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揺れる眸  作者: 佐倉硯
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揺れる眸

半ば強引に連れて行かれた美容室で、蝶子は髪を揃えた。

一番短くなってしまった髪に合わせて揃えたものだから、腰まであった蝶子の髪は顎のラインに沿ったボブカットになった。

毛先はクセなのか、内側に巻き込むような形になり、オカッパっぽくなってしまったことに少し違和感を感じるが、決して嫌な髪形ではない。


蝶子が髪を切っている間、十五は蝶子の座る位置が見える待合室でずっとこちらの様子を見ていた。


鏡越しに何度か十五と視線が合ったが、なんとなく喧嘩後の気恥ずかしさからか、すぐに視線をそらしてしまう。

何度十五に視線を向けても、必ず絡み合ってしまう視線。

まるで見張られているような感覚に、蝶子は体を強張らせてばかりだ。

話してくれるというのなら、もう逃げ出すこともないのに……。

すでにカットが終わり、席を立たなければいけなくなっても、なんとなく十五の元に近寄るのが怖くて席を立てないで居る。

カットを担当した店員が不思議そうに蝶子の顔を覗き込んできたのを見て、蝶子は愛想笑いを浮かべながら重い腰を上げた。


ようやく自分の元へ来た蝶子に、十五は優しい笑みを浮かべて、切りそろえられた髪を撫でる。

それから何も話さないまま会計を済ませ、再び蝶子の手を取り店を出る。

たぶん、十五も同じように気まずいのかもしれない。

車を運転している間も、何も話さない空間が酷く堅苦しい。

なぜこんな雰囲気のまま過ごさなければいけないのだろうか。

仲直りだってしたはずなのに、喧嘩したときよりも緊張感が増している気がする。

もしかして、やはり別れたいと言われるのではないだろうか。

あれだけ話したがらなかった十五の過去は、自分が想像していたよりも遥かに辛いことなのだろうか。

それを、本当に聞いてもいいものだろうか。


どうして……こんなに辛そうに笑うんだろう。


一層、無表情の方がまだ理解できたかもしれないのに。


色々な考えが頭の中を駆け巡っていたのに……だ。


十五はいつも通りの口調で、いつも通りの態度で、淡々とデートの続きを始めたのだ。

デートと言っても、もうすでに日は暮れていて、二人は十五のマンション近くのスーパーへと足を踏み入れた。

蝶子の手料理を楽しみにしていたらしく、十五は自分の食べたいものを蝶子に次々とリクエストしてくる。

そんな十五の希望に答えるように、蝶子も内心戸惑いながらも平然とした態度で材料を選んでいく。

あっという間に買い物は終了し、十五のマンションへと帰り、早速夕飯の準備に取り掛かる。

相変わらず十五は蝶子の料理を手伝ってくれて、蝶子も十五と過ごす時間を楽しんだ。

本当にこのままでいいのだろうかと何度も自問自答したけれど、答えは見つからない。

十五が教えてくれると言っていた過去の話を中々持ち出す機会が出来ず、二人は蝶子の作った夕飯を食べ、譲り合いながらも十五が先に風呂に入って。


今現在、蝶子は十五と入れ替わってお風呂に入っている状況なのだが。


「何で……かなぁ?」


結局、十五は教える気など最初からなかったのかもしれない。

残念なような、でもどこかで安心したような感覚に、蝶子は誤魔化すように湯船をパチャッとはねた。


持ってきたパジャマに着替えて風呂をあがると、十五はリビングのソファでくつろぎながらテレビを見ていた。

ガラステーブルの上にはワイングラスが空の状態でそこにあり、お酒を飲んでいたのだと理解する。

バスタオルで短くなった髪を拭きながら、十五に歩み寄れば、十五は蝶子の気配に気づいて顔を上げた。


「ああ、あがりましたか?」


「はい。ありがとうございました」


蝶子が丁寧にお礼を述べれば、十五は優しく笑みを漏らし、それから何を思ったのかふと表情を曇らせて視線を泳がせる。

そんな十五の態度に、思わず蝶子も口を噤めば、重苦しい沈黙が二人を包み込んでいた。


寝るにはまだ早すぎる時間帯。


二人きりの状態で、一体どういう話題を持ち上げればいいのだろうか。

一層、今が十五の過去を聞くチャンスなのかも知れないが、それを口に出す勇気はない。

喧嘩したときの方がよっぽど素直になれたのに、今は怖くて仕方がない。

怖いのは自分の発言で十五を傷つけてしまうのではないかということだ。


今尋ねたら、嫌われてしまうだろうか?


