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新宿から京王線に乗って二十分ほどの八幡山駅、その駅近くの雑踏にある古びた喫茶店の片隅で、一組の若い男女がわけありげに向かい合って座っていた。二〇〇七年の、八月のとある午後のことである。
わけありげに、と言ったのは、その男女が先ほどから一言も会話をせず、飲み物を前にしてただ黙っていたからである。店と同じように古いがよく磨かれている木のテーブルの上、男の前にはホットコーヒーが、女の前にはアイスティーが置かれている。コーヒーはカップになみなみと注がれたまま若干冷めてきていたし、アイスティーは氷が溶けて小さくなり、グラスの肌が結露していた。
二人の他に客は居らず、店の中にはこのカップルと、カウンターの中でぼんやりと突っ立っている中年のマスターがいるだけだった。BGMは流れておらず、代わりに、マスターが好きなのだろうか、喫茶店には珍しく甲子園のラジオ中継がかかっていた。
「さあ、大変なことになってまいりました、全国高校野球選手権準決勝、九回の裏、常葉菊川の攻撃。2アウトランナー無しからなんと三連打で二点を反撃、四対三と一点差に詰め寄って、バッターは二番町田。今、守備についている広陵高校のタイムが終わり、内野の円陣が解けました。ピッチャー野村、涼しげな表情を崩さずセットポジションに構えます・・・」
「それで、なんで?」
沈黙を破ったのは男の方だった。男は二十歳前後といった感じで、まだあどけなさの残るさわやかな顔立ちをしていた。坊主を少し伸ばしたような短髪の黒髪を、ヘアーワックスで逆立たせている。細身だが筋肉質で、タイトなジーンズとTシャツの下からごつごつした体のラインが浮き出ていた。髪型といい、服装といい、まだ仕事に就く前の、学生っぽさがにじみ出ていた。
「・・・何が?」
一呼吸置いて女が返した。女は男よりいくつか年上に見えた。髪を後ろでたばねて団子にしており、おかめのように切れ長の瞳に丸顔の、和風の顔をしている。平安時代に生まれていれば、さぞモテただろうといった顔である。化粧はしていなかった。中肉中背で、フレアスカートに半そでのポロシャツを合わせていた。
「もう会わないっていうのは」
男はそう言い捨て、コーヒーカップを手にとって一口すすった。そして、カップをソーサーの上に戻し、女の顔を見た。女はその視線を避けるように下を向きながら、
「達也に定期的に会うのが、もうだるくなったの」
と呟いた。
「だるいって、なんで」
「なんでも。つまんないからじゃない?」
女はそう言うと、アイスティーのグラスにストローを挿し、それを回した。グラスの中で氷がカラカラと冷たそうな音を立てた。
「そんな・・・ことはないでしょ」
男は小さな声でそう言った。女の言葉に動揺させられ、気おされたような声だった。
「あはは。それ、自分で言う?」
はじけるように笑って、女は顔を上げて男の顔を見た。男はそれに対してにらみつけるように女を見返し、言った。
「だって、なんていうか・・・それこそ自分で言うのはなんだけど、理香といっしょにいるとき、会話とかなんも無くても、すごくしっくり来るって言うか、ただ黙って手つないで散歩してるときもそうだし、した後、理香に腕枕して寝てるときもそうだし、他の子と全然違うんだよ。あの感じ、俺だけじゃなくて理香にも絶対伝わってると思う、違う?」
問いかけられて、女は再び笑声をあげた。
「あははは。・・・ははは、はーあ。それ、本気?『違う?』って!私に聞かないでよ。達也って、意外と熱いんだね、知らなかった」
「言っとくけど、本気で言ってるからね」
「わかってるわかってる、ありがとう。そうだね、私も達也といる時は幸せだよ。・・・ふふふ、恥ずかしい」
「じゃあ、なんで?」
「え?」
「別れる、っていうか、会わなくなる理由」
「・・・彼氏にプロポーズされたって、前に会ったとき言ったじゃん」
「うん」
「それ、考えてみようかと思って」
二人の間に短い沈黙が流れた。男は動揺を隠すように再びコーヒーをすすり、言った。
「『他人といっしょに暮らすのとか、無理だわー』って、前は言ってたじゃん」
「でも私も二十三だし。フリーター生活もいい加減もういいかなと思うし」
「そっか」
「うん、ごめんね?」
「いや・・・」
「じゃあ、それだけだから。もう、いい?」
女はそう言ってテーブルの端に置かれていた伝票を手に取り、バッグを肩にかけた。男はじっと、うつむいていたが、思い切ったように口を開いた。
「待って」
