冷たい眸
緒凛と別れを告げて、蝶子と十五は当初から予定していた住宅フェアでのデートを楽しんだ。
ただ、十五にとって緒凛と蝶子の鉢合わせは予定外のことだったらしい。
もともと個人住宅の、一般顧客向けの小さなフェアに、黒澤不動産の専務がわざわざ出向くことなどありえない。
どうやら緒凛は茅から事情を聞いていたらしかった。
デート話がもれた原因が自分であることに、蝶子はようやく気づいた。
十五の身内とはいえ、軽はずみな言動だったかと酷く心配したものの、十五からはそれほど目立ったお咎めはなく、むしろ苦笑いをしながら頭を撫でられたのには理解に苦しんだ。
まずかったことではないらしいが、よかったとも言いにくい……と、言ったところだろうか。
まあそういう予定外のことはあったものの、デートは滞りなく行われた。
むしろ蝶子にとって緒凛との会話はプラスに働いたらしい。
会場に入ってから感じていた劣等感や緊張感が、ほとんど薄れていたのだ。
完全になくなったとは言いがたいが、緒凛の言葉から勇気をもらったのは確かなことだ。
十五の本当の気持ちがまだ分からないという複雑な状況ではあるにしろ、自分が少しでも“特別”であることが、蝶子にとってはこの上ない喜びで。
女性関係の話は否めない。
しかし、少なくとも十五の身内である緒凛から聞かされた情報に嘘はない。
最初こそは疑うしかないような内容だったが、十五の優しさに触れてきた蝶子にとってはそれで十分だ。
それに、先ほど手をつないだときには気づかなかったことがあった。
再び繋がれた十五の手が不思議なほど汗ばんでいたのだ。
決して嫌味なものではなく、むしろ十五の緊張が伝わってくるような熱い手のひら。
不器用に手を何度も握り直しているのは、十五の方だ。
時々、自分の手に帯びた異常な熱気を逃がす為か、十五は手を繋いだまま指を広げては閉じ、広げては閉じを繰り返していたが、蝶子はあえてそれに気づかぬ振りをして、手を離すことはなかった。
緊張しているのかはわからないけれど、でもそれに近い思いを十五も持っている。
確信に近いそれを感じるだけで、自分だけがドキドキしているのではなかったと分かると、嬉しさがこみ上げてくるのはなぜだろう。
きっと、もう引き返せなくなっているほど好きなんだ。
自分の気持ちを確認するかのように、蝶子は十五の手をキュッと握り締め、真剣な面持ちで家の説明を聞いている十五の横顔を見つめた。
「お腹空きませんでしたか?」
五軒ほど見回ったところだっただろうか。
十五の言葉に、蝶子は自分がお腹を空かせている事に気がついた。
蝶子が二つ返事をすれば、十五はとある高級レストランへ行こうと言ってくれたが、さすがにそれは……と蝶子は顔をしかめて十五に言った。
「ファミリーレストランにしましょう。お昼は簡単でかまいませんから」
蝶子の言葉に、十五は少しならずか驚いた表情を見せた。
たぶん、高級レストランへ連れて行けば女性は喜ぶものだと思っていたらしいが、蝶子は真反対の考えだ。
そんなところへ連れて行かれては、最初に二人で行ったあのすし屋と同じことを繰り返してしまうだけだろうし、十五との隔たりをこれ以上感じたくはない。
自分が合わせることも必要なのだろうが、これ以上の上流階級の付き合いは無理だと自覚していた。
一向に首を縦に振らない蝶子に、十五は白旗をあげて仕方なしに蝶子の申し出を受け入れることにした。
駐車場に止めた車に向かいながら十五は携帯を取り出して、予約をしておいたらしいレストランへ電話を掛けてキャンセルを言い渡す。
電話の向こうは慌てた様子だったが、十五はそれだけを告げると相手の意見も聞かずに携帯を切った。
申し訳ないことをしてしまったと、蝶子は内心で高級レストランの人へ謝罪をしながらも、安堵して車に乗り込む。
十五はどうしようかと悩んだまま運転席にすわり、エンジンを掛けてからふとダッシュボードの方を見て何かを操作し始めた。
