第4話
「……その匙は」
喉まで出かかった問いを、ギルバートは飲み込んだ。
先代王妃の紋章。それがなぜこの辺境の孤児の手にあるのか。問いただせば、彼女の過去を無理やりこじ開けることになる。今はまだ、その時ではない。
「わかった。だが、今日はもう遅い。奥の空き部屋で休みなさい。話は明日だ」
ギルバートの言葉に、リリィはほっとしたように肩の力を抜き、そのまま床にへたり込んだ。満腹感と安心感が、彼女の限界を超えていたらしい。
翌朝。
ギルバートが厨房で仕込みを始めていると、裏口の扉が勢いよく開いた。
「おはよう、ギルバート!」
元気な声とともに現れたリリィは、なぜか泥だらけだった。彼女の両手には、土のついた植物の束が握られている。
「なんだ、その泥は。どこへ行っていた」
「森だよ! 昨日のスープのお代わり。タダ飯は食えないから、私なりに探してきたの」
得意げに差し出された植物を見て、ギルバートは目を丸くした。
それはただの雑草ではない。この冷涼な気候でしか育たない、独特の清涼感と強い香りを持つ希少な香草だった。素人が簡単に見つけられるものではない。
「これを、お前が?」
「うん。匂いを辿ったら見つかったの。昨日のスープに入ってた葉っぱと、同じ匂いがしたから」
一度食べた料理の味と香りを、そこまで正確に記憶しているのか。
ギルバートは香草を受け取り、土を払った。葉の裏側まで傷一つない、完璧な状態で摘み取られている。食材を丁寧に扱う心がある証拠だった。
「……悪くない」
ギルバートは短く呟き、リリィを見下ろした。
「今日からお前は、この店の見習い兼看板娘だ。ただし、厨房は常に清潔に保つこと。食材は絶対に粗末にしないこと。それが条件だ」
「本当!? やったあ!」
リリィはその場で飛び跳ね、泥だらけのままギルバートに抱きつこうとした。
「こら、まずは体を洗ってきなさい。厨房に泥を持ち込むな」
「はーい!」
元気な返事が、静かだった店内に響き渡る。
ギルバートは香草を水桶に浸しながら、ふっと口元を緩めた。王宮の厨房では決して聞くことのなかった、明るく無邪気な声。二人の奇妙な共同生活が、こうして始まった。
リリィの働きぶりは、不器用だが一生懸命だった。
箒を持たせれば埃を舞い上げ、皿を洗わせれば泡だらけになる。それでも彼女は決して手を抜かず、ギルバートの指示を一つ一つ真剣にこなしていった。
昼時。
「よし、休憩にしよう」
ギルバートが声をかけると、リリィは目を輝かせて厨房のカウンターに駆け寄ってきた。
「待ってました!」
ギルバートが用意したのは、まかないの料理だった。
余った鶏肉の端材と、辺境の根菜をじっくりと煮込んだシチュー。そこに、今朝リリィが採ってきた香草を細かく刻んで散らしてある。派手な装飾は一切ない、素朴で温かな一皿だ。
「いただきます!」
リリィは木のスプーンを握りしめ、シチューを口に運んだ。
途端に、彼女の動きがピタリと止まる。
「……どうした。熱かったか?」
「あわわ……」
リリィは目を丸くし、口元を押さえた。
「美味しい……。お肉がほろほろで、お野菜が甘くて……それに、この葉っぱの匂いがすっごく良くて……」
彼女は語彙力を失ったように呟き、あとは無言でシチューをかき込み始めた。あっという間に皿を空にし、最後はパンの切れ端でソースを一滴残さず拭き取って食べる。
「ごちそうさまでした! ギルバートの料理、世界一だよ!」
満面の笑みを浮かべるリリィを見て、ギルバートの胸の奥に温かいものが灯った。
王宮で切り捨てられた自分の料理。だが、目の前の少女はそれを心から喜んでくれている。料理人にとって、これ以上の報酬があるだろうか。
数日後。
リリィは市場へお使いに行くようになった。
彼女の持ち前の明るさと愛嬌は、あっという間に町の人々の懐に入り込んでいった。
「おじさん、そのお野菜ちょうだい! うちのギルバートが美味しくお料理するから!」
「おや、リリィちゃん。また来たね。ギルバートってのは、あの廃屋に越してきた爺さんのことかい?」
「爺さんじゃないよ、料理の天才だよ! 信じられないくらい美味しいんだから!」
リリィが町中で触れ回ったおかげで、看板のない店に美味い匂いがするという噂が、少しずつ広まり始めた。
半信半疑の町民や、宿場町を通りがかった冒険者たちが、店の前をうろつくようになる。
「本当にこんなところで飯が食えるのか?」
「でも、いい匂いがするぜ……」
窓越しに中を覗き込む男たち。
ギルバートは厨房からその様子を確認し、静かに火加減を調整した。
「リリィ、表の客を案内しなさい」
「はいっ!」
リリィが勢いよく扉を開け、客たちを招き入れる。
最初に店に入ってきたのは、大柄な冒険者の三人組だった。彼らは薄暗い店内と、無愛想な老人の姿を見て、少し不安そうな顔をした。
「ええと、何か食えるのか?」
「メニューはない。その日の仕入れで作る」
ギルバートは短く答え、手早く調理を始めた。
彼が提供したのは、厚切りの豚肉を香草とともに焼き上げ、特製の果実ソースを絡めた一皿だった。ジュージューと音を立てる肉の香ばしい匂いが、店内に充満する。
「お待たせしました!」
リリィが皿を運ぶと、冒険者たちは生唾を飲み込んだ。
「こりゃあ……美味そうだ」
一人が肉を切り分け、口に運ぶ。
その瞬間、彼の顔色が変わった。
「なんだこれ……! 肉が柔らかいのに、噛むと肉汁が溢れてくる。それにこのソース、甘酸っぱくて全然脂っこくないぞ!」
「本当だ! こんな美味い肉、王都の高級店でも食ったことねえ!」
男たちは夢中で肉を平らげ、皿に残ったソースまで舐めるように綺麗にした。
「親父さん、あんた王宮の料理長でもやってたのか!?」
「ただの料理人だ」
ギルバートは布で手を拭きながら、静かに答えた。
客たちの驚きと笑顔。それは、彼が長年求めていたものだった。権威や名声のために作るのではない。目の前の空腹を満たし、心を温めるための料理。
(私の料理は、まだ死んでいない)
王宮で浴びせられた冷たい言葉の呪縛が、音を立てて崩れ去っていくのを感じた。
この辺境の町で、最高の食堂を営む。ギルバートは新たな人生の第一歩を、力強く踏み出したのだった。
その日の夕暮れ。
客足が途絶え、リリィが店の前を掃き掃除していると、一人の人物が立ち止まった。
いかにも気難しそうな、身なりの良い老ドワーフだった。
彼は立派な髭を蓄え、鋭い眼光で店の扉を睨みつけている。
「……ここか」
地を這うような低い声。
リリィは箒を握りしめ、思わず一歩後ずさった。
老ドワーフはリリィには目もくれず、ただじっと、看板のない店の奥を見据えていた。
その手には、一枚の古びた羊皮紙が握られている。
彼が何者で、何を求めてこの辺境の店にやってきたのか。
夕闇が迫る中、冷たい風が二人の間を吹き抜けていった。




