兄弟の和解
ふと目が覚めて、隣で眠る蝶子を見つけ、十五はホッとした。
同じ裸体でぐっすりと眠る蝶子を抱き寄せ、起こさぬよう静かに息を吐く。
女を抱いて眠るなんて生まれて初めての経験だ。
今まで多くの女性と関係を持ってきたが、心許せる相手なんて一人もいなかった。
抱けば抱いただけで一緒のベッドで一夜を共にすることなどなかったし、それどころか寝顔すら見せたことがない。
ところがどうしたことだろう。
蝶子の隣ほどぐっすりと安心して眠れる場所などなかった。
まだ幼さの残る、年の離れている蝶子におぼれきっている自分がいた。
こんな感情は今までに持ったことがない。
これが人を慈しみ、愛するということなのだろうと、十五は蝶子の安らかな寝顔を見て顔を綻ばせた。
昨夜は些か無理をさせてしまった。
欲求不満だったとは言え、蝶子を幾度となく抱いた。
細く白く、美しい蝶子を壊してしまうのではないかという不安と、それを初めて汚しているのが自分だという優越感。
この先、自分が彼女を手放すつもりがなくとも、蝶子が自分の元から飛び立っていくかもしれない。
それでも願うのは自分に想いを寄せて欲しい、隣で安らかに眠っていて欲しいということばかりだ。
一体、いつからこんなに自分はわがままになってしまったのだろうか。
初めてのことばかりで、何もかもが戸惑いと新鮮の連続だ。
きっと、蝶子なしでは生きていけない。
それほどまでに自分が想われていることを、彼女自身は気づいているのだろうか。
拭いきれない不安を抱えたまま、まだ起きそうもない蝶子の額に唇を静かに落とすと、起こさぬようにベッドから起き上がった。
ベッドの下、あちらこちらに散らばっている衣類に視線を落とし、片付けるのを後回しにして、ベッドの脇にあるクローゼットを広げる。
中に潜んでいたチェストの引き出しから、下着とジーンズを取り出すと、それを身に付け、けれどジーンズはチャックを閉めずに完了する。
そっとベッドの中に居る蝶子の様子を伺えば、その寝顔は幸せそうに綻んでいるように見える。
十五は無意識にそれとシンクロするように顔を綻ばせた後、足音をたてぬよう、寝室を後にした。
リビングを通り過ぎ、キッチンへ向かった十五は、冷蔵庫の扉にあったミネラルウォーターのペットボトルを手に取ると、喉を鳴らしながらそれを飲む。
と、静かなリビングにチャイムの音が響き、十五はペットボトルに口を付けたまま掛け時計に目をやった。
時刻はすでに昼を過ぎていた。
明け方まで及んだ行為からすれば寝過ぎとは思わないが、せっかくの休日に、しかも蝶子が居るときに限っての訪問者となれば、不機嫌にならずには居られない。
このマンションを知っているのは身内だけだと、十五自身わかっているからこそ不機嫌になるのだが。
十五はキッチンの隅に口が開いたままのペットボトルを置き、玄関へと向かう。
相手を確認せずにドアを開ければ、きっちりと仕事スタイルに身を包んでいる実兄、緒凛が仁王立ちしていた。
「……何です?」
「何だとは何だ」
「何か用ですかと尋ねたんです」
「用があるから出向いたんだろう。さっさと入れろ」
「嫌ですよ」
「蝶子ちゃん、まだ居るのか?」
「……寝ています」
「……寝顔を拝ませろ」
「ふざけんな、帰れ」
思わず出てしまった地に、緒凛はかなり驚いた顔をした。
が、次の瞬間には近所迷惑……いや、近所はいないので蝶子が飛び起きるのではないかと思うほど、大きな声で笑い始めたのだ。
「……帰ってください」
地が出てしまったことに、バツの悪さを感じ、十五が改めて言い直すと、緒凛は肩を揺らしながら十五に手をひらひらとさせながら背を向ける。
どうやら待てと言いたいらしい。
笑われる理由も分かるし、笑われている自覚もあるが、ここまで笑われる筋合いはない。
