22.解けた誤解
午後の穏やかな日差しが差す大公家の庭園は、この屋敷の説明をケインズから受けた時に、王都一の庭師が長い年月をかけて作り上げた秀逸な庭だと聞いている。確かに周りに植えられている木々も年月を感じさせる大きさに成長していた。ガゼボの位置も庭が一番美しく見渡せる場所に設置されている。何もかもが完璧に計算されたその壮麗さは、王宮の庭園にも劣らない魅力があった。
その美しい庭を、この世の全ての美を纏ったような人が、とろけるような笑顔を向けてこちらに歩いて来る。ティーテーブルの側に立って両手を胸に押しつけながら、トリニティはドキドキと高鳴る心を押さえつけた。
私がレオンハルト様と結婚するのは、この大公家をあの人と共にしっかりと守る為。その為のパートナーとして彼は私を選んだの。ただそれだけよ。私もそう自覚して・・・。
自分の前まで来たレオンハルトが急に跪いたので、トリニティの思考はそこで停止した。手に持った小さな小箱を開いて彼はちょっと頬を赤く染めながら、輝く笑顔をトリニティに向けた。
「トリニティ。これを貰って欲しい。俺からの気持ちだ」
レオンハルトはゆっくりと立ち上がると、トリニティの左手を取り指輪をはめた。
「良かった。サイズが分からなくて迷ったけど、ぴったりだ」
そう言って微笑んだ彼の顔を見る事が出来ない。どうしてこんな事をするの?あなたの事を愛さないでいようと思っているのに。これは彼女に指輪を買ったついでなのかしら。それとも彼女と同じ物を?
「ごめん。早く君に渡したくて今回は注文品じゃないんだが、結婚指輪は意匠を凝らしたこの世にただ一つの物を作らせるから・・・トリニティ?」
目の前でトリニティが大粒の涙をポロポロとこぼしているのを見て、レオンハルトはびっくりした。
「と、トリニティ、どうした?やはり俺の瞳の色は押しつけがましかったか。やっぱりトリニティの瞳の色のローズカラーの方が・・・」
急にトリニティが抱きついてきて思わず鼻血が出そうになったレオンハルトは、必死に心を落ち着かせて堪えた。今のこの雰囲気を壊すわけにはいかない。何よりいつものように鼻血を止めてくれる侍従が側に居ないので、ここは根性で耐えるのだ。
「トリニ・・・ティ?」
「ありがとうございます、レオンハルト様。大切に・・・一生大切にしますね」
その言葉に、レオンハルトは幸せそうに微笑んで彼女を抱きしめ返した。
ごめんなさい。私はこの人を諦められません。どんなに諦めようとしても心がこの人を求めてしまう。だから許して下さい。私があなたを心の底から愛する事を。私があなたの側に居る事を。あなたの心がどこか違う所にあったとしても、私はあなたを想い続けます。決して離れません。ずっとずっと側であなたを愛し続けます。
庭園の入り口から彼等の様子を見ていたプリンテュクスは思わず瞳を伏せた。トリニティを攫って逃げたいなんて、ボクは本当にどうかしている。トリニティが何を思い悩んでいるか分からないけれど、レオンハルトが彼女を心の底から大切に思っているのは誰の目にも明らかなのに・・・。
そう考えた時、やはり妙だと思った。あんなにも愛されているのに、トリニティが泣くのはどうしてだろう。まさか・・・逆なのか?トリニティの方に誰か好きな男がいて、それでレオンハルトに申し訳なくて泣いているとか・・・?イリアナに会いに行ったのはそれを相談する為だった?
踵を返すと、プリンテュクスは屋敷の外へと向かった。やはりイリアナに会いに行こう。簡単にトリニティの秘密を話してくれるとは思えないが、やはり真実を知っているのは彼女しかいない。
「え?今、なんと?」
「だから!あなたの主である大公様が、愛人と一緒にいる所を見たのよ。しらばっくれないでよね!侍従のくせに知らなかったとでも言うの?私達はしっかり見たんですからね!大公が愛人と一緒にカフェで楽しそうにケーキを食べて、その後宝飾店へ行って彼女に指輪を買っているのをっ!!」
イリアナにトリニティの事で話があると面会を申し出て、すぐに彼女は怒りを込めて話し始めた。それもプリンテュクスが思いも寄らなかった内容を・・・。
「それは・・・その、先々週の日曜日の話で?」
「ええ、そうよ!相手の女は平民?考えられないわ、ふざけないでよね。トリニティにはまだ宝石の一つも贈った事がないくせに、あんな贅沢品を平民に送るなんて!ああ、思い出しても腹が立つ。あなた侍従ならもっとしっかり主人の手綱を引いておきなさいよ。トリニティを不幸にしたら絶対に許さないからね!!」
プリンテュクスは余りのショックに口に手を当て、後ろに2歩よろめいた。
ボクとした事がとんだミス、いや、大失態だ。まさかデートコースの下見中にトリニティがそれを見て誤解していたなんて・・・。
「ボクが許せないのは、ボク自身だった・・・」
そう呟くとプリンテュクスは動転したままその場を後にした。
「ちょっと、あなた。挨拶もなしに帰るの?全く、主人も主人なら侍従も礼儀知らずね!」
ここにまだ一人、誤解し続けている女性が居た。
