76 その笑顔に惹かれた その笑顔が恐ろしかった その笑顔が好きだった
男子トイレの個室の中。扉の向こうから話し声が聞こえる。
「そういや俺バイトで行けなかったけどこの前の学科飲みはどうだったん?」
「またあいつ飲まされまくった」
「いつも通りか」
同級生の男子達が話す。僕は息を潜め、僕のすぐ目の前には木葉さん。
トイレの個室に男女二人がいることがバレたら大変なことになる。ましてや木葉さんは学科一の人気者で、僕は学科一の根暗野郎。
彼らが出ていくのを待つしかない。な、なんでこんなことに……。
「しーっ」
静かにしよう、と小さな声で僕に呼びかける木葉さんは添えていた指を自身の両耳へと突っ込む。パッチリとした瞳を閉じ、唇を細く薄く結び、動かなくなった。
「飲ませてばかりで自分は飲まないんだよな」
「言えてる。可愛いから許されている感ある」
「分かる。あと清楚ビッチ感も強いよな」
会話に混じって聞こえてきたのは……あっ、そ、そういうことか。
木葉さんが耳を塞いだのはなぜか、何を聞きたくないのか、それを理解した僕も気まずくなってつい目を閉じてしまう。ま、まあ男子トイレだから仕方ないよね。
すごく気まずい。なんだこの奇妙な辱めは……。
「腹減った。一服したら飯食いに行こうぜ」
「レポートは?」
「明日やればいい」
「提出今日までだっての」
聞きたくない音が止み、代わりに水の流れる音が聞こえて少しだけ安堵。
このまま見つからずに彼らが出ていくのをあと少し待てばいい。頼む。気づかないでくれ。
「にしてもさっきの水瀬は可哀想だったよな」
「可哀想だった? キモかったの間違いだろ。茉森に話しかけられて動揺してたのウケたわ」
「言えてる。マジ笑えた」
……気づかないでくれ。そのまま出ていってくれ。僕のことをいくら馬鹿にしても構わないから。
「あ、俺今日は醤油濃いめ背脂多めでいくわ」
「やめとけ。お前先週、天一のこってりで腹壊したろ」
「るせー」
「あー地元のラーメン食いてぇ」
「ところで治験やらね? 三日で六万はデカイ」
「喫煙者は無理だろ」
「バレないバレない」
会話の内容はしきりなしに変わっていき、声は次第に小さくなっていく。耳を澄ましても足音は聞こえず、扉の外に人の気配はしなくなった。
……出ていったかな。無事にやり過ごせて良かった。
「木葉さん、もう耳を塞がなくて大丈夫ですよ」
「んにょ? なんて?」
「大、丈、夫、です」
「桃、白、白?」
「いやなんで世界一の殺し屋?」
分かりやすいよう口を大きく開いてみたものの一文字も伝わらなかった。
聞きたくない音はもうないから安心して、とジェスチャーで伝える。すると木葉さんは耳から指を離した。
「ヤバかったねー」
「……そうですね」
「ともあれ隠れることに大成功! 流世君とお喋りしたいから邪魔されたくなかったの」
「出ましょうか」
ここに隠れている必要はなくなった。モタモタしていると他の人が入ってくる恐れがある。早く出よう。僕は鍵に手をかける。
その手の上に、木葉さんの手が重なった。
「今出ても廊下を通る人に見つかっちゃう。しばらくは時間を置こーよ」
「……僕が先に出て廊下を確認する。それなら安全だ」
「おー、流世君でーれー賢いね」
「だから早く出よう」
「えー? ここなら二人で落ち着いて話せるし、ここにいよーよ」
「……どうして」
「あっ、アタシのことは気にしなくていーよ。男子トイレでも気にしないから」
どうして平然と手を重ねるんだ。あんなことがあったのに。僕と話す必要はないはずなのに。
「なんだかドキドキするね。いけないことしているみたいっ」
どうして。どうして僕に笑顔を向けるんだ……。
