Act.11
<Act.11 4/21(水) 1:35>
【仄宮秋流】
いつになく、酷く曖昧な夜だった。
『――――初めまして、と言っておきましょうか』
暗闇に覆われていた視界が、声と共に少しだけ開かれる。知らない、女の声。反射的に彼我の問いを口にしようとして、自らはあくまで招かれし賓客に過ぎず――――これはあくまで夢に過ぎないと知る。
世界はぼんやりとしていた。おそらくは声の主であろう女――――少女の姿と、その背後の調度品が輪郭も淡く見えるのみで、それ以外は全て黒に塗りつぶされている。視界も固定されていて、お前にはそれ以上を見る権利などない、そういわんばかりだった。
『ようこそ、わたくしの館へ。一万と五千三百四十七回目の仄宮秋流、何度繰り返そうと一切変わり映えのないその姿と心根には、一周回って感嘆すら覚えますわね』
実際一周どころではないのですけれど。そう告げ、少女はくすくすと品良く笑った。そのあまりにも無遠慮かつ謎に満ちた言葉に、覚えるはずの怒りすらも昂る端から霧のように融けて消えていく。夢、だからだろうか。
そして調度品だけではない。明瞭であるべき彼女の姿すらも、ここでは朧げだった。白く華奢な肩に一房の三つ編みが伝うさまは匂い立つような淫靡さを纏わせてはいるものの、肝心の表情はと言えば目元が暗闇で覆われているせいで判然としない。微かに見える唇には紅が引かれ、否応なしに万人の視線を惹きつけるそれが浮かべるのはしかし、瞳が見えずとも明白に映る、貴族然とした優美さの中に濃密な毒を孕んだ艶やかな笑みだった。
そんな絶世の美貌と称しても何ら異論のない容姿の中で、一際違和感をもたらすのは波打つ薄紅の長い髪の中に垣間見える一対の羊の角だった。少女のようで女の香を放つ肉付きと同様、その角は完成された傾城にある種のアンバランスさを与えていた。
さながら薔薇が雑草を見下すように。彼女はその蛾眉を崩すことなく滔々と語る。
『今回もまた始まりましたわ。ここまで続くとは思っていませんでしたし、流石に終わりにしてほしいところですわね。とはいっても、貴女のような出来損ないに期待するほうがどうかしているのかもしれませんが』
告げつつも厭わしげに溜息を吐く。そのたった一連の動作でさえも、どこか浮世離れした高貴さをうかがわせた。
『けれどこの事象は貴女が始めたもの。であるからには、貴女にしか終わらせることはできない。主役である貴女に、この舞台を降りる権利はないの』
人影がこちらに視線をやる仕草を見せた。口元はいかにも傲慢そうに開かれ、視線の先へと命ずるように声を響かせる。
『第一は大前提、わたくしに辿り着くことですわ。そのためにはまず、貴女は努力から始めるべきですわね。零れかけているものを掬う努力を。救う努力を。ええ、それが貴女を導くでしょう。望むと望まざるとに関わらず、ね。
……あらあらわたくしとしたことが、少々親切にしすぎたかしら? 今宵はこの程度にしておきましょうか。それでは仄宮秋流、良い 夜を』
刹那、紅が妖しく煌き――――そして、視界は暗い闇に閉ざされた。
意識が緩やかに落ちていく中で、好き勝手放たれた言葉の記憶はするりと抜け落ち――――やがて、無意識の海に沈んでいった。
*
<4/21(水) 8:00>
ジリリリリリリッ バンッ
朝である。
「……、……」
カーテンの隙間から差し込む朝日に目を灼かれ、枕元で喧しく騒ぎ立てる目覚まし時計を一発で黙らせたあと、数秒してようやく私は起き上がった。
「すっげぇ腹立つ夢みた……」
気がする。
夢を見たとはいっても実質覚えているのはそれだけであり、内容など記憶はないに等しい。かろうじて何かの紅の瞳がぼんやりと印象に残るのみだった。少なくとも人ではあっただろう、しかしその持ち主が男か女かさえ覚えていないというのは……まあ、夢だから仕方ないといえばそれまでだった。
がしがしとぼさぼさの黒髪をかき、万年床と化している布団を剥ぐ。襖の向こうからは四日目にして既に耳に馴染んだ生活音が聞こえた。
「ッづ、」
身をよじった瞬間、ずきりと傷が悲鳴を上げる。寝起きの頭が強制的に覚醒を促され、そういえばと昨日の戦闘を思い出す。扶桑に抉られた脇腹の傷。軽傷ではなかった。少なくともたった一夜体を休めただけで普段通りの行動ができるほど、すぐ治るようなものではない。
「おい秋流、起きているんだろう? 早く顔を洗って来い、飯ができてるぞ」
「どっちが家主だよ……」
物思いをいとも容易く絶たれ、嘆息しながらも立ち上がる。まあ、朝食も摂っていないガス欠の頭で考えようとしたところでロクな結論は導き出せまい。おとなしく襖を開け、朝であるにも関わらずどこにも乱れや隙を感じさせないにこやかなベルンハルトを横目に洗面所に向かう。