十五は無言のままドアを閉めようとすれば、緒凛はすぐさま振り返りそれを阻止した。
「まぁ待て。落ち着け」
「うるさい。死ね」
こうなれば地が出てでも追い払いたくなった。
ギリギリと力をこめてドアを閉めようとするも、緒凛も負けじとドアをこじ開ける。
結局緒凛の侵入を許し、十五はむすっとしたまま踵を返せば、緒凛はまだ引っ込みのつかない笑みを口元に浮かべながら、十五の後を追ってリビングへと足を踏み入れた。
十五は何も言わないまま、先ほど放置したミネラルウォーターのペットボトルを手に取った。
緒凛は我が物顔でソファに座り込むと、辺りを見渡して「ふーん」と面白くなさそうに言葉を漏らす。
面白いものを見つけられても困るが、あいにく彼の機嫌が取れるようなものはここには一切置いていない。
ペットボトルに口をつけ、些か渇き気味の喉を再び潤せば、緒凛はその様子を見ながら手に持っていた茶封筒をガラステーブルに放り投げた。
「宮川ホテルから建築の依頼があった。お前、一週間の間に全部設計頼んだ」
「一週間?無茶苦茶な要求ですね。第一、僕は設計を辞めたんですよ?」
「やらないとは言わせんぞ。お前、昨日は久々に暴れたらしいじゃないか」
ペットボトルのキャップを閉めていれば、緒凛が何でも知っているぞと言った表情で十五を見る。
十五は思わず手を止めて緒凛を見れば、緒凛はふふんっと鼻で笑った。
「何で知っているんだと言いたげだな」
「僕の言いたいことがわかるのなら理由を答えるのが親切ってものでは?」
「ふんっ、お前にくれてやる親切などいつの日にか置いてきた」
「それは随分昔の話のようですね」
「お前なぁ……。ふぅ……。お前の同級生から慰謝料請求が5、6件あったぞ。慰謝料というより治療費と言った方が正しいか」
「ああ、なるほど」
「暴れるのは構わんが請求が来ないようにしてくれた方が助かるな。尻拭いする俺の身にもなれ。ただでさえ仕事が忙しいのに」
そうぼやきながらスーツのポケットに手を突っ込み、自分愛用のタバコを取り出すと、緒凛は一本を口にくわえ、タバコはまたポケットにしまう。
十五は飲みかけのペットボトルを再び冷蔵庫の扉にしまいながらそれを眺めていれば、どうやら緒凛はライターが見つからないらしく、自分の背広をパタパタと上から叩いていた。
「頭のキレる奴を友人に持ったな。直接お前にではなく俺に請求してくるとは」
「友人ではありませんよ。僕に友人と呼べる人は居ません」
「雅は?」
「……アレこそ友人じゃありません。アレは変人」
「親友だったか」
「アンタ本当にムカつくな」
緒凛の淡々とした反応に、十五はイライラとしながら返事をする。
そんな反応に緒凛はタバコを咥えたまま喉の奥でククッと笑って。
いい加減見つからないライターにチッと舌打ちをすれば、十五はリビング内を移動し、テレビ台の下に置いてあった灰皿とライターを持って緒凛の元へ向かい、それを差し出した。
差し出されたそれに視線を落とし、緒凛はすぐにそれを受け取る。
灰皿をガラステーブルの上に置いて、ライターを手に取ると十五が手を差し出してきたのを見て、再びポケットからタバコを取り出し、一本を差し出した。
無言のまま十五はそれを口に咥え、緒凛の隣に座る。
緒凛がライタを鳴らし、自分のタバコに火をつけると、十五はそれに顔を寄せて同じ火でタバコを燃やした。
ふぅーっと同時に白い煙があがる。
ライターを投げ出しながら緒凛は天井をあおるように見上げ、それからふっと目を細める。
十五はそれに気づきながらも自分が口にしたタバコの味を楽しみながら無言を突き通した。
「……戻ったな」
嬉しそうに呟いた緒凛の言葉に、十五は床を睨みながらタバコを吸う。
分かりきっていることを、そうはっきり言われてしまうと、かえって気恥ずかしさがあった。