「また流世君がだんまりになってる! 話そうよ? アタシと流世君の仲でしょ?」
「……ふざけないでください。話す? 僕と? 木葉さんがそれを言うのはおかしい」
「アタシが?」
「一年前、自分が言ったことを忘れたの」
僕は忘れていない。忘れもしない。髄にまで染みついてこびりついて今でも鮮明に思い出す。今でも苦しい。苦い。
あの苦いビールの味。君が言い放ったあの言葉。
「もう話しかけないで。そう言ったのは木葉さんだろ」
もう話しかけないで。君はそう言って僕を突き放した。
「あの日、言われた通りに僕は木葉さんに話しかけることをやめた。この一年間、木葉さんのいる場所で口を開いたことは一度もなかった」
君の優しさと明るさに惹かれた。君と一緒にいることが楽しかった。僕も華やかな日常を送れると思った。
それは間違いだった。
勘違いしていた。
自惚れていた。
不分相応だったんだ。
だから僕は拒絶された。君は僕を見捨てた。
「僕は言われた通りにしてきた。それなのに……」
「えーと、一年前のことだよね? 昨日も言ったけどもうそれ終わったことじゃん。いつまで言っているの?」
冷淡でも辛辣でもない。ごく普通に、当たり前のように言い流す。
この一年間、溜めてきた辛い苦しい僕の思いを、木葉さんは呆気もなく言い流した。
「……」
「さーさー、蟠りもなくなったことだしガッツリ話そ!」
笑っていた。僕をまっすぐに見て、何一つ気にかけた様子もなくあっけからんと笑う。
木葉さんは昔、もう話しかけないでと言ったのに。僕が今、溢れる苦しい思いを言ったはずなのに。
微笑んで目元が垂れる。木葉さんの笑顔が恐ろしかった。
なんで、この人は……っ…………!
「あっ、また人が来た。流世君再び、しーっ」
笑顔と共に僕の唇に指を添える。添えた指を、そのまま自分の唇へと運ぶ。
風が吹く。木の葉が舞い踊る。彼女が僕の世界の中心に立つ。隔てもなく遠慮もなく僕をかき乱す行動と声、その笑顔。
僕は思い知らされた。何度も何度も決めたのに、苦しむだけだと知っているのに。
分かっている。分かっているのに。それなのに僕は……!
「っ、やめてくれ!」
「流世君?」
扉を開く。誰かに見つかってしまう。バレてしまう。もうどうでもいい。
今すぐ逃げたかった。この人から離れたかった。
「待ってよー。まだ全然お喋りが……」
トイレを出て、建物を出て、走って走って、こんなにも惨めで……。
一年前と変わっていない木葉さんを見た。接した。
辛かった。苦しかった。
一年前と変わっていなかった自分に気づいた。
どうしようもなく情けなくなった。
「……っ、何が脱ボッチだよ。何も、何一つとして、僕は変わっていないだろ……!」
僕のことを馬鹿にする同級生の連中。木葉さんの変わらない笑顔。木葉さんが過去のことを気にもしていないこと。
それ以上に辛かった。苦しかった。情けなかった。嫌だった。
木葉さんと話して、少ししか話していないのに、あの頃の楽しかった日々を思い出してしまう自分がいた。
『はいビール。流世君、飲んで!』
『うん! 茉森さんの為なら何杯でも飲むよ』
僕の勘違いだった。自惚れていた。最後には突き放されて、居場所を失って、学科一の嫌われ者になった。
それでも。あの頃の、あの日々。短い期間だったかもしれないけれど。
今でも鮮明に思い出せる。彼女と一緒にいる時間が楽しかった。好きだった。
茉森さんと一緒に馬鹿騒ぎして飲むビールの苦さの美味しさを、僕は忘れられないでいたんだ。
でも茉森さんが昔のように笑いかけても、優しく接しても、もう戻らない。僕は華やかな人間にはなれない。僕には無理だったんだ。
分かっている。それなのに……。




