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幸湖日記  作者: 炎華
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63.梅の木


「燃えてしまう!あの子達が大切にしてきた桜が!藤が!」

その人は、必死に桜の木に燃え移った火を消していた。


それは突然起こった。

皆が眠りについていた夜中に、突如として。

轟音が鳴り響き、地鳴りがし、あっという間に町は火の海となった。



この季節には珍しく、青空が広がった日が続いていた。

空気はからっとして、洗濯物がよく乾いた。

洗濯物を干し終わった後、その人は青い空を見あげて思う。

「あの子達が事故に遭ったと聞いた日は、こんないい天気じゃなかった。

もっと曇っていて、空が重かった。

あれから何年経ったんだろう。もう、それもよくわからなくなってしまった。」

朝起きて、ご飯を食べて、洗濯して、掃除して、ぼんやりテレビを眺め、

暗くなってきたら、洗濯物を入れて、雨戸を閉めて、

自分だけの晩ご飯の用意をするが、食べたくなくて、

そのまま冷蔵庫に入れてしまうときもある。

しばらくぼんやり過ごして、眠くなったら寝る。

そうして、一日が終わる。


ただ、庭をいじっているときだけは違う。

一つ一つの木に話しかけて、水をやったり、肥料をやったりしていると、

心が少しだけ満たされる。

あの子達が植えた木だから、あの子達が世話をしていた庭だから。

この家も、あの子達が住んでいた家だから。

ここにいると、心が落ち着く。

でも、寂しい。とても寂しい。

あの子達は、私の命が尽きるとき、必ず迎えに来ると言った。

その言葉だけを信じて生きているようなものだ。



なのに!燃えてしまう!

あの子達は、まだ迎えに来ない!

なのに!燃えてしまう!

あの子達の木が!桜が!藤が!みんな!燃えてしまう!

火を消さなきゃ!早く!


直撃は避けたが、隣家から舞い上がった火の粉が降りそそぎ、

庭の木を真っ赤に染め始めた。

屋根にも火の粉が舞い降りている。

それでもその人は、桜の木の火を消そうとしていた。

バケツで水をかけ、家の中に入り水を汲み、

水道から水が出なくなると、お風呂の残り湯を汲んできて、

炎にかけていた。

屋根に、壁に火がまとわりつき、メラメラと音をたてて初めても、

その人は、庭の木だけを見ていた。


「燃えないで!あの子達がいなくなってしまう!

また、私だけ置いて行かれてしまう!

お願い!お願いだから!消えて!」


何度繰り返しても、桜に移った火は消えることは無かった。


「お願い・・また私を一人にしないで・・」


もう家の中に入ることもできなかった。

家は火に舐め尽くされ、どうすることもできなかった。

手から、バケツがするりと落ちて行き、音をたてて転がった。

その人は、崩れ落ちるように膝を折った。

目には、燃えさかる染井吉野と黒龍。

「ごめんね、もう、お母さん・・」

その目から、涙が流れ落ちていった。



「母さん。」

はっと顔を上げると、目の前に死んだはずの息子の姿があった。

「と、とも!」

「うん。」

ともちゃんは、にっこり微笑んだ。

「迎えに来たよ。よく頑張ったね。」

差し出された手を取ると、ともちゃんは、母を立ち上がらせる。

「よかった。」

親子はしっかり抱き合った。

幸は嬉しそうに、二人の周りをまわっていた。


その姿を見届けてから、

私は目を移し、燃えさかる染井吉野と黒龍を見た。

小さな悲鳴が聞こえるようだった。

「迎えに来たよ。一緒に逝こう。」

そう言って両手を差し出すと、

二本の樹は少し震えてから、私に倒れかかってきた。

その燃えて倒れた幹と枝が私の中を通り過ぎるとき、

差し出した手のひらに、ゆらりと揺らめく濃紫と桜色の炎が乗っていた。

「うん。還ろう。」

そう言うと、二つの炎が少し明るくなって、宙に向かって舞い上がった。

それを見送ってから、

「迎えに来たよ。一緒に還ろう。」

もう一度そう言うと、様々な色の炎が私の周りに集まってきた。

私が植えて、お母さんが、ともちゃんが、手入れをしてくれた植物達の魂。

そこに住み着いたあらゆる物の魂。

「うん。還ろう。」

私の周りを回っていた様々な炎が、一斉に宙に舞い上がった。



「みなみちゃん。」

「お母さん。」

ともちゃんの母は、飛びつくようにして私をぎゅっと抱きしめた。

懐かしい、温かい匂いがした。

目を閉じ、その温もりに浸った後、再びゆっくり目を開けたとき、

その肩越しに、炎に照らされた小さな梅の木が見えた。

燃えていない。

ただ、炎の勢いで揺れているだけ。

先程の私の呼びかけにも応じず、まだ生命の息吹を感じる。

桜と藤に囲まれてあまり大きくなれなかった紅梅だった。


母の腕をそっとほどいて、私はその子に近付いた。

その子と同じ高さになるよう、膝を折る。

一緒に降りてきた幸が、傍に来て、葉の匂いを嗅ぐ。

その頭を撫でてから、そっとその葉に触れて、

「一緒に逝かない?」

と、問いかけた。

その子は、初めて話しかけられた子供のようにふるふると震えた。


ああ、そうか。この子は。


葉から手を離し、再び話しかける。

「ここに残るんだね。

あなたにはそういう使命があるんだね。」

この後の世界がどうなっていくのかを見届ける使命。


この世界は、どうなっていくのだろう。

私は、この樹の未来に思いを馳せた。




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