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頭の中の最強AI ──金も女も、そして世界も手に入れる──  作者: 橙色
東京大学一年生編

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27/45

27話 正直なんだね ※


この話の一部はノクターンで掲載中です。





 日菜と別れた翌朝、僕は旅行へ行く前から使っているノートを開いた。


 机の上には、円へ戻した現金と、まだユーロのまま残している紙幣。隣にはカジノの換金記録と、出入国時に提出した申告書類が重なっている。


 カジノへ持っていった十万円は、土産代や両替手数料を差し引いても、約百三十万円になった。


 旅行中に使わなかった緊急用の五万円と、帰国後のために残していた十万円は別にある。税金や制作経費のために確保していた金も、そのままだ。


 正確な税額が決まるまでは、勝った金を全部使うわけにはいかない。


 それでも、百万円なら投資へ戻せる。


『一度に動かす金としては、今までで一番大きいね』


『はい。旅行前に運用していた資金の約三倍です』


『候補はある?』


『国内企業を中心に、現在十二社まで絞り込んでいます。ただし、百万円を一社へ集中させることは推奨しません』


『なら複数に分けるか』


『値動きの理由が重ならない四社へ分散した場合、期待利益を大きく下げずに損失の偏りを抑えられます』


 ジンが挙げたのは、工場向けの部品を作る会社、低温輸送を扱う会社、電子決済に関わる会社、それから海外での販売を伸ばしている小さな化粧品会社だった。


 どれも、名前を聞いただけで株価が上がりそうな会社ではない。


 公開された技術資料、取引先の設備投資、求人の増加、海外店舗の販売状況。


 一つだけなら意味を持たない情報を重ねることで、数週間先に発表される可能性が高いものを探している。


『全部、予測が外れる可能性もある?』


『あります。市場全体が急落した場合、個別企業の材料より強い影響を受ける可能性もあります。想定損失は最大で約九万四千円です。ただし、価格が急激に変動した場合は、その範囲を超える可能性があります』


