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喫茶店  作者: 渡辺正巳
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 それからちょうど二年後の、夏のとある暑い午後のことだった。例の喫茶店には客がおらず、静かな店内にラジオの音声だけが響いて、間延びした空気が流れていた。相変わらずマスターがカウンターの中に一人突っ立って、つまらなそうにあくびをかみ殺している。


カランコロンカラン


 午後二時を過ぎた時だった。店の入り口の扉につけられたカウベルが鳴って、あの若い男女が店に入ってきた。二人はマスターに案内されるままに、二年前にも座った隅っこのテーブル席に着いた。そして男はアイスコーヒーを、女はアイスティーを頼んだ。注文を済ませると、女が男に話しかけた。


「めずらしいね、いつもホットコーヒーだったのに」


「ああ、昔はこだわってたんだけどね。最近は夏にはアイスも飲むんだ。熱さに負けたよ」


「そりゃそうだよね、前、夏にホット飲んでた時、見てるこっちが暑かったもん。・・・それにしても、だいぶ変わったね」


 女の言ったとおり、男は髪をいくぶん伸ばし、シルバーに染めていた。右耳にピアスをぶら下げている。顔からはあどけなさが消え、代わりに「いかにも遊んでいます」と言った雰囲気が漂っていた。


「そう?いや、まあ、そうか。来年から社会人だからね、もう、髪染めたりもできないから」


「そっか。もう就活は終わったの?」


「ああ、一応内定もらった。出版社から」


「へえ、すごいね」


「いや、小さな会社だから」


「それでもすごいよ、リーマンショックがあって大変なんでしょ?うちも、従兄弟に学生がいるんだけど、全然内定が決まらなくて――」


 それから男と女は就職活動の話や、景気の話をしばらく続けた。そうしているうち、マスターがやってきてテーブルに飲み物を置いていった。男は早速コーヒーを一口飲み、飲みながら改めて女を見た。


 女は女で、二年前から大分変わってしまっていた。見るからに痩せ細って、まんまるだった顔は頬が痩せこけ、輪郭が一回り小さくなっていた。切れ長の両目の下には隈がくっきりと浮き出て、生活の苦しさが顔中からにじみ出ているようだった。その顔を見ると、男は痛々しい気持ちになり、相手に気づかれない程度に顔をしかめた。


 そんな男の気持ちに気づかず、女は当たり障りの無い世間話を相変わらず続けている。男はタイミングを見計らって、話がふと途切れた瞬間に、本題を聞き出そうと試みた。


「あのさ、で、今日はどうしたの?突然」


 女は少し、黙った。そうしてそれから、


「うん、ただ、元気にしてるかなと思って。ごめんね?」


「いや、別に迷惑なわけじゃないから。メールもらって、うれしかったよ」


「そう、ならよかった。・・・達也は今、付き合ってる人とかいるの?」


「いや、いないよ。理香に振られてから、二人、女の子と付き合ったんだけど、どっちともすぐ別れちゃった。なんていうか、理香と比べちゃって」


「そうなんだ」


「理香は?彼氏さん、じゃなくて旦那さんとうまく行ってる?」


そう聞かれて、女は少し嫌な笑みを浮かべた。


「・・・別れちゃったの」


「え?」


「五ヶ月前に離婚しちゃった」


「あ、そうなんだ」


「うん」


「・・・」


「・・・」


 二人、黙ってそれぞれの飲み物に口をつけた。それから、男の方から口を開いた。


「それはどうして?答えたくなかったら、いいけど」


「うん。旦那とは、行き違いとか価値観の違いがあっても、好きでいっしょになったんだからなんとかやってた。けど、ご両親とうまくいかないのが耐えられなくって」


「ああ、旦那さん、実家暮らしだったっけ」


「そう。細かいことなんだけどね、お義母さんが家事のやり方ひとつひとつに口挟んできたり、食事してる間じゅう小言言われたり。お義父さんとは、なんていうか、ちょっと変わった人で、旦那と付き合ってた時から合わなかったし。これが永遠に続くのかと思ったら、我慢できなくなっちゃった。子供のこと考えたら、別れるかどうかは悩んだけど、このままじゃそのうち絶対別れたくなるし、だったら早い方がいいかなと思って」