途端、何もなかったダッシュボードの一部が動き出し、中から小さな液晶画面のテレビが出てきた。
それがナビゲーションだと理解するのに時間はかからなかったが、蝶子はあえて何も言わずにその様子を眺めていた。
「ファミリーレストラン……とは、どんなものがあるんですか?」
ナビを操作しながら十五は振り返りもせずに蝶子に尋ねる。
まさかファミレスも知らないのかと蝶子は素直に驚いたが、この人のこういうところは今に始まったところじゃなかったとすぐに自分なりに解釈をして、十五の操作するナビを覗き込んだ。
「色々ありますよ。中華系だったり、洋食系だったり。十五さんは中華がお好きなんですよね?」
「ええ……よく知っていますね?」
蝶子の言葉に、十五はようやく蝶子に振り返る。
そういえばこれは茅に聞き出したことだったなぁと思いつつ、何も言わないでいると、十五はすぐに察したようで、ナビに視線を戻すと操作を再開した。
「茅ですか?」
「ええ、すいません」
「なぜ謝るんです?」
「……十五さんの知らないところで、勝手に聞いてしまったことです」
別に内緒にするつもりもなかったが、結果的にそうなってしまったことに対し、蝶子が謝罪をすれば、十五は口元に笑みを浮かべて蝶子に言った。
「構いませんよ。むしろ嬉しいくらいです。僕を知ろうとしてくれた蝶子さんの行動に感激していますよ」
「感激だなんて……」
そんな大げさな……と、思わず顔を赤らめていると、十五はクスクスと笑ってナビから手を離し、ハンドルを握った。
「中華でいいですか?」
「お夕飯、中華にしようと思っていたんですが、別のを考えなければいけませんね」
「……作ってくださるおつもりだったのですか?」
「ええ。もちろんです」
蝶子が何の迷いもなくそう答えれば、十五は一瞬動きを止め、それからまたすぐにナビに手を伸ばして操作をする。
一体、どうしたのだろうかと蝶子が首を傾げていれば、十五は嬉しそうに笑いながら蝶子に告げた。
「それでは昼食は洋食にしましょう。中華は楽しみに取っておきます」
ようやく十五の意図がつかめた蝶子は、嬉しくなって大きく頷いた。
―*―
十五が選んだのは全国チェーンのファミレスだった。
洋食が多く、価格もリーズナブルでおまけに安い。
蝶子も何度か栞と要、三人で来たことがあるファミレスの系列だったため、気軽に入ることが出来た。
店員に導かれるままにひとつのテーブルに落ち着き、二人は向かい合って座る。
四人がけのテーブルは二人には大き過ぎる感覚を覚えさせたが、注文した料理が並び始めればそんなこともなかった。
優柔不断でいつもメニューを決めるのに戸惑っている蝶子だったが、十五がそれを見かねて食べたいものをすべて注文すればいいと言ってくれた。
けれど残すのも勿体無いし、そんなわけにはいかないとつっぱねたのだが、十五が勝手に色々と注文したのだ。
運ばれてきた料理を小皿に少しずつとりわけ、食べ始めたまではよかったが、十五は口に食べ物を運ぶたびに変な顔をしている。
口に合わなかったのだろうかと蝶子がおずおずとその旨を確かめるために尋ねてみれば、十五は首を小さく横に振って答えた。
「あまりにも安いので味が悪いのかと思っていましたが、思っていたよりそうでもなかったので驚いているんです」
かなり真面目な顔で答えられてしまい、蝶子は思わず面食らい、すぐにクスクスと笑いをこぼす。
本当に、一般的なことを何一つ知らない人だからできる反応だと、そう思わずにはいられないのだ。
蝶子に笑われたことに不愉快を感じた十五は少しムッツリと顔をしかめてしまい、蝶子は笑うことをやめて十五に言った。
「十五さん」
「……なんですか?」
「私の食べますか?」
自分の手元にあった鉄板焼きのハンバーグを指しながらそう言えば、十五はすぐに機嫌を取り戻してニッコリと微笑む。
「蝶子さんが食べさせてくださるのなら」
「え?」
それは……つまり……あの、カップルがやる「あーん」という行為をやれと言うのだろうか?