でもこのままだと、もどかしい気持ちのまま二人きりの時間を過ごさなければいけなくなる。

自分が一体どうすればいいのか、何をすればいいのか分からず、こみ上げてくる思いを必死に抑えるように唇をかみ締めていれば、十五は視線を合わせないまま静かに蝶子に言った。


「……髪」


「え?」


「蝶子さんの髪、僕が乾かしてもよろしいですか?」



 ―*―



ソファの上で正座をし、十五に背中を向けた状態で座った。

片手にドライヤーを持った十五は、優しく蝶子の髪を撫でながら乾かしていく。

ドライヤーの熱のせいじゃない。

確実に十五に触れられている髪の部分が熱く感じられ、心臓がドキドキと高鳴っていくのを感じている。

お風呂上りだからという理由がつけられる分、顔が赤くなっているのは良しとしても、心臓の音が十五に聞こえてしまうのではないかという緊張感が蝶子を包む。

背を向けてしまえば十五にそのことを悟られることはないにしても、十五の様子が分からないのもまた怖いものだ。

十五は一体何を考えているのだろうか?

どうしようもなく不安だけが募ってくる。

また、喧嘩するようなことだけはしたくない。

今度は本当に仲直りできるかもわからない、十五に愛想を尽かされるかもしれない。

もう、何もかもがぐちゃぐちゃになって、どろどろと蝶子の心を支配し始めたとき、ドライヤーの音が途切れて、別のぬくもりが蝶子を後ろから抱きしめた。


「と……十五さん?」


突然のことに、蝶子が戸惑いの声をあげると、すぐ耳元で自分自身をあざ笑うかのような十五の吐息が聞こえた。


「……すいません……そのまま聞いてもらえますか?顔を見ると……話せる自信がない」


情けないほどの小さな十五の声に、蝶子は思わず体を強張らせ、十五に振り返ることも出来ずに前を見据える。

今から十五が何を話すのか、すぐに理解できたからだ。

蝶子の無言の反応を肯定と取ったのか、十五は蝶子の体を自分のもとへ引き寄せ、蝶子の首元を優しく抱きしめると、戸惑いがちに語り始めた。


「どこから……話せばいいのか…………本当、情けない話になってしまいます……。きっと、僕を軽蔑するかもしれません」


「軽蔑だなんて……」


蝶子が否定をして振り返ろうとするも、十五はそれを拒否するかのように抱きしめる力を一層強める。


「僕は……自分がどういう人間だったかを思い出せない人間です」


「……どういう……」


「ある人に……身代わりにされていたんです……。自分の想いを寄せる人の身代わりに……。クセ、言葉遣い、髪型、すべてにおいて……その人になりきる必要があった……」


ポツポツと話す十五の言葉は、どれを選んでも苦しそうに、でも必死に向き合うかのように語りだす。

本当に……この先を聞いていいのだろうか?


わからない……。


けれど……。


受け止めてあげたい……。


蝶子はただ何も言わずに十五の次の言葉を待った。


「……僕は……彼女に……半年間、すべての時間を捧げました……。彼女の命をこの世に繋ぎとめるために……僕のすべてを……」


「……命……?」


「……軟禁されていたんです……」


……軟禁?


自由を……自分すらも奪われていた?


「軟禁と言っても……自主的なものもありました……。彼女が自ら命を絶たぬよう……監視をしていたと言ってもいい……」


そう言った十五の手が、震えているのが分かった。


「僕は……彼女が知らないことも知っていて……だからこそ彼女を守る義務があった……。勝手に感じていた自分への責任感……。なぜ自分が巻き込まれなければいけなかったのかもわからないまま……僕はただ彼女の傍に居ることしかできなかった……」


十五はそう言いながら静かに自分の額を蝶子の肩に預けた。

震えているのは十五だけではない、事実を知った自分もまた、震えていると理解できる。


「ネクタイが……できないんです……。首を……彼女に首を絞められたことがあって……。それ以来……僕は、首に巻きつけるものが出来なくなって……。精神的なものなんですけど……」


