20.悲しみに打ちひしがれて
イリアナと別れて大公家の馬車に揺られながら、トリニティはこれからの事を考えた。もしあの女性がレオンハルトの愛人だったとしても、トリニティの人生は何も変わらない。このままレオンハルトと結婚し、大公家を守り跡継ぎを生む。レオンハルトは感情に左右されるような人ではないだろうから、例え愛人に子供が生まれても、ちゃんとトリニティの生んだ子供を正式な跡取りとして認めてくれるだろう。
でもそんな事は今のトリニティにはどうでも良かった。ただ愛する人の一番が自分ではなかった事が辛かった。こんなにも大好きになってしまったのに、私の気持ちは彼にとって何の価値もなかった。お飾りの妻に心なんて必要ないもの。だったらどうしてあんなにも優しくしてくれたのかな・・・。
胸の奥につかえた何かが留めなく涙を押し出していく。迷子になってしまった私の気持ちは何処に向かえばいいんだろう。
貴族の妻の中には表面だけは貴族の体裁を保って夫の関心がないのをいい事に自分も愛人を作って楽しんでいる人もいると聞くが、トリニティにはそんな事を考えるのさえ、たちが悪いと思ってしまう。
大きくため息を付くと、トリニティは窓の外を眺めた。さっきまで晴れていた空に厚い雲がかかって辺りが薄暗く感じる。イリアナの言ったように、このまま大公家へ戻り何事もなかったようにレオンハルトと暮らせるだろうか。それが当然だ。みんな自分の気持ちを押し殺してそれでも生きている。私もいい加減、自分の運命を受け入れなければ・・・。
それでも今は大公家に戻りたくない。かといって実家に戻ったら、又家族を心配させるだろう。ほんの少し、少しだけでいい。心を休めたい。私を受け入れてくれる場所で・・・。
涙を拭い鼻を一度すするとトリニティは窓を開け、馬車の横を馬で併走している護衛のルートに、後でちゃんと大公家に帰るからその前に少し散歩をしたいのでシャメールの森に寄ってくれるよう頼んだ。
屋敷に残ったプリンテュクスは、手の掛かる主から離れて久しぶりにのびのびとした気分だった。トリニティには護衛が6人も付いているし、我が主は強盗に襲われても返り討ちにするだろうから全く心配はない。
当然主がいないからといって侍従の仕事が無くなるわけではなく、レオンハルトが決裁し終わった書類の整理をしたり、家令と共に主人の次の予定を立てたり明日の仕事の手配をしたりと、何かと忙しい。レオンハルトが使った参考文献を蔵書室に戻しに行こうと廊下を歩いていると、向こうからトリニティの護衛をしているルート・ハーグリッドが小走りでやって来た。
「ジャン、閣下は?」
「まだお戻りではないが、まさかトリニティ様に何かあったのか?」
嫌な予感がしてプリンテュクスは早口で尋ねた。
「いや、何もなかったと思うが、少し様子がおかしくて。コーデュロイ伯爵令嬢を屋敷に送った後、馬車で戻っていたのだが、急にシャメールの森に散歩に行きたいとおっしゃられてな」
トリニティはレオンハルトが屋敷に居ると思っている。だからイリアナと別れたなら、なるべく早く戻ろうと考えるはずだ。プリンテュクスは急いで馬小屋に行き馬丁に足の速い馬を引いて来させると、すぐにシャメールの森に向かった。
本当に嫌な予感がする。何故だ?最近はレオンハルトとの仲も皆が呆れるほど睦まじいし、まさかイリアナと喧嘩でもしたのか?あの穏やかで争いごとの嫌いなトリニティが・・・?