期待のまなざしで見つめてくる十五に、蝶子は顔を赤らめ、どうしようかとひたすら悩んだ。
それだけで十五の機嫌が直れば願ってもないことなのだが……やはり人目があると気が引けてしまう。
いや、人目がなくともたぶん無理だと感じながらも、意地の悪い笑みを見せる十五に、どうすることも出来ずに、蝶子は自分のハンバーグを小さく切り分け、一口サイズになったハンバーグをフォークに突き刺した。
「……あの、恥ずかしいのでやっぱり……」
「蝶子さん」
言い終わる前に、十五が嗜めるように蝶子の名を呼ぶ。
これはどうにも避けられない状況らしく、蝶子は腹を決めてフォークを十五の方に差し出せば、十五はフォークを持つ蝶子の手首を掴み、自分のもとへ引き寄せた。
パクッ、とそれはすんなり十五の口に消えた。
蝶子は手を引っ込めようとするも、十五につかまれたままの手首は動かない。
早くこの状況を抜け出したいと願う蝶子の気持ちを知ってか知らずか、十五はモグモグと美味しそうに口を動かし、それからようやく蝶子の手を離した。
「蝶子さん、もうひとつ」
「ちょ、調子に乗らないでください!」
真っ赤になって蝶子が小さな声で叫べば、十五は可笑しそうにケラケラと笑う。
さっきまでの状況とまったく反対になってしまったと蝶子がうなっていると、今気づいたことに、はた、と思考をめぐらせた。
以前までは回りに人が居る状態で笑う人ではなかった。
蝶子が居る前でしか表情を変えなかったのに、今は何の抵抗もなく笑っている。
たとえ見知らぬ他人でも、自分以外の人が居ればずっと無表情だったはずの十五が、笑っているのだ。
何か、十五の中で変化があったのだろうかと思う反面、この笑顔が独り占めできなくなった悔しさに、蝶子は複雑な気分になった。
「デザートはいかがですか?」
十五の言葉に、蝶子はハッとして顔を上げる。
テーブルに並べられていた料理は、ほとんどがその姿を消し、後は蝶子の持分であるハンバーグが少しだけ残っている程度だ。
あれだけたくさんの量があったのに、十五が食べてしまったのかと少し驚きながらも、蝶子はウンウンと頷いてナイフとフォークを走らせた。
そんな蝶子の様子を見て、心なしかほっとした表情を浮かべた十五は、テーブルの脇に立てかけてあったメニューを取り出して開いた。
何ページもあるメニューをぱらぱらとめくり、目当てのページが見つかった途端、それを蝶子に見やすいように向けてくれる。
「どれが食べたいですか?」
「え、えっと……」
ハンバーグを一口サイズにする作業を止め、蝶子がメニューに視線を走らせる。
結構お腹もいっぱいだし、大きなものは食べられないと思いながらも、目に写るのはパフェやケーキばかりで、蝶子は戸惑いがちにメニューから顔を上げた。
「十五さんは?何か食べますか?」
「僕は甘いものが苦手なので」
困ったように肩をすくめながらそう言った十五に、蝶子はそうなのかと納得して再びメニューに視線を落とす。
それからどうしてもメニューに並ぶチョコレートパフェから視線を外せず、蝶子は申し訳なさそうに言った。
「チョコレートパフェ……食べたいです」
「了解です」
そう言って十五はメニューを閉ざすと、近くに居た店員に声をかけ、蝶子の言ったチョコレートパフェと、自分用の食後のコーヒーを注文した。
―*―
食事のスピードがそれほど速くない蝶子が、ようやくハンバーグを食べ終えるとほぼ同時に、チョコレートパフェが運ばれてきた。
テーブルの上に乗せられたパフェに、蝶子は喜びの表情を浮かべ、空いた皿を下げてくれている店員に丁寧に礼を述べる。
それからテーブルの上がさっぱりしたところで、蝶子がようやく、とスプーンを手にしたとき、知らない女性の声が店内に響き渡った。
「あれぇ!?十五?!珍しいじゃんこんなところに居るなんて!」
突然の名指しの言葉に、蝶子が驚いて顔を上げる。
十五も同じだったようで、顔を上げて自分の名を呼んだ人を目にした途端、いつもの無表情が始まった。
派手な服を着た女性四人と、男性三人がこちらを見ていて、蝶子は思わず十五を見る。
「……香苗」
ポロッと漏らした十五の言葉に、蝶子は思わず手に持っていたスプーンを落とした。
十五が今までに呼び捨てしていたのは身内である茅だけだった。
それが今、自分の見知らぬ女性を呼び捨てに呼んでいる。
今まで自分のことを呼び捨てにしたことなどなかったのに……。