『十万円近くか』


 高校生の頃に投資を始めたときの資金は、八万円だった。


 今は、それ以上の金額を失う可能性がある取引をしようとしている。


 怖くないわけではない。


 ただ、金額が増えたからといって、ジンの予測が正しくなるわけでも、僕の判断が急に優れたものへ変わるわけでもなかった。


 損失だけを見て止めるなら、利益が増える速度も旅行前と変わらない。


『買おう。百万円をどう分ける?』


『注文内容を提示します』


 その日から二日かけて、四社の株を購入した。


 投資へ回したのは、九十三万円ほど。残りは、価格が下がったときに追加で買えるよう口座へ置いておく。


 以前なら、同じ割合だけ上がっても得られる利益は数千円だった。


 今は一割上がれば、十万円に近い。


 金が金を増やすという言葉が、ようやく僕にも実感できる金額になってきた。


 投資の注文を終えたあと、運転免許について調べた。


 モナコでは、街を歩くだけで何台ものスポーツカーを見た。


 フェラーリやランボルギーニを今すぐ買いたいとは思わない。今の資金では、中古車を探す前に駐車場代で嫌になる。


 それでも、旅行前に見たトヨタ86なら、いつか自分でも手が届くかもしれない。


 僕が車を欲しがる理由は、移動手段として必要だからではなかった。


 電車のほうが安くて早いなら、普段は電車に乗る。


 それとは別に、自分で運転してみたい。


 合理的ではないことと、欲しくないことは違う。


『大学の近くで通える教習所は?』


『三か所あります。現在の予約状況を公開している二か所では、九月中に入校した場合、二か月から三か月程度で卒業できる見込みです』


『費用は?』


『普通自動車のオートマチック限定免許で、およそ二十八万円から三十一万円。限定なしの場合は、それより二万円から四万円ほど高くなります』


『取るなら、マニュアルかな』


『将来選べる車種は増えます』


 三十万円を超える。


 払えない金額ではなくなったが、免許を取っても、すぐ車を買えるわけではない。


 今は投資へ回し、資金が増えてから通うという選択もある。


 決めきれないまま、その週末に実家へ戻った。


 夕食後、父がスマートフォンを持って僕の隣へ座る。


「フランスで、車を随分撮ってたな」


「海や建物も撮ったよ」


「車の写真だけで三十枚以上あったぞ」


「数えたの?」


「見ていれば気づく。車が欲しいのか?」


「いつかはね。その前に、免許を取ろうかと思ってる」


「教習所は決めたのか」


「候補はある。マニュアルで三十三万円くらい」


「なら、その費用は出してやる」


 予想していなかった言葉に、父の顔を見た。


「自分で払えるよ」


「払えることと、親が出してやりたいことは別だ。大学の入学祝いも、引っ越しで必要なものを揃えたくらいだったからな」


「三十三万円は、入学祝いにしては高くない?」


「カジノで百万円以上勝った息子に、財布を渡すよりは意味があるだろう」


「金銭感覚を心配してたのに?」


「だから免許代なんだ。使い道が決まってる」


 父は少し間を置いてから、僕を指さした。


「ただし、事故だけは起こすなよ」


「まだ申し込んでもないよ」


「運転する前に言わないと意味がない」


 そこまで言われて断るのも、妙な意地に思えた。


「分かった。ありがとう」


 翌日、大学から通いやすい教習所へ申し込んだ。


 選んだのはマニュアル免許だ。


 最初の技能教習で、僕は車を発進させるだけで二度エンストした。


『クラッチを戻す速度が一定ではありません』


『分かってる。今は言わないで』


『次の発進時に修正できます』


『教官の説明も聞いてるから』


『承知しました』


 頭の中に正しい操作を説明できる相手がいても、左足の動きまで代わってくれるわけではない。


 数学なら途中の計算を間違えた場所が分かれば直せる。


 クラッチは、分かったつもりで足を動かしても、車のほうが正直に止まった。


 三度目は、どうにかエンストせず発進できた。


 四度目には、教官から初回にしては覚えが早いと言われる。


 東大の合格や、モナコで一万ユーロ以上勝ったことに比べれば小さな出来事だが、自分で動かした車が教習所のコースを一周しただけで、思っていたより気分がよかった。


 教習車を降りた直後には、中古の86が現在いくらで買えるのか調べていた。


『免許を取る前に買わないでください』


『見てるだけだよ』


『購入可能な金額まで資金が増えた場合、和希が見るだけで終える確率は低いと推定します』


『僕のことを分かってきたね』



 帰国から一週間ほど経った頃、アパレル会社から栗原先輩へ連絡が入った。


 冬商品の広告映像も、前回と同じ制作チームへ依頼したいという話だ。


 予算は六十万円。


 前回の倍だった。


 会社から届いた文面には、制作チームへの依頼だけでなく、僕を監督として起用したいことまで書かれているらしい。