その日の夕方やっと今日の講義を終えたトリニティは、参考書やノートを持って自室へ向かって歩いていた。その内、いつも静かなこの大公邸には珍しく、階下からたくさんの人の声が響いてくるのに気が付いた。
「どなたかお客様でも来られたのかしら」
出迎えようと階下に降りてみてトリニティはびっくりした。以前レオンハルトと一緒に居た女性、彼の恋人が執事長や他の執事達に囲まれながら歩いて来る。彼等の様子はとても打ち解けていて親しそうに見え、トリニティは余りの衝撃に手に持った本やノートを床に落としてしまった。
“ どういう事なの?もしかしてあの女性はこの屋敷では公認されているという事?しかもあの皆の親しげな様子から見て、私が来るずっと以前からここに出入りしているのは間違いないわ ”
余りの出来事に胸が苦しくて息が出来なくなった。足が震えて力を無くし、思わず側の壁に寄りかかった。
“ それでは私は?私の存在は一体何だったと言うの? ”
いくらレオンハルトに愛人が居たとしても、それは屋敷の外での話だ。あくまでこの家の主人の妻はトリニティであり、この屋敷の中の采配は奥方であるトリニティが取り仕切るべきだ。なのに屋敷の中まで愛人が乗り込んでくるなど、余りにも甚だしく妻を侮る行為に他ならない。そんな事をこの屋敷の執事長までが許していたなんて・・・。
トリニティは先ほど心に誓ったレオンハルトへの思いを、もう一度思い起こした。
私は絶対にレオン様から離れない。あの方の妻として、この屋敷の奥方として毅然と対処しなければ・・・。
トリニティは顔を上げると、応接室へ入っていった彼等の後を追った。部屋の入り口に立って中を見ると、いきなり問題の女性と目が合った。彼女は上品なツイードのケープを纏い、その左胸には多分レオンハルトが送ったであろう、高級なブローチがはめられている。
ぎゅっと手を握りしめると、来客用のカーテシーをする。
「ようこそお越し下さいました。レオンハルト・グレゴーニュ大公の婚約者、トリニティ・アーガードでございます」
すると女性は足音が響くくらいの大股でトリニティの側まで歩いて来ると、いきなりトリニティの両手を握りしめた。
「きゃあっ、あなたがトリニティ様ね。なんって可愛いらしいの?大公様がメロメロになっちゃうのも分かりますわぁ!」
「は?」
「もう、大公様ったら大好きなトリニティ様とデートしたいから女性が好きそうな場所を教えろとおっしゃって、この間はデートコースの下見に付き合わされていたんですよ」
「え?」
「それはもう下見の間中、トリニティ様は何が好きかとか、何をしたら喜ぶかとか、そればっかり考えておられましたよ。甘い物が得意でないのに、トリニティ様と一緒に食べたいから練習するとおっしゃって、頑張ってケーキを2個も食べてらっしゃいました。食べ終わった後のちょっと気分が悪そうな顔が面白かったですわぁ!ほぉっほっほっ」
“ ええ────っ!? ”
トリニティが驚いて声も出ない所に、丁度レオンハルトもやって来た。
「随分騒がしいと思ったら、やっぱりペリータか」
執事長も怪訝そうな顔をして娘を戒めた。
「ペリータ、失礼だぞ。トリニティ様にご挨拶がまだだろう」
「そうでございました」
ペリータはトリニティの手を放すと、ドレスの裾を持ってお辞儀をした。
「執事長ケインズの娘、ペリータ・ルコイルでございます。えーっと、そろそろ来ると思うのですが・・・」
ペリータが顔を上げると丁度30代前半の男性と10歳前後の男の子と女の子が入室してきた。男の子と女の子が「ママー!」と叫びながら彼女のドレスに両側から抱きついた。
“ し、執事長の娘?しかも2人の子持ち? ”
トリニティは頭が付いていかず、只呆然とその様子を見つめていた。
「夫のハリスと息子のトーマス、娘のビアンカです。今日は娘のバイオリンの発表会だったんですけど、デートコースの下見のお礼にと大公様が買って下さったこのブローチ、奥様方に好評でしたわ。ご主人の瞳の色と同じ色の宝石がステキだと」
それを聞いてトリニティは彼女のブローチとハリスの瞳を見た。確かにどちらもペールグリーンだ。
「トリニティ様。夫は王都で貴族向けのオーダードレス専門店を営んでおりますの。ご結婚の際には是非ウェディングドレスを私どもにご注文下さいませね。それではどうかレオンハルト様とお幸せに」
言う事を全て言ったとばかりに、ペリータは夫と子供達を連れて応接室を出て行った。玄関ドアの前でレオンハルトの侍従がじっと立って彼女が来るのを待っている。
「この度は発表会後のお忙しい所、わざわざお越し頂き申し訳ありませんでした」
プリンテュクスが丁寧に頭を下げ礼を言った。
「こちらも商売ですもの。ウェディングドレスだけでなく、トリニティ様の夜会のドレスも全て我がルコイル商会に発注して下さるんでしょ?」
「もちろんでございます」
大公家という大得意様を得たペリータはニヤリと笑うと、堂々とプリンテュクスが開けたドアを通り抜け、夫と子供達を連れ帰って行った。




