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79 勘違いしていた

「おはよう不知火君」

「流世、遅刻だぞ。お前の分のプリント確保しといた」

「ありがとう。良かったら火曜の社会思想史のレポートを見せてほしい」

「ほらよ。……最近、顔色が優れないけど大丈夫か?」


 一限の講義が始まって三十分は経過していた。プリントとUSBメモリを渡してくれた不知火はその強面に不安げな表情を浮かべて僕を小突く。


「平気だよ。昨日も飲み会があってさ」

「飲みすぎんなよ」

「そうはいかない。飲まなくちゃ楽しくないからね」

「流世がそう言うなら……」

「あ、ごめん、気分が悪いからトイレ行ってくる」

「……待てよ流世。なあ、本当に大丈夫か? 無理をし」

「平気だって」


 不知火の言葉を遮り、僕は着席して秒のうちに席を立つ。

 大講義室で行われる全学部共通の講義では雑談も遅刻も多いが、さすがに来て早々に退席する輩に対しては教授も厳しい目を向けてきた。

 けど僕は堂々と歩いて教室を出る。それくらいの無茶は大学生ならやって当然だ。これくらい不真面目な方が大学生らしい。


「さすがに飲みすぎた。……キツイ」


 二日酔いで痛む頭を抱えてトイレに駆け込む。個室に入り、扉を閉めた途端、崩れるようにして倒れて便器に顔を突っ込んだ。


「でも、期待に応えなくちゃいけないんだ」


 便器に溜まった水に黒い影ができる。よく見えなくても、自分がどんな顔をしているのか分かる。

 それでもやめることは出来ない。これが大学生なんだ。僕が望んだ大学生活なんだ。


 もっと、もっともっと飲まなくちゃいけない。騒がなくちゃいけない。じゃないと茉森さんは僕を見てくれない。

 覚悟を決め、口の中に指を入れる。






「おえええぇええ……!」


 喉が焼けるように痛い。口の中、胃の中、頭の中、どれもこれもぐちゃぐちゃでボロボロ。体が内側から壊れていく。このまま気絶した方が楽だとさえ思う。


「ご馳走様が聞こえない!」

「もっと飲めや~」

「水瀬は? また吐きに行ってんの?」


 トイレの個室にも聞こえてくる同級生の賑やかな声。

 この程度でダウンしている場合ではない。一通りざっと吐き終えたなら立ち上がるんだ。戻ればみんなが歓迎してくれる。あの人が期待して待っている。


「水瀬ただいま帰還しました!」

「おぉーさすが流世君! 帰還祝いに、イッキしよー!」

「飲みまーす!」


 テーブルに片足を乗せて大きなジョッキを一気に呷る。これで何杯目だろうか。覚えていない。

 飲み干して僕はその場に倒れる。お皿や箸が吹き飛び、周りが騒ぎ立てる。


「危ねーな。飲みすぎだろ水瀬」


 飲みすぎだ。言われなくても分かる。

 視界が歪み、ぼやけた挙句に黒い点が浮かぶ。吐いたばかりなのにまた吐き気が襲いかかる。飲んだばかりのビールをそのまま吐き出してしまいたい。


「け、けほ、確かに限界……」

「限界は超える為にあるんだよ流世君」



 視界も胃も何もかもが限界を超えている。吐いたのは何度目だろう。覚えていない。

 それでも、彼女を見れば全てはどうでもよくなる。彼女だけは僕を見て笑っているんだ。


「まだビールはたくさんあるよ。流世君も飲みなよ~」

「う……げほ、げほ……」


 茉森さんは学科一の人気者。飲ませ上手だった。大量にお酒を飲まないと楽しくないじゃん、と言ってビールを渡してくる。


「ほらほら、もっと盛り上がらないとさ」


 そう言って笑う。その彼女の笑顔は僕だけのものではない。誰に対しても隔てなく向けられて、誰からも愛される存在。


「おいおい茉森、飲ませすぎだっての」

「平気へーき。ね? 流世君。アタシと流世君の仲でしょ?」


 独り占めしたかった、とまでは言わない。ただ、見てほしかったんだ。笑ってほしかったんだ。

 僕がビールを飲み続ける限り、この人は僕を見てくれる。そして次の一杯を注いでくる。


「ねぇ。流世君」

「……任せて! 僕はまだイケるよ!」

「おっ、さすが流世君!」


 飲む度に体調が悪くなる。飲み干すビールの味は苦いだけ。苦しくて仕方がない。


 それがどうした。飲むんだ。飲むしか選択肢はない。期待に応えたい。茉森さんに笑ってほしい。

 僕の価値は飲むことでしか証明出来ない。ビールが飲めないと彼女は笑顔を向けてくれないのだから。


 僕は渡されたビールを傾け、顔面から浴びるようにして飲み干す。






「流世君、今日もめちゃ飲みに行こー! 明日も明後日も、一緒に飲もーね!」


 僕の名前を呼ぶ。飲み会に誘ってくれる。彼女は僕を変えた。世界を変えた。

 僕が望んでいた大学生活を、教えてくれた。


 楽しかった。茉森さんと一緒にいられて、そして華やかな大学生活。

 飲み会終わりの真夜中に街中で騒いだ。アパートの前で吐いた。飲み会以外にも大学構内で同級生と遊んだ。食堂で席を占領して延々と駄弁った。


「はいビール。流世君、飲んで!」