きっと緒凛のことだから理由もちゃんと分かっていると思う。
こうなってしまったことを知らずとも、戻った理由は明確で、それに今の自分の姿を見ればますますそうだと認めているようで。
せめてTシャツくらいは着ておくべきだったかと思いながら、十五はようやく開きっぱなしのズボンのチャックを閉めれば、緒凛は十五の意図を察してかクツクツと笑いながら十五を見つめた。
「そう慌てて訂正するべきことでもないだろう。好意を持つ男女が一夜を共にしたと知れば当然の行為だ。それに……お前が我慢しきれるとは思っていないし」
「……ご丁寧に一般論を説明していただきありがとうございます」
顔をそらしながら十五がぼやけば、緒凛は十五が織り成すいちいちの反応に、ククッと笑う。
実兄は手に負えないほど頭が切れる。
緒凛と大差せず、自分の性格もある意味いいほうだとは思うが、彼には負ける。
自分に対する態度こそ気に食わないが、一を知れば十を理解するような人だ。
侮れる人ではないし、むしろ近くに居ることすら遠慮したい。
仕事ならしてやるから早く帰れと促したいが、この人がそう簡単に自分の言うことを聞いてくれるとは思わないし。
十五は誤魔化すようにタバコを吸い、白い吐息を見つめながら手に持っていたタバコを灰皿に置く。
ジリジリと燃えるタバコから、細くも綺麗な線が天井に向かって延びていった。
「俺はな、十五。今までのように敬語を使われようが無表情で対応されようが文句は言わないよ。ただ、単純に、お前がお前を取り戻してくれたのが素直に嬉しい」
「その割には人の気分を害する発言しかしませんね貴方は」
「まあそう突っかかるなよ」
「誰がそうさせているのか自覚を持って欲しいものです」
「……俺じゃないよな?」
「なぜこんなにも分かりやすい原因を一番先に取り除こうとするんですか」
十五が眉を潜めてそう言えば、緒凛は我慢が出来なかったように大きな声で笑う。
笑うのはいいが声を潜めて欲しい。
彼女が起きてしまうじゃないか。
そんな緒凛の態度に、イライラを募らせている十五の胸内を察してか、緒凛は口元に軽く手を当てながら必死に笑いを凝らしているようだった。
ようやく笑うのをやめた緒凛は、チラリと別の方向に視線だけを向けて、すぐに十五に戻すと、やんわりとした穏やかな笑みを向けて言う。
「すまない。やはり俺の笑い声はお姫様の眠りを妨げてしまったようだ」
そう言いながら立ち上がる緒凛を見て、十五は一瞬何のことかと思ったが、すぐに意味を理解して寝室の方を見る。
少しだけドアが開いて、そこからチラリと顔だけを覗かせる蝶子の姿が目に入ったのだ。
「お邪魔しているよ蝶子ちゃん」
十五が蝶子の姿を確認したのを見て、緒凛が蝶子に向き直ってニッコリと挨拶をする。
蝶子は困惑した表情を浮かべながら、小さく会釈をすると、助けを求めるように十五に視線を向けた。
「どうかしましたか?」
口調が元に戻ってしまっていた十五の様子に、蝶子は少しだけ目を見開いたものの、すぐにおろおろと視線を泳がせて首を伸ばすようにリビングにいる二人を見る。
途端、チラリと見えた蝶子の姿に、十五は驚きのあまり立ち上がり、すぐさま緒凛を睨めば、緒凛は軽く口笛を吹いて蝶子の姿を凝視したまま喜んでいた。
「見るな!!」
「大丈夫。減るもんじゃない」
「減らないが穢れる!!」
十五は慌てながら緒凛にそう吐き捨てると、蝶子の元に駆け寄り、蝶子を寝室に押し込めて自分もそこへ入る。
ようやくまともに蝶子の全身を見た十五は、大きくため息をつきながら蝶子の肩に手を置いた。
「何でそんな格好をしているんですか……」
「あの……お洋服を入れたカバン……浴室に置きっぱなしで……。緒凛さんがおいでなのに……パジャマ姿では失礼かと……」
