77 一年前
夏の後を追うようにして秋は過ぎ去っていく。つい最近までしぶとく空に居座っていた太陽は早々に沈んでしまい、空も建物も暗闇に包まれる。
経済学部棟の裏。誰もいない。誰も来ない。僕は一人、ベンチに座って手に缶ビールを持つ。
「もう気にしない。そうしようと決めたのにね」
プルタブに指をかける。力を入れて音を立てて、じわじわと炭酸が抜ける音は途中で止まる。いつもやってきた缶ビールの開封を、出来ないでいる。
そうして辺りはさらに暗くなっていく。寒くなっていく。僕は一人、冷たい缶を力なく握りしめる。
もう気にしない。決めたのに。誓ったのに。いざあの人と言葉を交わした途端に体の奥底から溢れる思いを抑えられなかった。
溢れるあの頃の気持ち。一緒にいた時間。嬉しかった。楽しかった。好きだった。
そう思っていたのは僕だけ。
自惚れてはいけない。惑わされてはいけない。分かっているはずが、あの笑顔を見ると心をかき乱されてしまう。楽しいと思ってしまう。
「あの人が優しいのは僕に対してだけじゃない。勘違いして痛い目に遭って、覆ることのない現実を叩きつけられた。それなのにまた同じ過ちを繰り返そうとしている。……みんなの言う通り、僕は本当、キモイ奴だ」
同級生の嘲笑う声が脳に響く。木葉さんの笑顔が心に突き刺さる。
情けない。惨めだ。脳でも心でもうんざりする程に理解しているのに、この思いを止められない。今も溢れてくる。
茉森さんの眩しい笑顔が頭を離れない……。
「ねぇアンタ」
どれだけ長い間ここにいただろう。僕の前に立つ影が一つ。
「……金束さん」
いつの間にか現れたその人と、いつの間にか点いた電灯は暗闇を薄暗さへと変える。微かな光が彼女の姿を照らす。金を束ねたような髪が輝く。
僕の前には金束さんが立っていた。
「何しているのよ」
「……別に。ぼーっとしていた」
「私、アンタの家の前でずっと待っていたんだけど」
「ごめん」
「ふん」
普段なら荒々しくけたたましく怒鳴ったであろう彼女の一言はおとなしく、金束さんは僕の隣に腰かけた。
「最近、寒くなってきたよね」
「そうね」
「待たせてごめん」
「気にしなくていいわよ」
「早く帰れば良かった」
「気にしないでって言っているでしょ」
一言ずつの短いやり取り。温度は感じられず、何かを含んでいるわけでもなく、淡々とした言葉の投げ合い。
「アンタの手、冷たい」
「ずっと缶ビールを持っていたから」
「それだけじゃないわ。……そうでしょ?」
缶ビールを持つ僕の手に金束さんの手が重なる。缶の冷たさを吸い取った手に人肌の温もりが上書きされていく。
「水瀬、落ち込んでいる」
温度を感じない。何かを含んでいない。ついさっきまでは。
ただの会話じゃない。重なり合う手と手。触れ合う肩と肩。短い言葉の中に、今は温もりが込められていた。金束さんが僕を心配しているのが伝わってきた。
「……そう見えるだろうね」
僕は苦々しく頬を歪ませる。すると金束さんは表情に力を込める。
「あの女のせい」
金束さんが怒っていた。昨日と同じ、木葉さんにぶつけていた怒りを表情に出す。
「木葉さんが悪いわけじゃないよ」
「……あの女に何されたの」
「何も。何もされていないよ」
「嘘よ。じゃあなんで水瀬がこんなに……!」
「悪いのは全部、僕なんだよ」
金束さんが怒ってくれるのが嬉しかった。救われる思いがした。それは間違いない。一年前も、僕の為に怒ってくれた奴がいた。ネギ臭い友達に救われた。
嬉しいよ。それは間違っていない。
それでも、僕が被害者面をするのは間違っている。僕が苦しんでいるのは僕自身のせいなのだから。
「……聞いてもいいかしら」
話しなさい。普段の金束さんなら命令口調でそう言っただろう。
「らしくないよ?」
「アンタこそ」
「僕は元からこんなもんだよ。一年前からずっとね」
「……水瀬のことを知りたい」
いつもの不機嫌さも、先程まで見せていた怒りも消えた、金束さんらしくない表情と震える声。薄暗い空間、微かな電灯が彼女の整った輪郭を光の線で描く。
「水瀬は私の為に色々してくれる。いつも私のことばかり」
指先同士を絡ませる。指の先端で相手の爪をなぞり、関節をぶつけながら指の隙間に指を滑り込ませ、金束さんが僕の手をしっかりと握る。
「考えたことがなかった。どうして水瀬が一人でビールを飲むのか。どうしてそうなったのか」
持っていた缶ビールが落ちる。地面にぶつかり、音を立てて転がっていく。
僕の手は拾おうとしない。指を絡ませ合い、握り返す。
「水瀬のこと教えてほしい。水瀬が苦しんでいるのを見たくない。いつも優しくしてくれる水瀬を、私を助けてくれた水瀬を、今度は私が助けたい」
僕は何も変わっていない。過去を拭えていない。昨日と今日、木葉さんと話して痛感させられた。それは間違っていない。
でも、でもさ……少しだけ、ほんの少しでいいから言い直すのなら。
「そうだね。話してみようかな」
重なり、繋ぎ、絡ませ合う手に力を込める。転がっていく缶ビールから視線を外して彼女を見つめる。
「聞いてくれるかな」
「うん」
情けなくて惨めな自分を思い知らされた。木葉さんの笑顔が頭から離れない。
でも違うんだ。あの頃と今は違う。不知火だけじゃない。僕のことを見てくれる月紫さん。僕のことを心配してくれる金束さん。
傍にいてくれる。心配してくれる。そんな友達が、僕にもできたんだ。
「金束さんは大学生のノリが嫌いだよね。馬鹿みたいに、浴びるように飲んで暴れるだけの大学生」
「僕もその一人だったんだよ」
今でも鮮明に思い出す。
「下劣で下品、ビールの美味しさを知ろうとせず胃に流し込むだけ。そんな馬鹿な大学生の話だよ」
一年前の、あの日々を。そしてあの事件を…………。




