第3話
ギルバートがゆっくりと手を伸ばし、重い木の扉を押し開けると、冷たい夜風とともに乾いた土埃の匂いが店内に舞い込んだ。
足元に転がっていたのは、ボロボロの布切れを纏った小さな塊だった。
よく見れば、それは泥だらけの少女だ。年齢は十代の半ばほどだろうか。靴すら履いていない足は傷だらけで、ひどく痩せ細っている。浅い呼吸を繰り返し、意識はないようだ。
ギルバートは周囲を見渡した。路地裏の少し離れた暗がりに、近隣の住民たちが何事かと集まり、こちらを窺っている。
「また行き倒れか」
「それにしても、さっきからたまらなくいい匂いがするんだが……」
彼らのひそひそとした声が聞こえてくる。視線は倒れた少女ではなく、開け放たれた扉の奥へ向けられていた。厨房から漏れ出した芳醇な香りに誘われて、様子を見に来たのだろう。
だが、誰一人として倒れた少女に手を差し伸べようとはしない。
「……見世物ではありませんよ」
ギルバートが鋭く一瞥すると、野次馬たちはそそくさと闇へ消えていった。
ギルバートは少女を抱き上げた。
驚くほど軽かった。骨と皮ばかりの体は、まるで枯れ枝のようだ。どれほどの期間、まともな食事にありついていないのか。
彼は足早に店内へと戻り、扉をしっかりと閉めた。
少女を清潔な長椅子に寝かせ、暖炉に新しい薪をくべる。パチパチと爆ぜる音が、静かな店内に響き始めた。
濡れた布で彼女の顔の泥を軽く拭ってやると、あどけない寝顔が現れた。しかし、その体温はひどく低い。
厨房に戻ったギルバートは、試作していたスープの火を止めた。
辺境のハーブと根菜、そして鶏の骨から取った出汁が、鍋の中で黄金色の輝きを放っている。
前日に市場で買い付けた、雑草のように見えるあのハーブ。それが鶏肉特有の臭みを完全に消し去り、奥深い風味を引き立てていた。
長年酷使されてきたであろう彼女の胃腸に、急激な負担をかけるわけにはいかない。極限まで柔らかく煮込まれた根菜は、舌の上でとろけるほどだ。これなら、冷え切った体を芯から温めることができるはずだ。
(私の料理は、まだ誰かを救えるだろうか)
ふと、そんな思いが脳裏をよぎる。
宮廷を追放された際に投げつけられた言葉が、未だに彼の胸の奥で棘のように刺さっていた。
背後で、ガタッと鈍い音がした。
振り返ると、少女が長椅子から転げ落ちるようにして壁際に身を縮こまらせていた。
獣のような目で、こちらを鋭く睨みつけている。
「……何する気。私、お金なんて持ってないよ」
かすれた声だった。大人に対する強い警戒心が、その小さな体に張り詰めている。
これまで、どれほど理不尽な目に遭ってきたのか。その瞳の奥には、裏切られることへの恐怖と、生き抜くための執念が入り混じっていた。
「何も取って食おうというわけではありません。ただ、行き倒れを放っておくほど、私の心は冷え切っていないだけです」
ギルバートは木製のボウルにスープを注ぎ、湯気を立てるそれをテーブルに置いた。
「毒なんて入っていない。冷めないうちに食べなさい」
少女の鼻腔を、肉の旨味とハーブの爽やかな香りがくすぐる。
彼女の喉がゴクリと鳴った。
警戒心と飢餓感がせめぎ合う中、少女はゆっくりとテーブルに近づく。
そして、懐から汚れた布切れを取り出し、その中から何かを取り出した。
それは、不釣り合いなほど精巧な装飾が施された、古びた銀の匙だった。
彼女はその匙でスープをすくい、恐る恐る口に運ぶ。
瞬間、少女の動きがピタリと止まった。
目を見開き、手元のボウルを食い入るように見つめる。
次の瞬間、彼女は無心でスープを口に運び始めた。
根菜の優しい甘み、ハーブが引き出す肉の深いコク。極限まで柔らかく煮込まれた具材が、冷え切った体を芯から温めていく。
これまで彼女が口にしてきたのは、泥水や腐りかけの残飯ばかりだったのだろう。
誰かが自分のために作ってくれた、温かくて美味しい料理。
その事実が、彼女の張り詰めていた心を一気に溶かしていく。
「……あ……」
ポロポロと、泥だらけの頬を大粒の涙が伝い落ちた。
「おいしい……」
語彙を失い、ただ泣きながらスープを飲み干す少女。
その姿を見て、ギルバートの胸の奥で、固く結ばれていた何かがふっと解けた。
(私の料理は、まだ誰かを温めることができる)
宮廷で浴びせられた冷たい言葉の数々が、少しだけ遠のいていくのを感じた。
ボウルを一滴残さず舐めるように綺麗にした少女は、ふうっと深い息を吐いた。
そして、ギルバートを真っ直ぐに見つめる。
「おじさん」
「ギルバートだ」
「ギルバート。私、リリィっていうの」
リリィはテーブルに手をつき、身を乗り出した。
「私をここで働かせて!」
突然の申し出に、ギルバートは目を丸くする。
「恩は絶対に返す。掃除でも皿洗いでも何でもする。出された食べ物は一粒残さず綺麗に食べるから、お願い!」
すがりついてくるリリィ。
その手元で、ランプの光を反射して鈍く光る銀の匙。
ギルバートの視線が、匙の柄に刻まれた紋章に釘付けになった。
それは、かつて彼が王宮で仕えていた先代王妃の紋章だった。
なぜ、辺境の孤児がこれを持っているのか。
ただの偶然か、それとも何か深い事情があるのか。
王宮のしがらみから逃れてきたはずのこの場所で、過去の亡霊が扉を叩いたような気がした。
ギルバートは沈黙したまま、リリィの必死な瞳を見つめ返した。