きっと昔、十五と関係を持った人だ。
そう考えながら、呆然としたまま女性を見れば、女性達は店員の案内を断り、十五達の座る隣の空いている席を選んだ。
「何やってんの十五?久々じゃん」
「わー黒澤君だ!久々!相変わらずクールビューティー!」
「ぎゃははっ!懐かしいその呼び方!」
「黒澤!お前教師やってんだって!?家はどうした家は!」
「大学卒業振りだよね?留学したって聞いてたのにいつ帰ってきたの?」
場をわきまえず、大きな声で話し出す一行に、周囲の視線も痛く突き刺さる。
それを知ってか知らずか、相変わらず一方的に十五に話しかけてくる一行は、まるで蝶子など存在しないかのように十五に話を繰り出していた。
「聞いて驚け黒澤!香苗、お前のこと忘れられなくて、貿易会社の社長からのプロポーズ断ったんだぜ?」
「もったいねぇよなぁ」
「ちょ、やだそんな昔の話!」
「昔じゃなくて、い・ま・も、でしょ?」
「ちょっとやだぁー」
そう言いながらもまんざらでもなさそうな笑みを浮かべる女性は、ようやく蝶子に視線を向けると、蝶子との視線が絡み合い、まるで勝者かのような笑みを浮かべて十五に尋ねた。
「あら、この子は?随分若いようだけど、十五って妹いたかしら?」
絶対わざとそう言っている女性に対し、周囲の友人達はようやく蝶子の存在に視線を向けて、思ったことを素直に口にし始める。
「え?何?新しい子?」
「えー若いんだけどー。おいくつー?」
「まさか援交!?淫乱教師だ黒澤!」
「黒澤君にどうやって言い寄ったの?この人落とすの大変だったでしょぉ?」
悪意のない、たぶん真意を告げる言葉に、蝶子は居たたまれずに口のつけていないパフェに視線を落とす。
すでに溶け出したアイスクリームを見つめるも、すでに食欲は失われてしまっている。
恥ずかしさのあまりから無意識に体が震えだし、それを十五に悟られまいと蝶子は立ち上がって十五に告げた。
「す、すいません。お手洗い行ってきますね」
「あ……ちょう……」
十五が口を開く前に、蝶子がパタパタと急ぎ足でお手洗いに向かう。
一刻も早くこの場所から逃げ出したいという自分の気持ちに素直に従い、あふれ出そうになる涙を必死に抑える。
お手洗いに駆け込み、背中でドアを閉めて唇をかみ締める。
辛い……。
まるで付き合っていると見てもらえない、そんな二人の関係を真っ向から指摘された。
自分の存在のせいで、十五が笑いものになっている気がする。
そんなことが耐えられなかった。
蝶子は洗面所に歩み寄り、そこに両手をついて深くため息を漏らす。
それから鏡に映る自分の顔を見て、こみ上げてくる思いを誤魔化すように笑った。
「酷い顔……」
今泣いてしまえば絶対に止まらなくなる。
それだけはどうしても避けるべきことだ。
鏡に映る自分を何度も励ましけれど、早くあの場所に戻らなければいけないという焦りと、戻りたくないという衝動が複雑に絡み合う。
……汚い。
こんなに嫉妬まみれの顔をしている自分を十五に見せることは出来ない。
それだけで愛想を尽かされてしまうのだけは嫌だ。
もう取り返しもつかなくなるほど好きなのに……。
蝶子は諦めることなく自分にエールを送り続けていれば、お手洗いのドアが開き、十五に呼び捨てされていた女性が顔を覗かせた。
「あら、ごめんなさい。まだ居たの?」
それはまるで居てはいけないかのような言い回し。
蝶子は顔を蒼白させながら女性を見つめれば、女性は何の侘びも居れずに蝶子の居る洗面へと歩み寄る。
思わず後ずさりをして洗面台の前をあければ、女性はそれが当たり前かのように、カバンからポーチを取り出してその中に入っていた口紅を取り出すと、自分の潤みを帯びた唇に這わした。
「あなたさぁ、十五の何?」
女性は鏡越しに蝶子を睨みながら尋ねてきた。
蝶子は一瞬戸惑い、それから口を開こうとするも、女性は口紅をしまいながら冷たい言葉を放つ。
「まぁ私にはどうでもいいことだけど。十五がどんな女と寝ていようが私は許せるもの」
現状で付き合っている蝶子よりも、自分の方が遥かに優位だと言いたげに。
女性は口紅をしまったポーチからファンデーションを取り出すと、肌にそれを塗りながら目を細めて蝶子に言った。
「十五、抱いてくれるときは優しいでしょう?でも勘違いしちゃ駄目よ?あの人の心はいつも別のところにあるんだから」
別のところ……?