女は一瞬動きを止め、男の方を向くと、小さくため息をついた。それからビデオを逆再生するかのようにバッグを肩から外し、伝票を元あった位置に置いた。そんな二人の様子を、先ほどからカウンターの中からマスターがぼんやり見つめている。
男は顔をあげて女を見た。男の顔は頬が若干紅潮し、瞳がうるんでいた。男はその瞳で女の顔を見据えて、言った。
「ごめん、ちょっと、待って。・・・あのさ、なんていうんだろ、結婚するって決めた人に言っても仕方ないのかも知れないけど、好きなんだよ。理香のこと。こんなの初めてなんだ。理香が会ってくれなくなって、メールもまともに返してくれなくなったここ二ヶ月間、信じられないくらい辛かった。
最近は毎晩夢に、理香の事が出てくるんだよ。毎晩だよ?しかもそれがさ、現実と同じように理香に会えないっていう内容の夢なんだ。ようやく理香からメールの返信が来るだけの夢とか、携帯に理香から電話がかかってきて、あ、やばい、出なくちゃ、と思って慌てて携帯を取るんだけど、その瞬間電話が切れちゃう夢とか。それで目が覚めるたびに思うんだよ、『夢の中でくらい、好きな人に会えよ、俺』って。
で、こないだ、やっと会う夢を見たんだよ。どんな夢だったかは恥ずかしいからちょっと言えないけど、とにかく会うことができて、すごく幸せな気分になったんだけど、その瞬間目が覚めて、『夢か・・・』ってめちゃくちゃ落ち込んで、もう、会っても会えなくてもどっちにしろ落ち込むんじゃん、って思ってね」
「ふふふふ」
「起きてる間もずっと理香のことばっかり考えて、あんまり考え続けてるもんだから、この前、昼ごはんの洗い物してたとき、あ、もちろんそのときにも理香のこと考えてたんだけど、いったいなんなんだろうこれ、と思ってアパートで一人、笑い出しちゃったよ」
「ははは」
「そんなんだから、もう、どうしようもないんだ。今さらだけど、彼氏さんと別れて、俺とちゃんと付き合ってくれない?理香が結婚したいなら、今は俺無理だけど、大学卒業したらきっとするから。五年も付き合ってきた人と、半年間、たまに会ってきただけの俺と、選べって言われたら、彼氏さんの方を選ぶのが当たり前かも知れないけど」
女は男の話の最後のこの部分は、笑わずに真剣な面持ちで聴いた。そして、アイスティーのグラスに顔を近づけて、グラスをテーブルに置いたまま、ストローに口をつけて一口飲んだ。飲み終わると顔を元に戻して、真面目にこう言った。
「ありがとう、そんなこと言われたの初めてだよ。恥ずかしいけど、うれしいよ。でも、だめなんだよね」
「そう」
「・・・本当はね、できちゃったの」
「え?」
女は男の視線を避けるように横を向いて、
「赤ちゃん。今、三ヵ月」
再び二人の間に沈黙が流れた。男はしばらく固まっていたが、やがてコーヒーカップを手にとって、口の高さまで持っていき、なぜか口の端に薄く笑みを浮かべながら、
「え?」
と繰り返し、コーヒーをすすった。そして、
「それは、どっちの?」
とつけ加えた。
「分からないの」
「分からないって、そんな」
「だってしょうがないでしょ、タイミングは二人とも合ってるんだから。大切なのは、彼氏は社会人で、育てられる経済的能力があって、達也にはそれがないってことだよ」
「・・・」
「ね?無理でしょ」
そう言って女は横を向くのをやめ、男の顔を見た。男は黙り込み、右手でテーブルに頬杖をついた。そうしておもむろに頬杖を解き、
「俺が、学校辞めて就職するから――」
女がそれに被せて言った。
「そう言ってくれるかも知れないと思ったから」
男が止まった。女は続けた。
「だから、言いたくなかったの。大学には行って。将来を考えたら絶対そっちの方がいいよ。ありがとう、気持ちはありがたくもらっておくよ」
「・・・」
男は先ほどの長々しい愛の告白をした時と同じように、うるんだ瞳で女を見つめた。女はその視線を感じながら、伝票を取り、バッグを肩にかけて、
「じゃあね。私も達也のこと、好きだったよ」
優しく言った。それから席を立ち、マスターに向かって、
「すみません、お会計を」
と声をかけ、店の入り口にあるレジで金を払った。そうして店の中は一切振り返らずに、
カランコロンカラン
カウベルを鳴らしながら扉を開け、外に出て行った。
男は席に座ったまま、その女の後姿を見送った。女が行ってしまった後も、まるでその幻影を追うかのように、扉を見つめていた。男の前のテーブルには、まだ湯気を立てているコーヒーと、女が一口だけ吸っていったアイスティーが、相変わらずグラスを結露させて、じっとたたずんでいた。




