人くらいにしかならない。
「それは許されません。公爵様には婚約者がいらっしゃいます」
公爵は笑って私の肩に顎を乗せた。
驚いて彼の体を押したが、びくともしない。
「あの令嬢には他に想い合う相手がいる。元々解消する契約だった。あちらにもこちらにも婚約者が必要だったからな」
「また、誰かに身代わりをさせたんですか」
「俺も同時に身代わりだったな」
ダンスなんてとっくにしていない。今、傍から見ればペネロペはどう見ても公爵と抱き合っているようだろう。
「お前はどうだ。レオン・ランズロー子爵令息を断って、誰か思う人がいるのか」
「私が一生独身で生きていくとは思わないんですか」
「それなら、お前はここでされるがままになっていないで蹴りでも入れているはずだ」
ペネロペは公爵邸に住んで、公爵のことを少しは理解してしまっていた。そしてそれは相手も同じだったらしい。
「このままでいるなら都合の良いように解釈するが」
「……私は高位貴族も王族も嫌です」
「そうか」
沈黙が落ちたと思ったらすぐに公爵の体が離れる。
温かさがなくなって急に酷く寒く感じた。
「おかしなことを言って困らせて申し訳なかった」
公爵はあれほど手を握ったり、抱きしめたりしていたのにあっさりとペネロペに背を向ける。
都合の良い告白紛いのことが夢で、嘘だったかのようだ。
でも、仕方がない。だって他でもないペネロペが嫌だと言ったのだから。公爵はちゃんと伝えてくれたのに拒絶したのはペネロペだ。
なぜか分からないが、公爵の後ろ姿がぼんやりと滲んだ。
ねぇ、メロディ。
もし、明日死んでしまうなら。彼と一緒にいたいはずだった。
でも、頭の片隅でエゴがうるさく囁くのだ。自分に高位貴族の妻が務まるわけがない。結婚生活はうまくいかない。メロディの振りをしていた時よりも何倍も嫌味を言われるし、揚げ足だって取られるだろう。
「ジルベール・オルグレン公爵」
それでも。
ペネロペは彼の後ろ姿を呼び止めてしまった。
これは許されるのだろうか。誰が許すのだろうか。
公爵はフルネームが意外だったからか、立ち止まって振り返る。
メロディとの思い出が、天使との思い出はペネロペの背中を押してしまった。明日がまた当たり前のように訪れるわけではない。
もし明日死んでしまうなら、彼と一緒にいるだけでは足りなかった。一緒にいられて満足なら、今の時点でもう満足していなければおかしいから。
涙が目に浮かぶのはおかしいのだ。
ペネロペは震える足を自覚しながら、一歩ずつ公爵に近付く。公爵も少しずつこちらに近付いてきた。
「もし、明日死ぬなら」
彼の金色に近い目を見上げる。
一生に一度でいいから、メロディのように素直になってみないといけない。善悪もできるできないも、身分に合う合わないも常識も全部振り払って。
「私は、あなたの婚約者として死にたいです」
「……高位貴族は嫌なんじゃなかったのか」
「それは嫌ですよ……でも」
愛に常識もエゴも関係なかった。
「それでも、あなたと一緒にいたいです」
公爵の手がペネロペの頬に触れた。そのまま長い指が下がってペネロペの顎にかかる。
「誰かに見られたら困りますよ」
「別にいい。どうせ今の婚約者との婚約はそろそろ破棄にする予定だった。あちらは思い人とその後婚約するが……俺も同じだ」
公爵の顔が近付いてきた。金色に近い色をこんなに間近で見たことはない。
「逃げられなくなるがいいのか? 明日も明後日も、生きている限り」
「あなたといられれば、それでいいです」
ペネロペは急かすように公爵の首の後ろに手を回した。
公爵の手もペネロペの腰に回った。
想いを口に出した途端にペネロペの心の雨は止んだ気がした。
もう、ペネロペの一日は味気なくなどないだろう。退屈でもないし、心に雨も降っていなかった。




