78 あの人の為に
大学生になれば世界が一変する。
一人暮らし。膨大な自由。住が整って衣食は思うがまま。空っぽの部屋に雑巾をかけて、新品の家具を搬入して、積み上げたダンボールを眺め、やること全てに胸を躍らせた。
高校ではボッチだった僕でも人並みに楽しめる気がしたんだ。
そんなことにはならなかった。
オリエンテーションが終わって最初の講義が始まる頃には既にいくつものグループができあがっており、僕は置いていかれた。誰とも話せず、和気藹々とする同級生を傍観することしか出来なかった。
高校時代と全く同じ。いや、それ以上に孤独。あっという間に仲良くなった彼らを見て余計に虚しかった。
「よお流世。今日もボッチか」
「お、おはよう不知火君」
「俺のことは葱丸と呼べ」
唯一の話し相手は別学部の不知火のみ。
「入学してもうすぐ二ヶ月が経つな。慣れてきたか?」
「それなりに。未だに学部で話せる人はいないけど」
「俺もだ。大学生になれば気の合う奴に出会えると思ったんだがな」
「そう上手くはいかないね……」
大学生になれば世界が一変する、なんてのは願望に過ぎない。思い描いていた大学生活は手に入らなかった。
「ま、俺は流世と出会えただけで十分だ。俺はいつでも暇してるから遊ぼうぜ」
「あ、ありがとう」
「あ? まだ俺にビビッているのか? 人は外見じゃないぞ。そう言ってくれたのは流世だろ。気長に待つからいつかは葱丸と呼んでくれ」
「不知火君は僕を買い被りしすぎな気が……」
「俺は流世に助けられた。困ったことがあったらなんでも言え。じゃあな」
週に何度か同じ講義を受けることがあり、その際は会話するけどそれ以外では会わなかった。不知火は良い奴だが、いくら仲良くなろうとも違う学部では話す機会は多くない。
「今からサークルに入ろうにもタイミングが……はぁ……」
今思えばサークルや部活に入っておけば良かったのにと思う。
何か行動をしなければ。受け身ではなく自分から進まなくては。分かっていても、当時の僕には誰かに話しかけることやグループの輪に入っていく勇気がなかった。どうすることも出来なかった。
願うだけで行動を起こさない。そりゃボッチになって当然だ。
このまま四年間を寂しく過ごしていくのだろうか。一年生の前期の時点で僕は落胆していた。
「ねーねー、同じ学部の人だよね?」
人並みに楽しい生活が送れると思っていた。願っていた。
行動に移せないからこそ、願うことしか出来なかったからこそ、話しかけられたのがすごく嬉しかった。
「え? え、えっと」
「アタシは木葉茉森。よろしくね!」
とある講義。僕の隣に座ったのは笑顔がとてもよく似合う華やかな女子大生。
「あ、え、えっと、その、ぼ、僕は水瀬流世です」
「流世君ね。オッケー! 同級生なんだし敬語使わなくていいよ。アタシのことは茉森って呼んでね」
「う、うん。茉森、さん……?」
「はい茉森ですよ! あっ、それでね、次の講義って基礎セミナーじゃん? 課題やった?」
「あ……ま、まだ」
「じゃあ一緒にやろーか!」
第一印象は笑顔の似合う女の子。気さくに話しかけてきた彼女の勢いに圧倒された。
講義を聞かずに二人でコソコソと他の課題を内職した。些細なことだけど僕は今でも覚えている。あれが僕と茉森さんの出会い。
華やかな女子大生が僕に話しかけてくれたんだ。
「これからは一緒に受けよーね! あ、連絡先教えて」
「う、うん」
「へー、流れる世界で流世って読むんだ。カッコイイね」
「そうかな?」
「めちゃカッコイイよ! あ、それでねそれでねっ」
彼女からすれば僕は同じ学部の人。ふと見かけたから話しかけてみた。それだけのことだったのだろう。
でも僕は嬉しかった。グイグイと話しかけてくる茉森さんが、笑ってくれる茉森さんがすごく良い人に見えた。目を離した隙にコップの中の氷が溶けていたかのように、気づかないうちに仲良くなっていた。
明るい笑顔、快活な声。僕は惹かれていった。
「最近、楽しそうだな」
「え、そう?」
「おう。会う度に流世がニヤニヤしている。恋人でもできたか?」
「か、彼女じゃないけど……仲良い女子はいるかな」
「マジか。俺を置いていくなよ」
「あはは」
茉森さんと出会ってから毎日が充実していった。同じ講義で話すのが楽しみだった。
「俺とも遊べよ。あ? 今から暇か?」
「この後は予定がある」
「流世の付き合いが悪くなってきた……」
「ご、ごめんて。じゃあ僕は行くね」
「おう。まあ、お前が楽しそうで何よりだよ」