《先方から佐村を指名してきた。今日、サークルに来られるか?》


《行けます》


 大学のサークル部屋で栗原先輩と会い、依頼の内容を確認する。


 前回制作した広告は、会社の予想を上回る結果を出していた。


 映像を最後まで見た人の割合が高く、広告から販売ページへ移動した人数も、それまで使っていた映像の一・四倍を超えたという。


 日菜のミュージックビデオを撮ったとき、僕が受け取った報酬は一万五千円だった。


 今回は、僕を使うこと自体が依頼の条件に含まれている。


 嬉しくないはずがない。


 僕が撮った映像を気に入られただけでなく、次も僕に撮らせたほうが金になると判断されたのだ。


「前回と同じように、サークルで受けるんですか?」


「そのつもりだ。ただ、今回は佐村を監督として指名してる。報酬の配分も前と同じにはできないな」


「増えるなら歓迎します」


「少しくらい遠慮しないのか?」


「指名されたのに、前と同じ金額で働くほうが不自然でしょう」


「大学一年とは思えないことを言うな」


「学年で値引きされるんですか?」


「されないように、今から決めるところだよ」


 栗原先輩は呆れた顔をしながら、予算表へ僕の担当を書き込んだ。


 企画、監督、編集。


 撮影日数も、作る映像の本数も前回より増える。僕の報酬は十四万円になった。


 単純に自分の名前で増えた金額だと思うと、数字以上に価値がある。


「モデルも同じ人を希望してるらしい」


「徳山理央ですか?」


「先方の希望でもあるけど、徳山さんの事務所からも、佐村が監督なら日程を優先して調整するって返事が来てる」


「本人が言ったんですか?」


「そこまでは知らない。撮影の後、連絡先を交換してたよな。仲良くなったのか?」


「一度、二人で食事へ行きました」


「い、いつの間に?」


「前回の撮影が終わった日の夜です」


「いや、そうじゃなくてな」


 栗原先輩が何を想像したのかは分かった。


 その夜は食事をしただけだ。


 わざわざ説明する必要もないので、僕は次の撮影日程へ話を戻した。




 二度目の打ち合わせで、理央と顔を合わせた。


 理央は会議室へ入ってくると、社長や広報担当者へ挨拶する前に、僕の顔を見た。


「少し焼けた?」


「フランスへ行ってたので」


「は? 聞いてないけど」


「言ってませんからね」


「誰と?」


「一人です」


「本当に?」


「そこを疑う理由があります?」


「和希君なら、向こうでも誰か見つけてそうだし」


「僕を何だと思ってるんですか?」


「生意気な大学生」


 理央は僕の正面の席へ座った。


 今回の商品は、女性向けのロングコートだった。


 街中と室内の二か所で撮影し、一人で過ごす休日を短い映像へまとめる。


 前回より理央の表情を長く見せ、服だけでなく、着ている人間の生活まで想像させる構成にした。


 理央は企画書を最後まで読み、絵コンテの一枚を指で叩いた。


「この部屋で本を読むところ、カメラはどこにいるの?」


「窓の外です」


「一階?」


「撮影場所は二階。向かいの建物から望遠で撮ります」


「そこまで離れる必要ある?」


「近くから撮ると、誰かに見せるために本を読んでいるように見えるので」


「広告なんだから、見せるためでしょ」


「理央さんはそう思っていても、映像の中の女性は違います。一人でいるところを、誰かに見られているとは思っていない」


 理央は絵コンテへ目を戻した。


「前より面倒なことを考えてるね」


「予算が倍になりましたから」


「お金の分だけ考えるんだ」


「無料でも考えますよ。使える時間と人が増えれば、試せることも増えます」


「なら、前より綺麗に撮ってよ」


「服が主役なので、約束はできません」


「そこは黙ってはいって言えばいいのに」


「理央さんなら服に負けないでしょう?」


 理央が一瞬黙った。


 すぐに口元を上げ、椅子の背へ身体を預ける。


「当たり前でしょ」


 社長と広報担当者が、僕たちのやり取りを聞きながら笑っていた。


 最初の打ち合わせでは理央が口を開くたびに緊張していた広報担当者も、今回は止めようとしない。


 理央が遠慮なく意見を出し、僕が必要なものだけを拾う形を、すでに分かっているようだった。


 打ち合わせを終え、会社の外へ出る。


 栗原先輩たちと駅まで歩き、途中で別れた直後、理央からメッセージが届いた。


《今日、空いてる?》


《夕食でも行きますか?》


《前と同じ店は嫌》


《僕が決めるんですか?》


《理央を誘うなら、そのくらいして》


《誘われたのは僕だと思うんですけど》


《場所はこの辺》


 僕の意見は無視され、駅周辺の地図だけが送られてきた。


 店まで決めてくれたら楽なのにと思いながら、条件に合いそうな店を探す。



 駅から少し離れたスペイン料理の店を予約し、理央へ場所と時間を送った。


《十九時。遅れないでね》


《予約したのは僕ですよ》