蝶子はようやく納得した。

今まで感じていた違和感。

十五がネクタイを締めていた姿を一度も見たことがなかった。

いつも白衣を着ているのは、ただ生物の先生だからというわけじゃない。

背広を着れば、自然とネクタイを締めなければいけなくなる。

それを避けるためにいつも白衣を着ていたのだと。


「突然……僕をいらないといわれて……ようやく解放されたと……そう思っていたのに……。忘れてしまっていた……。本来、僕がどんな話し方をしていて、どんな態度で人と接していて、どういう風に笑っていたかさえ……。結局……自由は取り戻せても、自分は取り戻せなかった……。僕が、本当に黒澤十五という人間なのかも……わからない」


十五の吐息が蝶子の背を撫でた。

ゾクッとする感覚に、蝶子は思わず体ごと十五に振り返り、十五は驚いて蝶子を解放しながら見つめる。

強い眼差しで十五を見つめ、しっかりとした口調で言った。


「貴方は十五さんですよ?間違いなく黒澤十五さんです」


どうか、自分が自分であることを忘れないで欲しい。


そうでもしなければ、蝶子が恋をした相手は一体誰なのだと尋ねたい。

誰かの身代わりになって、たとえそのままのクセや話し方をしているとしても、自分が好きになったのは間違いなく黒澤十五本人なのだ。


悔しい。


悔しいよ……。


自分が自分でないと言っている十五の言葉が悔しくてたまらない。

もどかしさと、悔しさと……そんな感情が入り混じって、今にもあふれ出しそうな涙を必死に堪えながら十五を見つめれば。

十五は驚いた表情から一変、柔らかな笑みを浮かべて蝶子の手を握り締めた。


「ええ……知っています。それを気づかせてくれたのは貴方だった」


そう言って十五は、握り締めた蝶子の手を静かに持ち上げて、その甲にチュッと唇を押し付ける。

途端、ボッと燃えるような恥ずかしさが蝶子の頬を紅潮させ、今まで感じていた悔しさが一度に吹き飛んだ。


「以前、僕が貴方を意識したのは文化祭で行われたチャリティーオークションがきっかけだと話しました。けれど、あれは嘘なんです」


「……嘘?」


「はい。僕は貴方をそのずっと前から知っていました。たぶん、高校に入学して一ヶ月くらいのころからでしょうか?……貴方を知っていたんです。たった一度ですが、お話したことがある。覚えていますか?」


以前に面識があっただなんて初耳だ。

つまりは、まったく覚えていないのだ。

こんな綺麗な男の人を忘れるだなんて、自分の記憶もたいしたことがないのだと落胆する。

それを理解したのか、十五はクスクスと笑いながら蝶子に言った。


「五月の初めごろだったでしょうか?貴方は自分の家の近くで、空に向かってカメラのシャッターを切っていました。その時に、たった一言だけ『おはようございます』と挨拶を」


そんなもの……覚えているわけがない。


五月の朝?


カメラを持って?


そんなことはしょっちゅうある。

朝、目が覚めてから外の風景を見て、突然写真を撮りたくなることは、自分にはよくあることだ。

着替えている最中に、突然撮りたくなって外に飛び出すこともある。

そう考えれば、慌てていたせいで眼鏡も掛けずに……という、何とも間抜けなこともしている。

きっとその時だ。

だから覚えていないのかもしれない、と、自分で納得していれば十五は握り締めていた蝶子の手を翻し、今度は掌にチュッと唇を落とした。

そのまま無抵抗の蝶子の手を、自分の頬に当て、優しく微笑んでみせる。


「最初は、貴方が彼女に似ているとも思わなかった。ただ、カメラ越しに空を見上げる貴方の眸が……とても綺麗で……。制服を着ていたのを見て、自分の勤めている学校の生徒だと知り、僕は貴方を必死に探した。ようやく見つけて、貴方を遠くから見つめるのがいつの間にか日課になっていた。……今考えると、立派なストーカー行為ですよね」


十五は自分が行ってきたことをさらけ出しながら、クスクスと笑う。

蝶子はさすがにそれを肯定することも否定することも出来ずに困った表情で十五を見つめていれば、十五は目を細めて蝶子に言った。


「貴方を見るたびに、胸が高鳴った。貴方が笑う度に僕も嬉しくなった。校庭を歩く貴方を見ていたときに、校長先生に指摘されたんです」


「……指摘……?何て……?」


「『黒澤先生。珍しいですね。貴方が笑っているだなんて』って」


その言葉に、蝶子は思わず息を呑んだ。


「知らなかった……。僕はいつの間にか貴方に恋をして……自分を取り戻していったことを……。知りたかった……。貴方が僕の傍で僕のために笑っている姿を……。どうしても、貴方が欲しかった」