蝶子は一瞬どういうことか理解しかねたが、すぐに意味を悟って震える声で女性に尋ねた。
「あ……あの……十五さんの好きな人って……」
自分じゃないとは自覚していたけれど、口に出すと辛いものだ。
それ以上何も言えず口を閉ざせば、女性はファンデーションをカチッと閉ざし、それからようやく蝶子に振り返って醜い笑みを浮かべた。
「あなたじゃないことだけは確かねぇ」
そう言ってクスクスと笑う女性に、蝶子はもう何の動作もすることが出来なかった。
女性は誇らしげな笑みを浮かべながら、化粧道具をすべてしまうと、蝶子の肩を抱いて洗面所を後にする。
おぼつかない足取りで、自分がいまどういう状況に置かされているのかも分からなくなってきていた蝶子は、女性にされるがままに十五の待つテーブルに戻った。
「おせぇぞ香苗」
「ごめんごめん。この子と話がはずんじゃって。もうすっかり仲良し。ねぇ?」
そう言ってありもしないことを蝶子に押し付けるかのように賛同を求める。
肩を抱いたままの手に力がこめられたが、痛いとは感じない。
一層、彼女の言ったとおりにしたほうが、十五にも心配はかけないかもしれない。
蝶子はボーっとした思考で笑顔を作りながら頷いて見せた。
ガタッ、と椅子が床と擦れる音がした。
蝶子も、そこに居た友人達も驚いて顔を向ければ、十五が唖然とした表情で蝶子を見つめている。
何かあったのだろうかと蝶子が戸惑っていれば、先に動いたのは女性の方だった。
「どうしたの十五?」
蝶子から離れ、女性が十五の腕に触れる。
途端、バッ!と勢いよく女性の手が振り払われ、女性は小さく「きゃっ」と悲鳴を上げた。
「……ったのですか……?」
「え?」
「彼女に何を言ったのですか?」
今までに聞いたことがないほどの低い声。
無表情だった十五の顔には怒りという言葉しか当てはまらないほど怖い表情を浮かべている。
女性は一瞬戸惑ったように視線を泳がせるも、戸惑いがちに笑みを浮かべて十五に言った。
「べ、別に何も?ただ仲良くしましょうって、それだけよ?ねぇ?」
再び蝶子に賛同を求めるように女性の痛いほど鋭い視線が向けられた。
その視線に蝶子が戸惑いながら十五を見れば、十五は自分が座っていた椅子を手に掴み……。
次の瞬間、窓ガラスが大きな音を立てて破片と化し、四方八方に飛び散った。
「きゃーっ!!」
友人達だけではない。
店内に居たすべての人が叫びながら、近くに居たものは逃げ出し、厨房に居た店員達は何事かと顔を覗かせる。
十五が女性達の居る席に向かって投げつけたのだ。
運よく椅子は席の後ろにある窓ガラスを突き破って友人達には当たらなかった。
いや、運がいいのかといえばそうでもない。
飛び散った窓ガラスの破片が、彼女達の肌を傷つけたのは否めない。
突然の十五の暴走に、友人達はただただ唖然として、仁王立ちしながら冷たい眸をしている十五を怯えた目で見つめた。
「お、お客さまっ!?」
騒ぎを聞きつけ、ようやく店の責任者らしい人が他の従業員を引き連れて十五たちのもとへやってきた。
十五は無言のまま蝶子を抱き寄せ、責任者を睨みつけるように見つめると、ポケットに入っていた財布の中からカードを取り出して、淡々と述べた。
「食事代とガラスの弁償代。他の方達にもご迷惑をおかけしましたので今ここに居る皆さんの食事代もすべてここから出してください」
「あ、あの、ですが……」
「早くしてください。一刻も早くここから立ち去りたいんです。反吐が出る」
店員の言葉も聞こうとせず、自分の意思だけを一方的に伝える十五に、責任者は眉を潜めたが、差し出されたカードを見てかなり仰天した表情を浮かべ、すぐにそれを受け取ってレジへむかう。
他の店員に後片付けを任せて行ってしまった責任者の態度に、周囲も店員達も驚いているも、ひそひそと聞こえてきた従業員の言葉に納得した。
「ねぇ……なんで店長怒らないの?」
「ばっ、お前見てなかったのかよ……あの人の差し出したカード、ブラックカードだったぞ」
「うそっ!マジでっ!?」
「ブラックカードってアレだよな?ジェット機買えちゃうカードだよな?」
「うわー……本当に存在すんのかよ……。俺もう一回見てこよう……」
「あ、俺も!」
現状よりもカードの存在に興味をそそられたのか、片付けをしていない店員達がレジへと足を運ぶ。
十五は友人達にギロリと視線を向けると、何も言わないまま呆然としている蝶子を抱き上げ、レジのある入り口へと向かった。
「お騒がせして申し訳ありませんでした」
「いえ……」
そう言って作業を終えたらしく、店長がおずおずとカードとレシートの乗ったトレーを差し出す。
「またいらしてください」とは言いがたい相手だったらしく、店長がそれ以上何も言わないのを悟ると、十五はカードだけを受け取り、それをポケットにねじ込みながら小さく会釈して店を出た。
十五が去り、ようやく店内はざわめきだしたのだが、それは蝶子にも十五にも知らないことだった。