《だから先に行って待ってて》


 待ち合わせまでは四十分ほどある。


 一度駅前の書店へ入り、旅行中に見られなかった新刊を眺めてから、約束の五分前に外へ出た。


 通りの向こうから理央が歩いてきた。


 打ち合わせのときに着ていた薄いジャケットを腕へ掛け、片手には小さな黒い鞄を持っている。仕事先で見たときより、少しだけ肩の力が抜けて見えた。


「ちゃんと待ってたんだ」


「予約した店に僕が遅れるわけにはいかないでしょう」


「理央を待たせたくなかったとは言わないんだね」


 店までは歩いて十分もかからない。


 細い階段を上がった二階にあり、通りからは中の様子がほとんど見えなかった。扉を開けると、照明を落とした店内に焼いた肉と香辛料の匂いが漂っている。


 窓際の席へ案内され、理央は赤ワイン、僕は炭酸水を選んだ。


「モナコじゃ十八歳でお酒飲めるんだ」


「僕は飲まなかったですけどね」


「国によって飲めたり飲めなかったりするの、変な感じ」


 料理を注文する頃には、打ち合わせの続きのような空気はなくなっていた。


 食事中、仕事の話はほとんどしなかった。


 理央は僕がモナコで撮った写真を見たがり、仕方なくスマートフォンを渡すと、自分で画面を動かして一枚ずつ見ていく。


「これ、和希君が泊まったホテル?」


「そうです」


「普通だね」


「何を期待してたんですか?」


「カジノで大勝ちして、一番高い部屋へ移ったとか」


「勝ったのは帰る直前です。それに、一人で寝る部屋を広くしても使い切れませんよ」


「夢がないね」


「理央さんは、高い部屋に泊まりたいんですか?」


「自分のお金なら迷う。人のお金なら泊まりたい」


「まあ、確かに」


「そういえば、カジノでいくら勝ったの?」


「一万ユーロより少し多いくらいです」


 理央の指が画面の上で止まった。


「……本当に?」


「嘘つくなら、一億ユーロとかにしてるかも」


「大学一年で、旅行中に百万円以上勝ったの?」


「そうなりますね」


「どうやって?」


「ルーレットとポーカーとブラックジャックで勝ちました」


「よくわからないけど、そんなに勝てるものなの……?」


 隠しているものはある。


 ただし、理央が想像しているような不正ではない。


「現地でも日本でも申告しました。悪いことはしてませんよ」


「和希君のそういうところ、変」


「褒めてます?」


「半分くらい」


 理央はスマートフォンへ視線を戻した。


 その後は勝った金額より、写真に写っている海や街について聞かれた。


 食事を終えて店を出ても、理央は駅へ向かわなかった。


「少し歩かない?」


「構いませんけど」


 大通りから一本外れた道を、理央と並んで歩く。


 店では途切れず話していたのに、外へ出てからは無言の時間が続いた。


 理央が何かを待っていることは分かった。


 僕から言わせたいのか、自分から言うのを迷っているのかまでは分からない。


 先に沈黙へ耐えられなくなったのは、理央だった。


「この前の食事、本当にそのまま帰ったよね」


「あのときはまだ仕事が残ってましたから」


「それでも普通、もう少し様子を見ない?」


「なんですか、それ」


「分かってるくせに」


「言ってくれないと分かりませんよ」


 理央が横目でこちらを見る。撮影中なら、この顔でシャッターを切っているだろう。


 今は、もう少し近くで見ていたかった。


「今日も帰るの?」


「理央さんが何も言わないなら帰ります」


「そういう言い方、ずるい」


「僕は食事に誘われただけですから」


「食事に誘ったのは、和希君でしょ」


「最初に今日空いてるか聞いたのは理央さんです」


「ほんと、面倒くさい」


 理央はそう言ったが、駅へ向かおうとはしなかった。


 次の角を曲がる手前で足を止める。


「うち、この先だから」


「はい」


「来てよ」


 理央は言い終わってから少しだけ視線を落とした。普段強気な理央がそうすると、妙に響く。


 意味を尋ねるほど鈍くはない。ただ、尋ねたらどんな顔をするのかは、少し見てみたかった気もする。


 ただ僕は理央としたかった。


 誰より自分に価値があると信じている女が、僕を部屋へ入れたがっている。

 その事実に、かなり前から身体は正直に反応していた。


 それでも先に伝えておくことがある。


「僕は、理央さんと付き合うつもりはありません」


「誰も付き合ってなんて言ってないけど?」


「ほかに会っている女性もいます」


 理央は僕の顔をしばらく見ていた。


 怒るかと思ったが、口元に浮かんだのは、少し呆れたような笑みだった。


「正直なんだね」


「後から知られるよりはましかなって」


「それを聞いたら、理央が一人で帰ると思わなかったの? 男からしたら、こんないい女の部屋に入れる絶好の機会でしょ」


「曖昧なままなのが嫌だっただけです」


「理央としたくないの?」


「したいですよ」