顔を洗いがてら、ふと鏡を見る。寝間着の隙間、首元には何かに噛まれたような傷が小さくだが未だに残っていた。何かというのはもちろん言うまでもなくあの吸血鬼のことだろう。所有印、と称したキスマーク自体は消えているものの、何故か彼の吸血痕だけが残り続けていた。
全くもって、忌々しい。そう思いつつもとりあえずは自室に戻り、制服に着替える。ブラウスとスカート、ベージュのカーディガンと黒のブレザー。遥に渡されたスペアのものだが、情報屋だからといって個人の服のサイズまで知っているのはなかなかキモいと思う。後が怖いので口に出しはしないが。
食卓の上にはしっかりとした朝食が並んでいた。炊き立ての白米に味噌汁、焼き鮭とスーパーに行ったときに買ったのかささやかな漬物まである。もそもそと口に含みつつ、
「……なあ」
「なんだ」
「昨日の傷がもう塞がりかけてる。これも“聖杯”の力か?」
一拍。
「そうだろうな。俺たちは“聖杯”を守る者だ、“聖杯”も――容量を鑑みればほんの僅かと言わざるを得ないが――俺たちを守っているのさ。“聖杯”という、馬鹿みたいに馬鹿でかい魔力炉を宿して俺たちの体が哀れ爆発四散見事な肉塊にならないのがいい証拠だ」
「……食事中なんだが」
「もりもり食べながら言っても説得力はないぞ。それに今更気にするほど繊細でもあるまい?」
「るせ」
茶を一口含み嚥下し、もののついでだと再び口を開く。
「そういえばお前、“聖杯”を分割つって簡単に言ってくれたが、実際どうやったんだよ、ソレ」
よく考えなくともこれほど不思議なこともあるまい。心臓に宿るという“聖杯”、物理的ダメージを与えれば守護者もろとも破壊されるというそれを、コイツは一体どんな手段を用いて私に移したのか。まさかそんな、エグって割って開いてブチこむみたいな現代医学も真っ青な力技でやったわけではあるまい。……まさかあるまい。
「“契約”だよ。まさかそんな、エグって割って開いてブチこむみたいな力技を想像したわけでもないだろう」
「……」
「自分の身だぞ、分からないからといって想像するなよ……お前の首筋の痕、そうそれだ。戯れのためだけに屍体につけたとでも思うのか? 吸血鬼らしく、血を吸って、与えたのさ。そうすることで、お前の身体を“聖杯”の器として作り替えた」
お前の身体は生前と同じようでいて、実は細胞の一つに至るまで全て別物なんだ。その言葉に、私は首筋をさすっていた手を止めあからさまに顔を顰める。
「……まるで細胞から何までお前のモノになったみたいで腹が立つ。一発殴らせろ」
「お断りだな。そうだったらどんなにいいことか。正確に言うなら俺のモノではなく、“聖杯”の力で作り替えた、“聖杯”のモノだからな。俺もお前も」
愉快そうに笑うと、奴は空の食器を器用に持ち上げ台所へと運んでいく。そしておもむろに時計に目をやり、「なあ」と一言。
「ンだよ」
「もう半だが、大丈夫なのか? がっこ」
う、と言い切るのを聞く前に、既に私の手は弁当と鞄をひっつかんでいた。すぐさま玄関へダッシュ、しようとしたところで、件の高身長が阻む。
「……ンだよ」
「言うべき言葉を聞いていないな」
にっこり。輝く笑顔に舌打ちするものの、こんなところで問答している暇はない。仏頂面で、
「…………ご馳走様でした」
「行ってらっしゃい」
勢い良く開け放った玄関扉の閉まり際、にこやかに手を振る吸血鬼の姿がとても憎らしかった。
<4/21(水) 12:40>
【ベルンハルト・レヒト・シャルラハロート】
朝に秋流を見送り、買い物から帰れば時刻は既に昼を回っていた。これから昼飯を作るとなると少し遅くなるだろうなとか、学校に行っている秋流はどう過ごしているのだろうかとか、諸々を考えながらエレベーターを待つ。
そう、秋流、秋流だ。仄宮秋流。
正直に言って、まだよく分かってはいない。いないのに、なんとなく彼女には――――“馴染み”がある。
彼女とは初対面のはずだ。そもそもドイツと日本、接点があろうはずもないし、万が一あったとしてあれほどの美人を記憶していないなどと俺の男としてのプライドが許さない。ゆえにその可能性だけは絶対にない。だがそれならば、この奇妙なまでの溶け込み方は一体なんだ。
俺と秋流、彼女との出会いは最高に好ましいものではないという自覚は一応ある。だからこそそれがこうして共同生活を送るにあたって、最初は喧嘩も多かろうと踏んでいたのだが――――蓋を開けてみればなんということはない、口慰みの域を出ない軽口こそ寸暇を惜しむ勢いで叩きあっているものの、逆を言えばそれ以上の軋轢は今のところ全く存在しない。
単に『まだ生活し始めて四日』と言い捨てることはできよう。しかし、まるであらかじめお互いの地雷をわかっているようで――――歯に衣着せぬ物言いをしながらそれでも何か、綺麗すぎるほどに整った会話をしている気持ち悪さというのは、簡単に拭い去れるようなものではなかった。
