7.地球から借りていたもの
お義母さん。
病院のソファで泣いてる義母の前に立ち、声をかける。
たぶん、聞こえないだろうとは思ったが、義母にもお別れの挨拶をしていきたかった。
声をかけてから、再び立て膝で座り、義母の顔を見上げた。
義母は、まだハンカチを顔に押し当てたままだった。
すすり泣く音が聞こえる。
お義母さん。
今までありがとうございます。
先に逝くことになって、ごめんなさい。
・・・ともちゃんを連れにきたようになってしまって、ごめんなさい。
さようなら。
お元気で。
そう言い終わると、立ち上がりながら、
義母のハンカチを持つ手に触れた。
義母はふいに顔を上げ、
私の触れた所を、もう片方の手で押さえた。
手に触れた何かがあることを、義母は感じたようだ。
辺りを見回した後、はっとして、こちらを見る。
「みなみ、ちゃん?」
お義母さん!
再び、義母の手に触れる。
今度は両手で。
「みなみちゃん!みなみちゃんね!」
義母は私の手が触れている場所を、慌てて強く握ろうとする。
義父は、何も感じないらしかった。
急に私の名を呼んで、必死に自分の手を握ろうとしている義母に驚いて、
「どうした?大丈夫か?」
と、訊いている。
お義母さん、ありがとう。
触れた手を離して、二人から一歩遠ざかった。
お義父さんも、お元気で。
温もりの無くなった手を握りしめ、義母は更に涙を流している。
そんな二人を見るのがつらくなって、病院を後にした。
空を目指しながら、考える。
こんな調子では、最期に会いたい人達に会っていったら、この世への未練が残る。
どれくらい先かわからないけど、きっと向こうで会える。
十分地上から離れたところで、私は飛ぶのをやめた。
先に逝くから!
あっちで待ってるから!
誰も迎えに来る人がいなかったら、呼んでくれれば行くから!
必ず行くから!
空の上から叫んだ。
皆には届かないかもしれない。
いや、
たぶん届かない。
それでも、叫んだ。
できる限りの声を振り絞って叫んだ。
ひとつだけ、心残りがあった。
お義父さんとお義母さんが、ともちゃんの傍にいるということは。
私は、『自分だったもの』の横に立っていた。
傍らには思った通り誰もいなかった。
たった一人、暗いこの場所に、白い布を被せられて『それ』は横たわっていた。
線香の香りが部屋いっぱいに広がっていた。
いや、線香がついてなくても、このニオイはしているのだろう。
この部屋の壁にはこのニオイが染みついているに違いない。
辺りに誰もいないことを確かめると、白い布をそっとめくる。
ゆっくり、ゆっくり、あの壊れた顔と体を見てもショックを受けないように、
心の準備をしながら。
だが、それは取り越し苦労だった。
綺麗に、とまではいかないが、ある程度修復された顔。
そして、体。
私は、そっとその頬に触れた。
堅く、金属に触れたように冷たかった。
頬から手を離し、左胸に触れた。
なくなった内蔵の代わりに、タオルが詰められているのだろうか。
「今まで、ありがとうね。」
そっと、頬に触れる。
冷たくて、堅い。
それでも。
「貴女が、いてくれたから、私はここにいられた。
貴女がずっと一緒にいてくれたから、私はここに、この地球にいられたの。」
突然脳裏に、蒼く、美しい惑星が浮かんだ。
ずっと、あそこへ帰りたかった。
遠くに見える、あの蒼い惑星へ。
どんなに手を伸ばしても、届かないあの惑星へ。
やっと、やっと来られた。
やっと、来られたのに。
涙が落ちる。
止まることなく。
「私は、貴女に、冷たかったね。
ごめんね、
もっと美人だったらよかった、とか、
もっと、ここが細かったらよかった、とか。
いつも思ってた。
違和感があっても、そのままにしてた。
ごめんね。
それでも貴女は、一緒にいてくれたんだよね。」
そっと頬を撫でた。
もう、この体が動くことは、ない。
地球からお借りていたものを、今、お返し致します。
どうもありがとうございました。
白い布を元に戻すと、ほっとため息がでた。
これで、心残りはない。
そう思ったとき、何かに引っ張られるような力を感じた。
霊安室の壁を通り抜け、
そのまま身を任せ、夜空をふらふらと飛んでいく。
全部終わったんだ。
これでやっとあの世にいける。
見納めだなぁ。
綺麗だなぁ。
最後にこんな風に夜景を見ることができてよかった。
月の明るい夜だった。
引っ張られるままに移動していると、だんだん見慣れた景色になっていく。
なんだか、家の方に進んでる?
暗いけど、でも確かにこれは。
そう思っているうちに、家を通り越し、
ふっと力が緩み、たどり着いた場所。
そこは、ともちゃんと私の家の近くの裏山に登る階段の入口だった。
それは、飼っていたメスのコーギーとの散歩コースだった。
小さな切り株を地面に差し込んで、その間に砂利を敷き詰めた階段が上まで続いている。
階段の周りは木や草、竹で覆われていて、ハイキングに来たような気分になる。
そして、木々の隙間から、下の家並みや道路を眺めることができる道。
どういうこと?
これを、登れってこと?
今みたいに飛んで行けば・・・
え?飛べない。
自力で行けって?
義母が、百段以上あるんだよ、と言っていたのを思い出す。
きっついんだよ、ここ。
死んだ後もこの苦行?
・・そんな悪いことしてないはずだけど。
しぶしぶ足を上げかけて、ふと思った。
ぴょんぴょん跳ねて登ったら楽?
私、うさぎ年だし。
どうせなら可愛いうさぎになってさ、って。
・・・えっ?
目の前の景色が一瞬歪み、
気がつくと、階段の一段目が目の高さにあった。
えっ!なんで!
慌てて、自分の体を触ろうと、
ああっ!手が人間の手じゃ無い!
そして、二本足で立ってない!
なんとか二本足で立ち上がり、おそるおそる頭の上に手、いや、前足をやる。
なぜかそれだけでも苦労したあげく、もふもふの何かに触れた。
みっ、耳がある。
あっ、頭の上。
そ、そして、長い・・・
耳って、顔の横にあるもん、だよね?
そして、こんなに長くない、はず。
動転したまま、わけもなく耳をしごく。
真面目にうさぎ?、だよ。
なんで?なんで思っただけでうさぎになったの?
そりゃ、死んでるから、何があってもおかしくないけど。
でも、でも、やっぱりなんで?なんでーーー!
階段の脇の竹林が、風に吹かれて、ざわざわと音をたてた。