「うん! 茉森さんの為なら何杯でも飲むよ」


 毎日のように行われる飲み会。無茶苦茶な飲み方。ぐちゃぐちゃな胃の中。

 飲み続けた。飲んでは吐いて、叫んでは暴れた。下劣で下品、馬鹿な大学生そのもの。

 それでいて、充実していた。僕も人並みに楽しめるようになれた。


 何杯でも飲もう。不味くてもビールを流し込もう。そうすれば学科の友達は盛り上がる。何より茉森さんは笑ってくれる。僕の傍にいてくれる。


 飲み続けるんだ。彼女が笑い続ける限り。ずっと、これからも。











「お前、いい加減にしろよ」


 胸ぐらを掴まれた。

 意識が戻った時、ぼやける視界に映っていたのは、男子の顔。そして他の友達の顔。

 全員が僕を見て顔をしかめていた。


「え……何が……?」


 騒がしいはずの飲み会が静まり返っている。全員が僕を睨みつけている。

 みんなどうしてそんな顔を……。


「やりすぎなんだよお前は。見ろよ」


 掴まれた胸ぐらを突き飛ばされて僕は床に叩きつけられる。

 床の上には割れたお皿とグラス、散らばった料理。


「全部、酔っぱらったお前がやったんだぞ。何してんだ」

「僕が……あ、あはは、まあいつものことだよ」

「ああそうだな。いつもだ。いつもウゼーんだよ」



「陰キャのくせに」



 おかしい。何かがおかしい。

 いつもなら、普段の飲み会なら、みんなで盛り上がっていたのに、どうして僕は怒られているんだ。どうして僕だけが……?


「え、え、何、どうして怒って……ぼ、僕だけじゃないでしょ。みんなだって一緒になって暴れて……」


「俺らはいいんだよ。飲みすぎずに暴れている。お前は違う」

「ちょっと優しく歓迎してやったのに調子乗りすぎだろうが」

「陰キャは陰キャらしくしていろって。ウザイんだわ」


 途端に男子達が僕を責めてきた。一緒に笑って飲んでいた人達が怖い顔をして僕を取り囲む。


「お前、茉森に見てもらいからって必死すぎなんだよ」

「茉森さん茉森さんって連呼してよぉ、せっかくみんなで盛り上がってんのに邪魔するな」

「茉森のことが好きでアピールしてんのキメェんだわ」


 何が起きているのか理解が追いつかない。誰も笑っていない。全員が怒っている。僕に対して辛辣な目をぶつけてくる。


 僕が気絶している間に何が起きたんだ。僕は暴れていたのか?

 違う。たとえ僕が泥酔して暴れていたとしても、それは他の人も同じだ。いつもそうやって一緒に楽しくやってきた。


「調子に乗るんじゃねぇ」

「お前ウザイんだよ。目障りなんだよ」

「陰キャのくせに」


 な、なんで。どうして。意味が分からない。分からないよ。なんで。待ってよ。

 僕らは友達のはず。どうして僕だけが。



 僕が、陰キャだから……? 


 僕だけが非難されているのは、他の人達が僕を責めているのは、彼らは特別だから……。


「俺ら全員に謝れよ。お前のせいで飲み会が台無しだろうが」


 頭が痛い。体内のアルコールが気持ち悪い。吐きまくった喉が焼ける。息が出来ない。

 それ以上に苦しかった。今、目に映る光景が信じられなかった。


「謝れよ」

「クソ野郎」

「自惚れんなよ。茉森に迷惑をかけんな」


 苦しくなる。酔いよりも意識を締めつける現状が怖かった。いつも笑い合って和気藹々としてきたメンバーの顔が恐ろしかった。


「ま、茉森さ……」


 誰もが僕を睨みつける。けど、あの人は。あの人だけは……。

 縋る思いで彼女を見る。助けてくれると思った。

 目が合い、彼女は立つ。




「アタシ、ただみんなで飲みたかっただけなのに」


 その時の茉森さんは……笑っていなかった。


「流世君、どうして変なことするの?」


 笑っていた。僕と一緒にいてくれた。数々の思い出。僕にとってはかけがえのない最高の日々。

 その笑顔が僕に対してだけ向けられていたものではないと知って、見てもらいたくて頑張ってきた。彼女の為に。茉森さんが笑ってくれるから。



 現実を思い知らされた。



 特別な想いを持っていたのは僕だけだった。僕は勘違いしていたんだ。


「流世君ちょっとしつこいかも。アタシはそんな気なかったんだけどなぁ」


 茉森さんにとって僕はただの同級生。二人で遊びに行ったのも、お喋りしたのも、ただの気まぐれ。


 僕がどれだけ想いを抱いても。彼女の為に飲み続けても。全ては無意味。茉森さんは僕のことをどうとも思っていなかった。

 それどころか僕は邪魔者。この飲み会で、学科のみんなの、のけ者。僕は彼らのようになれない。華やかな生活は手に入らない。勝手に僕がなれたと勘違いしていただけ。


「あのさ、もうアタシに話しかけないで」


 飲むことでしか価値がない。違った。僕は元から価値がなかった。彼らにとって僕の存在は無価値で、茉森さんにとってどうでもいい存在だった。

 だって僕は所詮、陰キャの根暗野郎なのだから。

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