そう言っておろおろと弁解をする蝶子の姿は、十五のワイシャツ一枚という、何とも淫乱な姿だった。
どうやらクローゼットに掛けてあった十五のワイシャツを拝借したようだが、これを見られるくらいならパジャマ姿の方がマシだと本気で思った。
下着は履いているようだが、自分よりも遥かに華奢な体つきの蝶子が十五のワイシャツを着るとなると、ぶかぶかで足の付け根は見えていない。
けれどそこから伸びる白い足は無駄に美しく、昨日愛し合った証が転々と存在する姿は、十五の性欲を掻き立てるのには十分な材料だ。
相当慌てていたのか、ボタンがひとつずつ掛け違っているのが何とも愛らしい。
十五に叱られ、シュンとしてしまった蝶子を見つめながら、沸き起こってくる性欲を抑えるように視線をそらし、蝶子から手を離してため息をついた。
「パジャマ姿の方がマシです……今カバンを持ってきますからちゃんと着替えてください」
「ごめんなさい……」
「……別に責めているわけでは……。むしろ僕としては喜ばしいのですが、凛兄が来ていると分かっていたならわざわざ出てくる必要はなかったんですよ……」
「でも……ご兄弟のおうちにお邪魔しているのに、挨拶をしないのは失礼かと……」
「それが実家での出来事なら致し方ありませんが、ここは僕の家ですし、凛兄に気を使うことはありません。今すぐ追い払いますから」
「お、追い払うって……」
今にも泣き出しそうな蝶子が、潤んだ瞳で自分を見上げるものだから、十五は限界だといわんばかりに顔を歪めて蝶子を抱き寄せた。
「駄目だ。何が何でも追い払ってくる。そのままここに居ろ」
「……あ、あの……十五さん?」
「わかった?」
「……はい」
突然抱きしめられて口調が変わったことに、蝶子は困惑するも、十五はすぐに蝶子から離れて寝室を出る。
背中でパタンとドアを閉めれば、ニヤニヤと気持ち悪い笑みを浮かべた緒凛が十五を見つめ、十五はげんなりとしながら緒凛を睨んだ。
「……帰ってください」
「欲情したか?」
「ああ、そうだよ。だから帰れ」
「あんまり蝶子ちゃんに無理をさせちゃいかんぞ」
「うるさい。帰れ」
聞く耳を持たない弟に、緒凛はやれやれと笑いながら玄関へと歩いていく。
十五は施錠するために緒凛の後ろについて歩いた。
「仕事の件は任せたぞ。もちろん謝礼は払わん」
「今帰って頂けるほど喜ばしい謝礼はありません」
きっぱりと言った十五の言葉に、緒凛はケラケラと笑いながら靴を履く。
それから玄関のドアノブに手をかけたところで、十五はムスッとしながら緒凛に声を掛けた。
「兄さん」
「何だ?」
「……ありがとう」
十五のお礼に、緒凛は驚いたように振り返り、それからふっと微笑む。
何も言わないまま再び玄関ドアを開くと、振り返らぬまま手を振って十五のマンションを後にした。
礼は言ったがこれ以上の邪魔はさせない。
十五はしっかりとドアに施錠をし、急ぎ足でリビングを過ぎて寝室に入る。
ベッドに腰掛けていた蝶子が十五の姿を見てホッとした表情を見せると、十五は無言のまま蝶子に歩み寄った。
「あの……緒凛さんは……」
「追い出した」
「そ、そうですか」
本当によかったのだろうか?と蝶子が少しだけ首をかしげながら答えれば、十五はそのまま蝶子の唇に自分のそれを押し付けてベッドへと倒れこむ。
突然の十五の行動に蝶子は戸惑いを見せたが、十五は目を瞑ってそれを無視した。
「んっ……と……ごさ……んんっ……まって……んっ……」
言葉を漏らすことさえ許してやらない。
この子には自分さえ居ればいいと思わせたい。
きっとそんな考えを口にしたら、彼女は困ってしまうから言わないけれど。
せめて二人きりのときぐらいは自分だけを考えて欲しい。
昨夜だけで十分満たされたはずなのに。
十五は沸き起こる感情を押さえることが出来ず、再び蝶子を求めた。