考え込んでいる間に、エレベーターが「チーン」という音を立てて到着した。乗り込んで五階のボタンを押し扉が閉まりかけたところで、女性の「乗せてくださぁいっ」という声とそれに付随する二人分の足音が響いてきた。脊髄反射で「開」を連打する。
慌ただしい足音を立てて滑り込んできたのは、妙に華々しい装いをした女性、というより少女と、彼女よりも幼いであろう金髪の少年だった。少年の方は十代前半くらいだろうが、少女の方は予想がつかなかった。少女と言い切るにはその開いた襟元から覗くそれは豊かすぎるし、かといって女性と呼ぶには一息つくその横顔が少し無防備すぎる。
「……何階だ?」
「……五階です」
年の割に大人びているのか、少年の方が答えた。無愛想というよりは表情の変化に乏しいというべきだろう、にこりともしない。反面、少女の方はにっこりとあどけない微笑みを浮かべて俺を見上げた。
「ありがとうございます、優しい方」
「礼には及ばないさ。お前たちは姉弟か何かか? あまり似ているようには見えないが……」
「ええ、よく言われます。私はヒステリカ・アルトシュタイン、こちらが弟のレンです。レン、ご挨拶を」
促され、少女の後ろに佇む少年が一歩前へ出、無言でぺこりと一つ礼をした。それは年端もいかぬ子供にしては妙に自然な動作で、逆に違和感を想起させるものだった。だがまあ、見知らぬ他人にそこまで突っ込む権利などありはしない。
「私たち、つい最近ここに引っ越してきたばかりで……だからその、まだあまり知り合いもいなくて」
「奇遇だね、俺もこの間ここにきたところだ。色々と訳あってドイツからさ。……君たちも外国からか? あまりここの人間たちの顔立ちとは似ていないようだが」
二人は非常に整った顔立ちをしていた。秋流のそれは剣呑さの目立つ抜身の刃のような美しさだが、二人の、とりわけヒステリカの顔立ちはまださしたる齢でもなかろうに既に完成された芸術品のような美貌だった。完璧な均整と黄金比を持ち合わせた絶世の麗しさとでも言おうか。少年、レンのほうもそれに劣らない白皙で、笑わないそれがまた逆に怜悧さを引き立てている。どこか現実と乖離した風のそれらは、帝国の名を持つこの島国の外、俺と同じく蒼々とした海原のその先の匂いを漂わせていた。
「はい。私たちも少々訳がありまして……イタリアから渡ってきました」
どこにもほつれや乱れの窺えない豊かな桃色の髪が電灯を受けてきらきらと光る。イタリア、イタリアときたか。
「枢軸とはいえ、君たちの国は早々に降伏したろう。よく渡ってこれたな」
日独伊三国同盟、それが締結されたのは百年と少し前。だがイタリアはその三年後に降伏を迎え、反面俺の祖国ドイツやこの大日本帝国は最後まで戦い抜いた過去がある。イタリア人に対するこの国の人々の心証は如何ほどのものか。
ただまあ、同じ西洋人とはいえ、イギリス人やアメリカ人に比べればマシであろう。連合国の人々は未だこの時代でも排斥される傾向がある。百年たって彼らが何をした――――という特別な理由があるわけではない。ただ、戦時中から連綿と続く憎悪の連鎖が、人々の心の根底を蔦のように這い束縛しているのだろう。
それは何も、この国の人々に限ったことではない。俺たち吸血鬼のように、人里離れた山奥で世俗との関わりを絶って暮らしてきた者でなくば、どこの国の人間だって同じようなものだ。ただそれでも、この国の人々のそれはやはり格別なのだろう。
「ちょっとした裏技がありまして。正規のルートでは流石に目立ってしまいますから、ね」
にこ、と少女が悪戯っぽく微笑む。こんなに無垢で爛漫に見える少女たちに、わざわざ非合法ルートを用いてまで渡ってこなければならないほどの事情があるとはにわかには信じ難い――――が、ここは奇奇怪怪なものが有象無象と集まる龍脈の地だ。ありえないなんてことも、ないのだろうとは思う。
「そうか。ああ、俺が名乗るのを忘れていたな、失敬した。俺はベルンハルト、502の住人だ。基本的に家にいるから、何か困ったことがあれば言うといい。微力だろうが、力になろう」
「いいんですか? ありがとうございます。やっぱり、心細かったですから。嬉しいです」
と、ちょうど「チーン」という音を立てて五階に到着した。行きも使ったが、どうもこのエレベーター、旧式らしい。まるで鈍行列車だった。
扉が開き、二人を先に降ろしてやる。504号室の前でヒステリカが一度振り返り、「それでは」と軽く頭を下げた。
それに俺も手を緩く振り返すことで応えてから家に入る。今頃ここの家主は何をしているんだろうと思いを馳せつつ、空気を入れ替えようと窓を開ければ、東の方から潮風が香った。