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5.幼い頃の出会い

ー 9年前 ー


 アーガード伯爵家の領地にはそんなに大きくはないが美しい森がある。たくさんの動植物を育む森の名はシャメール。ここは精霊の住む森と言われ、アーガード家が代々大切に守ってきた場所だった。

 そんな森の中に毎日遊びに行くのがトリニティの日課だ。弟はまだ2歳になったばかりで連れて来られないが、もう少し大きくなったら一緒に森を探検したり、かくれんぼをして遊びたい。その為に森のあらゆる場所を知っておかなくっちゃ。


「お嬢様、今日は雨が降るようなので早めにお帰り下さい」


 執事のサムソンに言われたが、雨が降ったら走って帰ればいい。まだ8歳のトリニティはそう思いながらいつものように森の中を進んで行った。しばらく歩いて行くと、ふと見た先にある太い木の根元に小さな鹿が横たわっているのが見え、トリニティはあわててその子鹿に駆け寄った。


 生きているかしら・・・。そっと顔をのぞき込むと子鹿がうっすらと目を開いた。良かった。まだ生きてる。


「鹿さん、怪我してるの?リニが助けてあげるね」


 そう言ってトリニティは子鹿を抱き上げた。ぐったりと力を無くした鹿は思ったより重かったが、それでも屋敷への道を急いだ。しかし、その道の途中でトリニティはふと立ち止まった。サムソンは厳格な男だ。きっと屋敷に野生の動物を連れてくるなど許さないだろう。そうなればどんなにトリニティがお願いしてもこの子鹿は下男にでも命じて捨てに行かさせるか、最悪処分されてしまうかもしれない。


 そう考えたトリニティは周りを見回して誰も居ない事を確認すると、屋敷とは反対の方向に向かって走り出した。屋敷の者に見付かると街へ出る前に連れ戻されるかも知れないからだ。何とか誰にも見付からず街に出る為の道を急ぐ。街へ出れば人に聞いて病院を教えてもらえるはずだ。この時のトリニティは動物も人間を診る医者が治療するものだと思っていた。


「鹿さん、しっかりしてね。すぐにお医者様に連れて行ってあげるから」


 だが子鹿とは言え8歳のトリニティには重く、足取りは進まない。そうこうするうちに執事が言っていたように雨が降り出した。最初ポツポツと地面を濡らすだけだった雨は、直ぐに視界が悪くなる程の大雨になってきた。


 決して諦めたりしない。この子を助けるまでは・・・。


 強い意志で冷えていく身体を奮い起こし前へと進む。だが弱々しい歩みはぬかるんだ土に足を取られ、トリニティは声も上げられず前に倒れ込んだ。その瞬間、激しい馬のいななきが聞こえ、地面に倒れたトリニティは自分の頭の上で馬が大きく前足を上げているのを見て、恐ろしさに思わず目を閉じた。その後、「どうどう」と馬を落ち着かせようとする男の声と「大丈夫かい?お嬢ちゃん」という別の声にトリニティはゆっくり目を開いた。


 大きな4頭立ての馬車が止まっている。声を掛けた2人の男はその馬車を操る御者のようだ。そこで初めて自分が倒れたせいで馬車を止めてしまったのだと気が付いた。力が尽きて立ち上がれないで居ると、馬車から降りてきた青年がトリニティの側まで来て顔をのぞき込んだ。


「鹿を抱いているのか?こんな小さな少女が?」


 驚いたように呟く青年を見上げ、トリニティは必死に懇願した。


「あの、お医者様を知りませんか?この子、怪我をしているんです。このままでは死んでしまう」


 青年は少し目を丸くしてから直ぐに細めた。

「死んでしまうのは君も同じだよ」


 青年は子鹿ごとトリニティを抱き上げると馬車の中に座らせ、子鹿は床の絨毯の上に横たわらせた。傘を持って青年の後ろに控えていた侍従らしき男が、どこから取り出したのか膝掛けに使う毛布をさっとトリニティの肩に掛けてくれた。


「この辺りの馬商を調べれば、獣医を知っているだろう。俺は先に別荘へ行く」


 青年の言葉に頷くと侍従はさっと別の傘を広げ、直ぐに駆け出して行った。青年が乗り込むと馬車はゆっくりと発車した。子鹿を助ける事ばかり考えて気を張り続けていたトリニティは、やっと自分の感覚に気付いたのかガタガタと震え始めた。指の先も冷たく小さく唇も震えている。

 それに気付いたのか対面に座っていた青年が、トリニティの隣に座って肩を抱き寄せてくれた。肩を優しくさすってくれるその温かな手と彼の体温で震えが止まったトリニティは安心したのか、そのまま吸い込まれるように眠りについた。



 気が付くとトリニティはふわふわの布団の中に埋もれるように寝ていた。ボーッとした頭のまま身体を起こすと、側に居た50代くらいの女性が「まあまあ、気が付いたのですね」と言いつつ顔をのぞき込んだ。