 理央の笑みが深くなる。


「なら来て」


 再び歩き始めた理央の隣へ、僕も並んだ。


 理央が住んでいたのは、駅から十分ほど離れた七階建てのマンションだった。


 入口にはオートロックと防犯カメラがあるが、受付や管理人が常駐するような高級物件ではない。


 部屋そのものは綺麗だったものの、壁際のハンガーラックには服が隙間なく掛かり、靴箱へ収まらない靴が箱のまま積まれていた。


「モデルの部屋って、もっと広いのかと思ってました」


「売れてる人だけでしょ。理央も、もう少し広いところに引っ越したいけど」


「服を減らせば広くなりますよ」


「帰る?」


「来たばかりです」


 理央は鞄を置き、冷蔵庫から水を二本取り出した。


 ペットボトルをテーブルへ置くと、そのまま僕の前に立つ。


「和希君」


「なんですか?」


「仕事じゃないときは、理央って呼んで」


「理央」


「うん」


 理央の指が、僕のシャツの襟へ触れる。  


 そのまま唇が触れた。触れてすぐ、理央が小さく息を漏らす。いつも強気な声を出していた喉から出たとは思えないほど、頼りない音だった。


 その音を聞いた瞬間に、僕の余裕が持っていかれた気がした。手を理央の後頭部に回す。髪が思っていたより細い。撮影のとき照明が透けていた理由が、指で分かった。


「……ん、」


 離れた理央が、こちらを睨む。睨む目が、少し潤んでいる。


「今の、顔」


「なに?」


「仕事の顔じゃなかったね」


 そうかもしれない。認めるのは癪だったので、もう一度口づけた。文句を言わせないための時間稼ぎで、実際、理央は何も言わなくなった。


 壁際まで押していくと、ハンガーラックが小さく鳴った。服が揺れて、理央が肩越しにそれを気にする。


「……高いんだけど、それ」


「じゃあ、こっち」


 腕を引いて、ラックから離す。理央はもう抵抗しなかった。


 顎を上げさせて、もう一度顔を近づける。今度は理央のほうから目を閉じた。


 閉じる直前に、ひとつだけ見えた。強気でも、余裕でもない目だった。仕事の現場で監督に意見を出すときの、あの目でもない。


 思ったことは言わなかった。言えば、理央はきっと機嫌を損ねる。


 理央の指が、僕のシャツのボタンにかかっていた。震えてはいなかった。ただ明らかに遅い。


「……電気」


「消しますか」


「消さないで」


 それだけ言って、理央は自分から僕の首に腕を回した。


『ジン。視覚と聴覚の共有を切って』


『承知しました』




 翌朝、目を覚ますと、カーテンの隙間から入った光が床へ落ちた服を照らしていた。


 隣では理央が眠っている。


『現在時刻は午前八時十二分です。技能教習の開始まで、一時間四十八分あります』


『起きる』


 音を立てないよう身体を起こしかけたところで、背中から腕を回された。


「どこ行くの」


「帰ります。教習所の予約があるので」


「休めば?」


「最初から休んでたら、いつまでも免許を取れないですよ」


「理央より免許が大事なんだ」


「比べるものじゃないです」


「そういう答えが一番むかつく」


 眠そうな声で言いながら、理央の腕は離れない。


「あと十分」


「十分で起きるんですか?」


「起きない」


「正直ですね」


「和希も寝て」


 十分だけなら、まだ間に合う。


 そう思ってベッドへ戻った。


 だが、眠るだけでは終わらなかった。


 


 理央の部屋を出た時点で、技能教習の開始まで四十七分になっていた。


『間に合う?』


『現在地から教習所まで、最短で三十九分です。駅まで走れば、乗車予定より一本早い電車を利用できる可能性があります』


『走る』


 朝の歩道を駅へ向かって走る。


 昨夜まで着ていたシャツで、教習所へ急ぐことになるとは思わなかった。


 信号の手前まで来たところで、ジンから別の報告が届く。


『保有している四社のうち二社で、売却条件が成立しました』


『今?』


『はい。一社は取引先が新工場の稼働を公表し、もう一社は海外販売数が市場予測を上回っています』


『売ったら、いくらになる?』


『税金と手数料を差し引いた確定利益は、合計十一万八千円前後です』


 投資を再開してから、十日も経っていない。


 以前の資金なら、同じ値上がりでも一万円か二万円だった。


 元手が増えたことで、ジンが見つける小さな差が、そのまま大きな金額へ変わり始めている。


『売ろう。残りの二社は?』


『保有を継続します。注文価格を提示します』


 走りながら注文を確認するわけにはいかない。


『電車に乗ってから』


『承知しました』


 百万円を動かして十一万八千円を得た朝も、僕は一回の教習を無駄にしないため駅まで走っている。


 金が増えても、急いでいる理由は随分と安い。


 そのことが少しおかしくて、走りながら笑った。




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