不知火と別れて、すぐにスマホを見る。向こうも講義が終わったのだろう、連絡が来た。それが嬉しくて仕方ない。頬が緩んでしまう。
彼女が笑い、僕も笑う。とても、すごく、幸せだった。
「流世君、こっちこっち!」
「ま、茉森さん引っ張らないで」
茉森さんは常に笑顔でいつも明るかった。僕の手を掴み、あっちへ引っ張りこっちへ連れていったり。
「ここの公園って有名なんだよ。木がのぉほど生えているんだ」
「茉森さんって自然が好きなの?」
「普通」
「ふ、普通なんだ」
「でも流世君と一緒に歩くのは好きだよ」
手を握る。笑顔を振りまく。好きだと言ってくれる。
いつの間にか仲良くなっていた。茉森さんと一緒にいる時間が楽しくて仕方なかった。
「川が流れてる。石の上を渡ってみよー」
「えっと、危ないよ?」
「大丈夫だいじょー……流世君ヘルプ! 手を貸して!」
「ほ、ほらー」
「倒れちゃう。めちゃんこピンチ!」
「あ、あはは……はい、手」
「ありがと!」
僕に居場所をくれた、僕の傍にいてくれる、そんな茉森さんが次第に好きになっていった。
世界が一変した。茉森さんが変えてくれた。世界ごと僕を変えてくれたんだ。
「無事に渡れた」
「僕の片足は川に沈んだけど……」
「ごめんごめん、流世君と一緒にいるのが楽しくてついはしゃいじゃった」
「いいよ。僕も楽しいから」
「渇くまで日向ぼっこしよー」
「うん!」
何気ない会話や、遊んだり、お散歩したり、色々なことをした。その全てが楽しくて幸せだった。
茉森さんがいない世界には戻れない。それくらいに、これからもずっと一緒にいたいと思った。
「流世君、今日の夜は暇?」
「空いているよ」
「それなら丁度良かった! 飲みに行こーよ」
「飲み?」
「流世君もしかしてビール飲んだことないの?」
「え、だって僕らまだ一年生……」
「ふっふっふ、流世君ばげぇに古いね。大学生といえば飲み会じゃん!」
「そ、そうなんだ」
「そーそー。流世君にも来てほしいな」
「う、うん、行くよ!」
茉森さんと一緒ならどんなことでも楽しい。だから大丈夫だ。
「楽しみ! 学科のみんなで飲むんだー!」
「学科のみんなと……?」
その時の僕は気づいていなかった。
茉森さんが仲良くしてくれるのは僕だけじゃなかったことを。彼女の明るさと優しさは誰にだって向けられていたことを。
茉森さんは学科一の人気者だったんだ。
「みんなどんどん飲んでこー! はいグラス空いてるよ~!」
「茉森マジヤベー! ビールはやめろって」
「やめない! はいイッキ!」
「ところで茉森、CD返すのまだ?」
「あ、ばり忘れてた。あとで取りに来て」
「俺が行くのかよ。じゃあ二次会はお前の部屋で宅飲みな」
「オッケー!」
初めのお酒。初めて来た学科の飲み会。
そこで見たのは、普段と変わらない笑顔。僕よりも仲良さげに男子達と話し、輪の中心で満面の笑みでお酒を注ぐ姿を見て気づかされた。
「ヤベー、吐きそう」
「吐くならトイレ行けよ」
「眠て~。茉森、背中貸して」
「りょーかい。でも寝るのは一杯飲んでから!」
「うわー容赦ねー」
茉森さんは僕の世界の中心に立っているのではなく、みんなの中心に立つ人物だったんだ。
彼女を中心にして同級生達は盛り上がっていく。茉森さんを含む彼らの姿が華やかに見えた。僕が望んでいた大学生活を彼らは大いに楽しんでいた。
「流世君飲んでる? 全然減っていないじゃん!」
「あ、その……」
「ばんばん飲もーね。飲まなくちゃ楽しくないよ!」
茉森さんの笑顔は僕に対してだけ向けられていたものではなかった。
それでも、僕は戻れない。戻りたくない。彼女なしの世界を考えられなくて……。
「う、うん……飲むよ」
注がれた飲み物を口に流し込む。喉を刺す、苦い炭酸の味。飲み込むと気分が悪くなり、すぐに吐き気が襲いかかる。
「良い飲みっぷりだね流世君!」
ビールを飲む僕を、茉森さんは見てくれた。喜んでくれた。
この人の為になら。逆に言えば、飲まないとこの場に僕の居場所はない。
嫌だ。傍にいてほしい。一緒にいたい。
飲めば見てくれる。笑ってくれる。頑張れば僕も彼らのようになれるかもしれない。茉森さんは僕を見てくれるんだ。
「その調子でめちゃ飲もー!」
「……うん! 僕に任せて!」
それが、僕が初めて飲んだビール。その味は、ただただ苦くて不味かった。
それでも、僕は飲み続ける。
望んだ大学生活が手に入るなら。何よりも、大好きな茉森さんが喜んでくれるのなら。僕はいくらでも飲んでやる。この不味いビールを、何杯でも。