 女はそう言うと、アイスティーにガムシロップとクリームを入れた。そうして、ストローでひと混ぜした。男はそれを見るとは無しに眺めながら、


「そうなんだ。じゃあ、今は一人暮らし?じゃなかった、子供と二人で暮らしてるの?」


と聞いた。


「うん。親権は欲しかったからね。川口にアパート借りてる。東京は出ちゃった。家賃も物価も高いし」


「ああ、そう。まあ、川口なら東京みたいなもんだよ。子供はどっち?男の子?女の子?」


「男。陸って言うの」


「りく」


「大陸の陸だよ」


「ああ、この・・・」


男は言いながら空中に指で「陸」という漢字を書いた。


「陸、か。良い名前だね。でも、大変じゃない?一人で育てるのって。お母さんといっしょに暮らせばいいのに」


「何言ってるの?あの人はだめだよ。達也と前に会ってた時も、さんざん話したでしょ」


 女は突如感情をたかぶらせ、声を震わせた。


「でも、いろいろ、助けてくれるんじゃないの?初孫なんだから」


「そんなわけないじゃん。子供は放っておいても勝手に育つって思ってる人だよ。あの人と暮らすくらいなら、一人で苦しんでるほうがまし。もうあの人のことは言わないで」


女は怒りを押し殺すように言った。そんな女の様子を男は同情の目で見ながら、


「そっか、悪かった。ただ、一人っきりで育てるのも大変だろうなと思って。働きながら育ててるんでしょ?」


「うん。スーパーでパートして、なんとかね。養育費とか扶養手当とかいろいろもらってるし」


「そう、えらいね。大変だろうな。それで今日は陸君、どうしてるの?一人、置いてきたわけじゃないでしょ」


「保育園に預けてきた」


「へえ、保育園ってそんな早くから通えるんだ」


「うん、いま、早いところだと七ヶ月から受け入れてもらえるんだよ」


「ふうん、そっか」


「うん」


「・・・」


「・・・」


 再び二人の間に沈黙が訪れた。男も女も黙って、それぞれ何か思案しているようだった。女はまたうつむいてアイスティーを飲むと、顔をあげて言った。


「あのさ」


「ん?」


「もう私のこと、好きじゃないよね」


「・・・」


 男は黙った。返事が無いのを確認してから、女が続けた。


「できたら、また、これから会えたらなと思ってるんだけど」


「・・・」


「ごめんね、すごく虫の良い話だよね。自分でも分かってる」


「一年以上、かな」


「え?」


「それくらいの間は、理香のこと、ずっと引きずってた。他の女の子と付き合ってる間も。毎日理香のこと、思い出してた。それがここ最近は思い出す頻度がだいぶ減ってきて、ようやく忘れられてきたなっていう感じがしてる」


「・・・」


「そんな状態だから、今でも好きかどうかは自分でもよくわからない。それに、陸君がいるっていう理香の現状を考えると、悪いけど覚悟もいる。・・・前向きには考えたいけど、答えを出すまで、ちょっと時間をくれない?」


 女の頬に赤みが差した。女はまくしたてるように言った。


「もちろんだよ。久しぶりに会って、突然こんなこと言って、すぐに答えが欲しいなんて、図々しすぎるよ。じっくり考えてくれればいいから」


「分かった」


 男は静かにコーヒーを吸った。女との間にまた沈黙が訪れた。しかしそれはこれまでのように嫌なものではなかった。女と浮気をしていた頃、デートをしている間、二人を何度も包んだ、幸福な感じのする沈黙だった。男も女もその幸福に浸りながら、相手の顔を見つめ合っていた。