「良かったわ。坊ちゃまが連れて来られた時にはぐったりしていてご病気かと思ったけど、お熱もないようね」


 坊ちゃまとは先ほどの青年の事だろうか。やっと頭が働くようになってトリニティは子鹿の事を思い出した。


「あ、あの、鹿は・・・子鹿はどうなりましたか?」

「ああ、それなら下の納屋に居ますよ。診察も終わって、今は坊ちゃまが手ずから面倒を見ておられますよ」


 それを聞いて慌ててベッドから出ようとしたトリニティをその女性が遮った。


「あらあら、その格好で行くつもり?随分はしたないですよ」


 よく見ると、いつの間にかナイトドレスを着ている。着ていた服がびしょ濡れだったので、着替えさせてくれたのだろう。


「それは私の孫娘の物ですよ。今は小さくなって着れなくなったのですけど、置いておいて良かったわ。そんなに良い服ではないけれど、ドレスも借りてきたのでそれをお着せしますね」


 そう言って彼女は着替えを手伝ってくれた。途中トリニティの両親にもちゃんと連絡を入れてあり、後ほど送っていくので心配しないように伝えてあると教えてくれた。

 そう言えば眠ってしまう前に背年から名前を尋ねられたのを思い出した。ほとんどうろ覚えだが、多分ちゃんと”アーガード伯爵家のトリニティと申します“と名乗れたはずだ。


 マルサと名乗った先ほどの女性に連れられて屋敷の外に出ると、もう雨はすっかり上がって茜色の空が広がっている。庭園から少し離れた納屋に行くと藁の上に子鹿が横たわっていて、そのすぐ側で先ほど出会った青年が小さな水差しで子鹿の口に水を含ませていた。子鹿の右前足と胴体に包帯が巻いてあるので、マルサが言ったようにちゃんと医者の治療が済んでいるようだ。


 トリニティは鹿の元へ掛けより様子を見た後、側に居る青年に向き直って丁寧に頭を下げた。


「この度はご迷惑をおかけしたにも関わらず、助けて頂きありがとうございました。あの、お名前をお聞きしても宜しいですか?」


 顔を上げて青年を見ると、彼は少し戸惑ったような顔でトリニティの顔をじっと見た。


 薄暗い雨の中で会った時は無我夢中で分からなかったが、青年は8歳のトリニティでもハッとするほど美しい容姿をしていた。少し長い黒髪から覗く白い肌は薄く透ける陶磁器のように滑らかで、まだ少年のような赤い頬と唇を際立たせている。長いまつげから覗く紫の瞳はまるで見る者の心を惑わせるように魅惑的で、そのすらりとした均整の取れた肢体と相まって、まるでこの世の物ではないような雰囲気を纏っていた。


「あの・・・?」


 青年がじっと押し黙っているのでトリニティが首を傾げると、彼は短く「レオだ」と答えた。


「レオ様。改めて自己紹介いたします。アーガード伯爵家が娘、トリニティ・アーガードでございます。先ほどは私の不注意で馬車を止めてしまい、本当に申し訳ありませんでした。後ほど両親からも助けて頂いたお礼の品を・・・」

「そういう物は要らない」


 言葉を途中で遮られ、トリニティは戸惑った。どうしよう。できるだけ丁寧に言ったつもりだったが、怒らせてしまったのだろうか。トリニティの表情が曇ったのに気付いて、レオは慌てたように微笑んだ。


「ああ、いや、ここへはたまに息抜きに来ているだけで、礼などは本当に要らないんだ。それより獣医の話だと鹿は2、3週間もすれば良くなるそうだ。だから安心してもう帰りなさい。ご両親も心配しておられるだろう」

「あ、あの・・・」


 立ち上がったレオの背にトリニティは慌てて声を掛けた。何故か彼は自分の正体を明かすのを避けているように感じる。先ほど彼はここを別荘と呼んでいたが、別荘にしては立派な屋敷だし、何か事情があるのかも知れない。

 そういう事情を尋ねなければ、彼はここへ来るのを許してくれるだろうか。大人の事情も分からない子供のくせにと怒らせてしまうだろうか。


「両親には何も話しません。だからここへ来るのを許可して頂けませんか?せめてこの子が治るまで側に居たいのです。どうかお願いします!」


 勢いよく頭を下げたトリニティをレオは少し困ったように見た後、彼女の側まで歩いてきた。


「毎日様子を見に来たい?」

「はい、出来ればそうしたいです」

「ご両親には何と言う?」

「お友達の家に可愛い動物が居るのでそれを見に行くと。大人のレオ様をお友達と呼ぶのははばかられますが、レオ様が許して下さるのでしたら嘘にはなりません」


 レオはフッと笑うと「君は本当にしっかりしている」と呟いた。


「分かった。それでは今日出会った場所に毎日迎えの馬車をよこすとしょう。勿論帰りも送っていく。一人で出歩くのは無理だろうから侍女も連れて来るといい。それでどうだい?」

「はい!レオ様。ありがとうございます!」



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