第22話
クロードは震える視線を上げ、調理台に置かれた包丁を見つめる。
自らの命で責任を取るべきか。それとも、この辺境で泥にまみれて生き直すのか。外からは、まだ祭りの陽気な音楽が微かに聞こえる。平和な夜の闇の中で、元・料理長の危うい決意が揺らぐ。
クロードの青ざめた指先が、刃の冷たい輝きに吸い寄せられるように伸びる。
だが、柄に触れる直前でその手はピタリと止まった。
背後で、ギルバートが静かに布巾を畳む音がした。ただそれだけの日常的な音が、張り詰めた空気を柔らかく解きほぐす。
クロードはゆっくりと手を引き、深く頭を下げた。
「……私に、できることがあれば」
掠れた声が、絞り出すように漏れる。
ギルバートは短く頷き、足元に置かれた籠を顎でしゃくった。
「明日の仕込みだ。泥付きの芋の皮を剥いてくれ。厚く剥きすぎるなよ」
クロードは無言で籠を引き寄せ、小さなナイフを握る。かつて王宮で振るった華やかな包丁捌きは影を潜め、ただ黙々と泥を落とす作業に没頭し始めた。
冷たい水で泥を洗い流し、不格好な芋の表面を削っていく。指先は泥で汚れ、爪の間には土が入り込む。王宮の清潔な厨房では決して味わうことのなかった泥臭い感触が、今の彼には不思議と心地よかった。
その背中はひどく小さく見えたが、絶望の淵からは一歩だけ遠ざかった。
数日後の昼下がり。まかない食堂はかつてないほどの熱気に包まれる。
「はい、こちら空いたお皿下げますね!」
リリィが元気な声を響かせ、客席の間を縫うように駆け回る。しかし、今日の彼女には心強い、いや、心強すぎる助っ人がいた。
「……注文の品だ。食え」
地を這うような低い声。筋骨隆々の長身に赤い髪を揺らす青年が、両手に料理の乗った盆を掲げて立つ。
炎の竜が人化した姿である彼は、毎日の食事代わりにと自ら給仕を買って出たのだ。
客たちはその圧倒的な威圧感に肩をすくめ、息を呑む。青年が木皿をテーブルに置く際、力加減を誤ってミシッと嫌な音を立てた。
「ああっ、お兄さん! またお皿割る気ですか!」
リリィがすかさず飛んできて、青年の太い腕をペチッと叩く。
「す、すまん。人間の道具は脆すぎる」
巨漢の青年が申し訳なさそうに身を縮める姿に、緊張した客席からぷっと吹き出す音が漏れた。
「なんだよ兄ちゃん、図体の割に不器用だな」
「顔は怖いけど、案外いい奴みたいだぜ」
客たちの笑い声が広がる。青年は居心地悪そうに鼻を鳴らしたが、逃げ出さずに次の盆を運びに向かった。
「ほら、お兄さん、あっちのお客さんも呼んでるよ!」
「わかっている。急かすな」
威圧感と不器用さのギャップは、瞬く間に食堂の新たな名物として定着していく。常連客たちは、強面の新人がしどろもどろになりながら接客する姿を見るのを楽しみにし始めた。
青年が運んできた熱々のスープを受け取りながら、初老の客がニヤリと笑う。
「兄ちゃん、明日も手伝いに来るのかい?」
「……俺はここで飯を食う限り、働く義務がある」
真面目すぎる返答に、再び店内は温かな笑いに包まれた。
厨房では、ギルバートが持ち込まれた麻袋の口を開いた。
中には、泥のついた野菜がぎっしりと詰まる。どれも形がいびつで、二股に分かれた人参や、表面がひび割れた芋、育ちすぎて筋張った葉物ばかりだ。
「ギルバートさん、本当にこんな野菜を買い取ってくれるのかい?」
地元の農家の男が、申し訳なさそうに頭を掻く。
「市場じゃ値がつかなくて、捨てるしかなかったんだが」
「味は変わらない。むしろ、厳しい環境で育った分、甘みが強いはずだ」
ギルバートは曲がった人参を手に取り、土の匂いを確かめる。
「適正な価格で買い取らせてもらう。これからも、余った野菜があればここに持ってきてくれ」
農家の男は目を丸くし、やがて深く頭を下げた。
「ありがとう。あんたのおかげで、畑を続けられそうだよ」
男が店を出て行くと、ギルバートはすぐさま野菜の泥を洗い落とし、包丁を握る。形が不揃いなら、刻んで煮込めばいい。細かく賽の目に切った根菜を、じっくりと火にかけたスープに投入する。
トントントン、と軽快な音が厨房に響く。
食材の命を余すところなく使い切る。それが彼の譲れない信条だった。
筋張った葉物は細かく刻んで油で炒め、特製のタレと絡めて常備菜にする。ひび割れた芋は蒸して潰し、丸めて揚げ焼きにする。
捨てられるはずだった野菜たちが、ギルバートの手によって次々と新たな命を吹き込まれていく。鍋からは、野菜の甘みを凝縮した湯気が立ち上り、厨房を満たしていった。
夕暮れ時、店に一人の客がふらりと現れた。
以前、ギルバートの料理を食べてスランプを脱した常連の魔法使いだ。彼は大きな布に包まれた荷物を抱える。
「マスター、この前のお礼を持ってきたよ」
布が取り払われると、黒光りする金属製の箱が姿を現した。
「特製の魔導オーブンさ。側面の魔石に触れるだけで、火力をミリ単位で調整できる。あんたの腕なら、使いこなせると思ってね」
ギルバートは目を細め、その精巧な作りの箱を撫でた。
「ありがたく使わせてもらおう」
早速、ギルバートは仕込んだパン生地をオーブンに入れる。魔石に触れ、微弱な魔力を流し込むと、内部が均一な熱で満たされていく。薪の火では難しい絶妙な温度管理が、いとも簡単に実現できた。
オーブンの小窓から、生地がふっくらと膨らんでいく様子が見える。
魔法使いは席に肘をつき、満足げに頷いた。
「俺の魔法技術と、あんたの料理技術の結晶だ。最高のパンを期待するぜ」
やがて、香ばしい匂いが厨房から溢れ出した。
焼き上がったばかりのパンは、外はカリッと、中はふっくらと膨らむ。規格外野菜をたっぷり使った煮込み料理とともに客席へ運ばれると、歓声が上がった。
「うわぁ……すっごくいい匂い!」
リリィが目を輝かせ、自分のまかない分を待ちきれない様子で足踏みをする。
「ギルバートのパン、早く食べたい!」
ギルバートが焼き立てのパンを割ると、中から熱い湯気が立ち上り、小麦の甘い香りが弾けた。
クロードも厨房の隅で、その光景を静かに見つめる。彼の表情には、かつての傲慢さはなく、ただ目の前の料理と向き合う真摯さだけが残る。
新しいオーブンで焼かれたパンの香りと、食堂を満たす人々の笑顔。
ギルバートは布巾で手を拭い、穏やかな空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
権威や名声には無頓着な彼にとって、目の前の客が旨そうに食べる姿を見ることこそが、何よりの喜びだった。
辺境の小さな食堂は、確かな絆とともに前へ進む。
だが、王都から持ち込まれた火種が完全に消え去ったわけではない。
この温かく平和な日常は、果たしてどこまで続くのだろうか。