 二人がしばらく黙った後、女が「そうだ」と呟いて、自分の座っている椅子の脇に置いていたバッグを手に取った。そうしてバッグの口を開け、中からスマートフォンを取り出した。


「陸の写真、見てよ」


 女はスマートフォンを操作しながら楽しげにそう言うと、男に渡した。男は「ああ」と言いながらそれを受け取った。


「右にスクロールすると、他の写真見れるから」


「ああ。・・・」


 男はスマートフォンの画面を見て、じっと固まった。その両目が大きく開いた。舌をちょっと出して、上唇をゆっくり舐めた。それからようやく口を開き、


「あの、この子ってさ」


と言いかけた。女はそれをさえぎって、


「分かる?ダウン症なの」


「・・・」


「今一歳五ヶ月なんだけど、ようやくお座りとハイハイをしだしたところなの。健常の子より、発育が遅いから。・・・似てると思わない?」


「・・・え、何が?」


「眼とか。達也に。まだ小さいのに、くっきりした二重でしょ?」


言われるがままに、男はスマートフォンに映る子供を眺めた。少しの間そのままスマートフォンと向き合っていたが、


「そうかな。・・・ちょっと、分からないな。ありがとう」


と言ってスマートフォンを女に返した。


「・・・」


「・・・」


 二人はまた黙り込み、コーヒーとアイスティーを飲んだ。何十秒経っただろうか、男が意を決したように、おずおずと口を開いた。


「あのさ」


再び会話が生まれたことを歓迎するかのように、女がうれしげに返事をした。


「何?」


「やっぱり、これから時々会うって話、あれは、無しにしていいかな。ごめん」


「・・・」


「実は今、付き合ってはいないけど、気になってる人がいるんだ。だから、ごめん」


 そう言われても、女は特にこれと言った反応を示さなかった。ただ、両の瞳の輝きが、スッと失われた。女はその死んだ魚のような瞳をして、


「そう、分かった」


と言った。そうして二年前、男を振った時もそうしたように、横を向いた。


「・・・ごめん」


「・・・」


「・・・」


 一拍の間の後、女は男の方に向き直り、話し始めた。


「正直に言ってくれた方がまだいいのに」


「え?」


「陸に障害があるから、付き合うのは嫌だって」


「いや、それは違う・・・」


女はこみ上げてくるやるせなさをかみ殺すようにして、続けた。


「どうせ、そうでしょ。旦那もそうだったし。お義母さんだけ、はっきり、正面から私に嫌味言ってきたけど、あっちの方がはるかにいいよ」


「理香」


「もういい、もういいよ。結婚して、陸が産まれて、ダウン症だって分かって、旦那もお義父さんもお義母さんも一気に態度が変わって、それでも一年がまんして、どうしようもなくなって別れて、それからこの五ヶ月、ひたすら一人でパートと育児に追われて、いったい私が何したって言うの?達也と浮気してた罰が当たった?だったら神様はあんまりにもひどいよ。何で私だけ。


もう、疲れちゃった。毎日パートが終わって、陸を迎えに行くまでの間、一人でアパートでご飯を食べてる時、これから先、一生私には恋愛とか娯楽とか無いんだなとか、他の子はどんどん成長していくけど、陸はそうじゃなくて、私が一生面倒見なくちゃいけないんだなとか思うと、涙が止まらなくなるの」


最後の方は、泣きかけて、どもりながら言い切った。


「・・・」


「ふふふ、引くよね、こんな話。ごめんね、もうやめるよ。・・・もう、話すことないね。じゃあ、私行くね」


 男は止めなかった。興奮してつい忘れたのか、それとも金銭的余裕の無さからそうしたのか、分からないが、女は今回は伝票をテーブルに残したまま、席を立った。数秒後には、


カランコロンカラン


カウベルが鳴って、男は一人店の中に残された。


 そんな二人の様子を、カウンターの中からマスターが見るとはなしに、眺めていた。

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