第21話
前話の夜が明け、辺境の宿場町は年に一度の収穫祭の朝を迎える。
冷涼な風が吹き抜ける通りには、色鮮やかな旗がはためく。
厳しい冬を前にした、住人たちにとって最大の娯楽。
町中が浮き足立つような熱気に包まれる中、小さな食堂の厨房は静まり返る。
クロードは部屋の隅で、無言で根菜の皮を剥く作業を与えられる。
昨夜の涙の痕は消えたが、その横顔はひどく青白い。
泥だらけの根菜を水で洗い、不格好な手つきで皮を剥く。
かつては下働きにすべて任せる作業だった。
冷たい水が指先を凍えさせるが、その痛みが今の彼には心地よい罰のように感じられる。
ギルバートの指示に従い、ただ機械的に手を動かす。
王宮での権力闘争も、見栄えだけを重視した料理も、今はすべてが虚しく感じられる。
表からは賑やかな祭囃子が聞こえる。
太鼓の音と人々の笑い声が、薄暗い厨房にまで届く。
「大将! 今日は祭りだ。店に引きこもらず、表で肉を焼いてくれよ!」
常連の自警団員が配膳台から身を乗り出す。
顔を赤く染め、すでに朝から酒をあおる様子だ。
「そうだそうだ! 大将の飯がないと祭りが始まらねえ!」
ギルバートはため息をつき、手元の布巾を畳む。
職人気質の彼にとって、予定外の出店は好ましいものではない。
しかし、目の前の客が求めるなら応えるのが料理人だ。
「仕込みの予定が狂う。だが、余る魔物肉なら串に打てる」
「やったぜ!」
リリィが元気よく飛び跳ねる。
真新しいエプロンを身につけ、得意げに胸を張る。
「私、呼び込み頑張るね! いっぱいお客さん呼んでくる!」
「ほどほどにな。お前がつまみ食いする分がなくなるぞ」
「むっ、そんなことしないもん!」
リリィは頬を膨らませるが、その目はすでに屋台の食べ物を物色する光を帯びる。
ギルバートは苦笑し、巨大な肉の塊をまな板に乗せる。
重い包丁が振り下ろされ、硬い筋を断ち切るリズミカルな音が厨房に響く。
宿場町の中央広場。
広場の中央には巨大な焚き火が組まれ、人々が手を取り合って踊る。
その喧騒の片隅で、急造の屋台から香ばしい煙が立ち上る。
ギルバートは手際よく魔物肉の串を網に並べ、特製のタレを刷毛で塗る。
脂が炭に落ち、食欲をそそる匂いが周囲に広がる。
王都の洗練された料理とは違う、野性味あふれる力強い香り。
「さあさあ、まかない食堂の特製串焼きだよ! 食べなきゃ損だよー!」
リリィの甲高い声が広場に響く。
客が次々と群がり、あっという間に長蛇の列ができる。
ギルバートは肉の焼け具合を確認しながら、ふと呟く。
「悪くはない。だが、あの幻の香辛料……『赤熱の実』があれば、魔物肉の強い脂をもっとさっぱりと食わせられるんだがな」
それは、ほんの独り言のつもりだった。
しかし、列の先頭に並ぶ自警団の男たちが、ピクリと反応する。
「聞いたか、お前ら」
「ああ。大将が『赤熱の実』を求めてる」
「西の魔の森の奥深くに生えるって噂のアレか」
男たちは顔を見合わせ、ニヤリと笑う。
彼らの目に、無謀な挑戦への熱が宿る。
「行くしかねえな!」
「大将の最高の串焼きのためだ。命をかける価値はある!」
彼らは串焼きを受け取るのも忘れ、武器を手に広場を飛び出す。
「おい、お前ら……」
ギルバートが止める間もなく、彼らの姿は砂埃の彼方へ消える。
数時間後。
祭りが最高潮に達する頃、ボロボロになった男たちが広場に帰還する。
鎧はひしゃげ、顔は煤だらけ。
だが、その手には真っ赤な実が山のように抱えられる。
「大将! 獲ってきたぜ!」
「馬鹿者どもが。命を粗末にするな」
ギルバートは呆れたように言い放つ。
しかし、受け取った実を素早くすり鉢で潰し、新たなタレを調合する。
潰した実から立ち上る香りは、鼻腔を突き抜けるような刺激と、奥深い甘みを併せ持つ。
ギルバートはそれを特製の醤油ダレに混ぜ込み、再び肉に塗る。
ジュワッという音とともに、煙の質が変わる。
焼き上がった串を一口食べた男たちは、言葉を失い、次々と涙を流して崩れ落ちる。
「うめえ……死ぬ思いをした甲斐があったぜ……」
広場はさらなる熱狂に包まれる。
ギルバートは黙って次の串を網に乗せる。
祭りの夜。
屋台の片付けを終え、食堂に戻ったギルバートたちは、遅い夕食の準備を進める。
クロードも無言で配膳を手伝う。
そこへ、王都から到着したばかりの行商人が転がり込む。
「大変だ! 王都が、王宮がとんでもない騒ぎだ!」
行商人は息を切らしながら、信じがたい情報を語り始める。
数日前、隣国からの重要な使節団を招いた歓迎晩餐会が開かれた。
そこで出されたのは、クロードが考案し、後任の料理長が引き継いだ極彩色の料理の数々。
味覚障害に陥る貴族たちに合わせて香辛料を過剰に投入した、刺激の塊のような皿だった。
「隣国の使節団は、美食で知られる国から来た連中だ。あんな舌の麻痺するような料理を出されて、自国への侮辱だと受け取ったらしい」
行商人は大げさに身振り手振りを交える。
「使節団の連中、一口食べただけで顔を真っ赤にして激怒したそうだ。こんな毒物を食わせる気か、ってな。そのまま席を蹴って帰国したらしい。王国の威信は丸潰れだ。国王陛下も、ついに事の重大さに気づいて頭を抱える騒ぎだぜ」
王宮の厨房は完全に機能不全に陥り、貴族たちは連日不満を爆発させる。
使節団の帰国により、隣国との国境沿いでは軍の動きすらあるという噂だ。
その言葉に、クロードの肩がビクンと跳ねる。
彼の手から木皿が滑り落ち、床で鈍い音を立てる。
「私が……」
掠れた声が漏れる。
「私が残したレシピのせいだ。私が、この国を……」
クロードの顔から血の気が引き、呼吸が浅くなる。
己の傲慢さが招いた結果が、ついに国家間の問題にまで発展する。
自分が作り上げた合理的な方式が、これほどの惨劇を生むとは想像もつかない。
視覚に訴えかける芸術的な盛り付けも、最新の流行も、すべては虚飾に過ぎない。
取り返しのつかない罪の重さが、彼の細い肩にのしかかる。
胃の奥が冷たくなる感覚。
ギルバートは床に落ちた木皿を拾い上げ、静かに布巾で拭う。
「過去は変えられない。だが、今ここで何をするかは選べる」
淡々とした声が、静まり返る店内に響く。
クロードは震える視線を上げ、調理台に置かれた包丁を見つめる。
自らの命で責任を取るべきか。
それとも、この辺境で泥にまみれて生き直すのか。
外からは、まだ祭りの陽気な音楽が微かに聞こえる。
平和な夜の闇の中で、元・料理長の危うい決意が揺らぐ。




