3月31日
いや、こりゃ。
かえって大変だわ。
人間のままの方がよかったよ。
はあはあ
同じ造りなのかしら、この山。
だいぶ登ってきたけど。
立ち止まって後ろを振り返った。
今まで登ってきたはずの階段は、なかった。
その代わり、すぐ後ろの段まで水が満ちていた。
もう、かえれないということ、か。
うさぎは、木々の間を透かして見た。
そこには現世の町が変わらず見えていた。
そして、いつの間にか昼間になっていることに気がついた。
やはり、時間の流れが違うのだろう。
何も驚かなかった。
自分はもう死んでしまったのだから。
今までの理とは、もう離れたところにいるのだから。
向きをかえ、昨日まで暮らしていた町を見下ろす。
幸と、毎日ここに来て、この景色を見たなぁ。
こんなに早くあそこにいられなくなるとは思わなかったけどね。
死ぬのは、わかってた。
左の胸に違和感を感じるようになってから、覚悟はしていた。
ともちゃんには、ああ言ったけど、
従妹は、ちゃんと治療して、今はちゃんと元気にしてる。。
だから、手術して、真面目に治療すれば完治するのだろうというのもわかっていた。
でも、従妹は再発を恐れている。
だったら、完治していないのと同じだ。
叔母さんだって、早期発見だった。
「まだすごく小さいの。取っちゃえばだ丈夫なんだって。」
叔母さんは、そう言って笑った。
「よかったね。早く見つかって。」
と、私は言った。
そう言ったのに。
十年後、叔母さんは亡くなった。
私は、ともちゃんとともちゃんのこれからの生活に負担をかけたくなかった。
だけど、それは間違いだった。
私がもうあまり生きられないと宣告されなければ、
昨日の事故はなかっただろう。
まだまだ生きられたあの人に、
もう生きている意味が無いと思わせることもなかったに違いない。
私は、大きな間違いを犯した。
それが、この最期の苦行の理由なのかもしれない。
うさぎは階段だったところを覗き込んだ。
水面に、うさぎの姿が映っている。
小さい茶色のうさぎだった。
ああ、やっぱりうさぎになってた。
水は透き通っているが、底が見えなかった。
水に映ったうさぎの周りに、どこから来たのか、桜の花びらが何片か浮かんでいた。
昨日、走る車の中から満開の桜が見えていたことを思い出した。
いつもなら、ともちゃんが桜を見に車を走らせてくれるのだが、
昨日のともちゃんにはそんな考えは浮かばなかっただろう。
「一緒に逝くよ。待ってて。」
ともちゃんが言う。
本当によかったのだろうか。
水面の花びらを見つめながら、うさぎは考える。
「それは、ともちゃんが決めることだから。」
父の声が言う。
・・・うん、そうだね。
ひらり、と、桜の花びらが水面に舞い降りた。
階段の周りに、染井吉野は見当たらないのだが。
花びらをじっと見つめながら、うさぎは思う。
桜も、見られないのかな。
それとも、あの世にも桜はあるのかな。
目を閉じて、再び開けると。
水面には、沢山の花をつけた桜の枝が何本も映っていた。
ああ
うさぎはため息をつくように声をあげた。
あるんだ。
向こうにも。
桜。
染井吉野。
向きをかえ、階段を見上げると、うさぎは再び頂上に向かって走り出した。
本当に頂上があるのかは、疑わしいが。