ビクッと、心臓が震えた。


十五の言葉があまりにも唐突すぎて。

心臓が破裂しそうなほど嬉しくて。


「貴方に告白をしたとき、貴方のすべてを貴方の口から聞きたくて。あの時がまるで初対面かのように振舞ってしまいました……。それは貴方に誤解を生むことになってしまったことに、今は反省していますけど」


「そんなこと……」


誤解だなんてしていないと否定しきれなかったのは、事実だったからかもしれない。

蝶子が言葉を途切らせ、口を噤んでいれば。

十五は静かに蝶子の後頭部に手を回し、自分の顔に引き寄せていく。


「こんな僕を……貴方は愛して下さいますか?」


数センチも離れていない十五の顔を見て、蝶子はまた悔しくなって目を細める。

また、この人は自分の気持ちを言わずに、人に気持ちを求めるのだろうか?

卑怯だとは言わないけれど、ずるいと思った。

これほどまでに辛い過去を話し、それでも余裕があるようなそぶりを見せる十五が許せない。

ここで否定してしまえば十五は確実に傷つく。

もともと否定するつもりはないが、このまま素直になるのも負けるような気がして悔しい。

何も言わない蝶子の気持ちを察してか、十五は蝶子の手を離し、静かに蝶子の頬を撫でながら優しい声で呟いた。


「……愛している。俺が愛しているのはお前だけだ蝶子」



それは怖いほど綺麗で



泣きたくなるほど愛おしい言葉



優しく



静かに



その揺れる眸に



吸い込まれそうになる



ずっと



ずっと聞きたかった



ずっと



ずっと知りたかった



自分が彼の何であるかを



自分が彼に何をしてあげられるかを



ずっとずっと



探していた



彼は



自分を愛することで



自分を取り戻してくれた



これ以上に彼の傍に居る理由などどこにもない



「……私は……貴方が貴方である限り……何度でも……何度でも……貴方に恋をします。私は……何の取り得もない……普通の人間です。貴方に何をしてあげられるでもない……無力な人間です」


「蝶……」


「それでもアナタが好きなんです……。ただアナタを愛しています……。それだけでは……貴方の傍に居られませんか?」


切なに語る蝶子の頬に、一筋の線が走った。


知らないうちに流れ出した蝶子の涙を、十五は愛おしむ様に唇を落とす。

目に、鼻先に、頬に、額に、静かに唇を這わせ、それからじっと蝶子の目を見る。

互いに眼鏡を掛けていない、けれど至近距離で見つめる相手の姿ほど愛おしいものはなくて。

十五のシャツをぎゅっと握りしめた蝶子の行動を合図代わりにするかのように、十五は優しく、深く、蝶子と唇を重ねた。


角度を変えるたびに、こぼれそうになる嗚咽をすくうように深く口付ける。


目を閉じても、傍に感じるぬくもりに、すべてを捧げたくなる想い。


もう大丈夫。


きっと何があっても信じていける。


互いだけがすべてだとは言わない。


けれど


今だけは……。


静かに離れた唇。


けれど、決してそれほど離れていない場所に位置する顔。

うっすらと目をひらいて十五を見れば。

潤んだ眸が、穏やかな十五の笑みが蝶子の眸に飛び込んできて。


ふわりと感じた浮遊感。


十五は無言のまま蝶子を横抱きに抱き上げて、静かにリビングをあとにする。

移動する十五の胸の中で、バクバクと跳ね上がる心臓に、これから行く場所を何度尋ねても、同じ場所が答えとして返ってきた。


スプリングのきしむ音がした。


十五が片膝をつきながら、静かに蝶子をベッドの上に下ろす。

けれど、十五はそこから離れることもなく、蝶子に重なるようにその身を共に沈めて。


再び重なり合った唇の隙間から、十五は静かに告げた。


「蝶子に出会ってから……一度もしていなかったから……。自制が効かなくなると思う……。やめるなら今だけど……どうする?」


この状況においても、自分の意思をしっかりと確認してくれる十五の優しさに、また涙が溢れた。


「……やめないで」


蚊の鳴くような小さな声で蝶子がそう訴えると、十五はクスッと笑って蝶子に言った。


「……ああ、もうやめてやらないよ……」


再び重ねられた唇に、蝶子は意識を集中させた。



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