シャメールの森の入り口で5人の護衛が困ったような顔をして立っていた。トリニティの行き先を尋ねると、一人にしてくれと言って森の中へ入って行ったらしい。すぐに追いかける。9年ぶりに来るが、勝手知ったる森だ。迷ったりしない。しばらく歩くと小さな切り株の上に力を無くしたように座るトリニティを見つけた。
「トリニティ様!」
駆け寄ってトリニティの前にひざまずく。
「どうなさったのですか?一体何が・・・」
泣きはらした目と頬に再び涙が溢れるのを見て、プリンテュクスは自分の中になんとも言えないような感情が沸き立ってくるのを感じた。
「大丈夫・・・よ、ジャン。ほんの少し休んでいただけ。その内・・戻るから。だから・・心配しないで」
大丈夫じゃないだろう?ちっとも大丈夫じゃない。そんなに泣いているくせに・・・。
必死に笑顔を作ろうとするトリニティを見て、プリンテュクスは思わず彼女を抱きしめた。どうしてなんだ?なぜ君ばかりが辛い目に遭う?9年前誓ったのに。君をずっと守るって。
こんな事ならレオンハルトなんかに君を任せるんじゃなかった。あいつはいい奴だから、だから君を託せると思っていたのに・・・。そう信じたから、ボクはずっとトリニティを見守りながら彼を支えてきた。なのにどうして君はいつも泣いているんだ?
もういい。それならいっその事、ボクが君を幸せにする。君を守って側に居て、いつも笑わせてあげる。だってボクは今人間だから。人間の身体があれば、君と話せるし君にこうやって触れられる。もう我慢なんかしない。ボクは・・・ボクが君を攫っていく。
「トリニティ、トリニティ?」
泣き疲れて腕の中で眠ってしまったトリニティをプリンテュクスは抱き上げ、森の外を目指して歩き出した。
「レオン・・・様・・・」
涙を流しながらトリニティが小さな声で彼を呼ぶ。プリンテュクスはやるせなさそうに瞳を伏せた。そうやって夢の中でも君の心が求めるのは彼なんだね。
森の外へ出ると一人の若い護衛騎士が「私が・・・」と言いつつ手を差し出した。
「触るな!」
思わず叫ぶと騎士は驚いて手を引っ込めた。
「・・・いや、主の大切な人だから、私が運ぶ。乗ってきた馬を頼む」
そう言ってトリニティを抱き上げたまま馬車に乗せた。膝の上で力なく横たわるトリニティの頬にプリンテュクスはそっと触れた。
「トリニティ。こんなに君を泣かせた奴を、ボクは許さないよ」
その日レオンハルトが戻っても、トリニティは部屋に閉じこもったまま夕食にも出て来なかった。屋敷の使用人達に聞いても皆その原因は分からないと言う。ただトリニティが戻って来た時、ジャンが付き添っていたとケインズが言うので彼に尋ねてみたが、侍従は暗い顔をして「少しお疲れのようです。今日はそっとしておいて差し上げては?」と冷たく言うだけだった。
仕方なくレオンハルトは自室に戻り、アンティークのライディングビューローの前に座って今日買って来た指輪の箱をポケットから取り出した。箱の蓋を開くと紫色に輝く石がテーブルの上のオイルランプに照らされてキラキラと輝いている。それを見ながら小さくため息を付くと、レオンハルトはポツリと呟いた。
「喜ぶ顔が見たかったのにな・・・・」
翌朝、朝食に姿を現したトリニティだったが、何だか様子が変だと思った。化粧で隠しているが明らかに目の周りが腫れていて、げっそりしているようにも見える。昨日はあんなに楽しそうに出かけて行ったのに、何があったのだろう。心配して聞いてみたが、トリニティはにっこり微笑んで「何もありません」と言うばかりだ。後ろに控えているジャンを見ると、凍り付くような冷たい目で俺を見ている。一体何なんだ?
「トリニティ。今日は包帯を取るのだろう?俺も一緒に・・・」
「閣下!」
何だ?ものすごく怒りに燃えた声が後ろから響いて来たぞ?
「昨日一日出かけられたせいで、仕事が山のようにたまっております。ええ!もう!ホントに!山のように!!・・故にトリニティ様は私が責任を持って見ておりますので、閣下は今日はお仕事をなさって下さい。宜しゅうございますね!」
本当に昨日一体何があったんだ。俺が何かしたというのか?
益々訳が分からず頭を抱えるレオンハルトだった。




