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59 動物園ビール

「水瀬君、こっちですっ」

「ごめんね、お金下ろしていて少し遅れた」

「大丈夫ですよ。アディショナルタイムが三分増えただけですから」

「どういうことでしょうか?」

「さあ行きましょうっ」


 部屋で軽く雑談した後、僕らは動物園へとやって来た。

 月紫さんの不思議なノリに困惑するも、ゲートで大人二人分の料金を支払って園内に入場。


「思っていたより人が多いね」

「パンダの赤ちゃんが産まれたらしいですよっ。皆さんミーハーですねっ」

「不特定多数の人を毒づいたら駄目だよ?」

「では毒づくのはやめて水瀬君を小突きますね。えいっ」


 不思議なノリ、そして悪戯っぽい笑み。月紫さんは肘で僕のお腹を小突いてきた。ぐはっ!?


「ぐ、ぐおおぉ……!?」

「本日の水瀬君はよく悶えますね」

「気にしにゃくていいよ」


 なんだそれ可愛すぎる。思わず心の中で吐血してしまった。ズルイ……!

 入場直後の時点でノックダウン寸前に陥るも、なんとか気を立て直す。まだ動物を見てもいないんだぞ。頑張ろう。楽しもう。

 実は一つ、動物園で試したいことがあります。


「動物園は久しぶりです。ワクワクですっ」

「小学生以来とか?」

「はい。小さい頃はよく連れていってもらいました。お父さんと手を繋い……あ、手は繋いでいなかったです。お父さんは常に両手に缶ビールを持っていたので」


 娘と手を繋ぐ為にせめて片手はフリーにしておけよ。そっと静かにツッコミを入れて歩く僕も動物園は十余年ぶりだ。

 当時の記憶だとゲートを通ってすぐに獣臭がしたはずなのに、この動物園は全く臭わない。昔と違って動物園は綺麗になったのか、または僕の嗅覚が加齢によって衰えたのか。後者だと悲しいね!

 と、ともあれだ。ここは初めて来る動物園だけど幼少期を思い出して懐かしく感じる。


「観覧車があるみたいです。一周に何分かかるのか予想して乗りましょう」

「それ意味ある?」

「私が右手と左手それぞれにごはんを持つのでゾウさんがどちらを食べるか予想しましょう」

「いやだからそれ意味ある? 変わった楽しみ方を所望されますね」

「あっ、パンダさんですっ」

「あ、はぁい了解です」


 この独特の会話にも適応してきましたよ。

 フリーダムな月紫さんは喜色満面のとびきり素敵な笑顔で人混みへと向かう。


「わぁ~! パンダさん可愛いですっ」


 一番の目玉であるパンダのエリアにはたくさんの人が集まっていた。まさに客寄せパンダ。


「すごい人気だ」

「赤ちゃんはまだいないみたいです。少し残念ですが大きいパンダさんもファンタスティック可愛いです」


 変な強調だね。

 月紫さんはパンダに手を振って楽しそうに笑う。


「こっち向いてほしいです。パンダさんこっちですよ~っ」


 不思議で独特、それでいて可憐。

 細い輪郭、彼女の整った横顔は眼鏡をかけていても素敵だった。


「……ファンタスティック可愛い」

「水瀬君もそう思いますかっ?」

「へ? ううう、うん!」


 あなたのことを言っていた、と思いつつ誤魔化して写真撮影。あ、パンダをね。月紫さんは撮っていないよ! うんうん!


「では次にレッツゴーですっ」

「うっす」


 月紫さんだけを見ている場合じゃない。滅多に来ない動物園なのだから動物を見なくちゃ。まあパンダより月紫さんの方が可愛いけどね!


「ヤギさんコーナーですね。皆さんごはんをあげています」

「ヤギめっちゃ柵から顔出している!?」


 数多のヤギが柵の間から首ごと顔を突き出してエサを頬張る姿に驚く。


「レッサーパンダがいますっ」

「思ったより大きいし思ったよりアクティブだね」


 テレビで観たのより一回りもサイズが大きい体と、胴体並みに長くモフモフした尻尾のレッサーパンダが立たずに地面の上を行き来するのを眺める。


「Elephant……? あ、ゾウさんですねっ」

「英語表記に戸惑わなくても目の前に実物がいるから。あと両手にエサを持たないで。ゾウがどちらを食べようか迷っている!」


 ザラザラとして岩石のように固そうな皮膚したゾウの長い鼻が左右に動く。

 といった具合に、僕らは普通に動物園を楽しむ。普通だ。普通だよ。普通でいいじゃないか。


「ライオンさんです! とてもカッコイイです!」

「ライオンじゃなくてトラだね。アムールトラだって」

「水瀬君を凝視していますよ」

「そうだね僕を完全にロックオンしているね。え、トラってこんなに見つめてくる生き物だっけ? 僕は被食者扱い? 怖いんだけど!」

「さすが水瀬君ですっ」

「す、少し休憩しようか」


 ガラスがなければ飛びかかってきたであろうトラを見終えて、僕らはベンチに座る。


「結構回りましたね」

「他にもパンダの赤ちゃんの生誕イベントがあるから一日中楽しめそうだね」

「ですねっ。動物園楽しいですっ」

「子供の頃とは違って見えるよ」


 大人になった証拠だろうか。動物園が新鮮に感じる。小さな子供がサル山に向けて懸命におやつを投げている光景につい笑みがこぼれる。


「あ、私もおサルさんにごはんをあげてきます」

「なんで万札を取り出しているの? あげすぎは良くないよ!?」

「そうですね。ごはんいっぱい食べるとおデブさんになっちゃいます。子供達に任せて私はエアーであげますっ」


 そう言って何かを投げるモーションをして月紫さんは満足げに微笑む。

 お日様ぽかぽか心地良く、月紫さんとの会話はぽわぽわしている。


「おサルさんがおサルさんの毛をむしって食べています! 共食いする程にお腹が減っている……!?」

「いやあれは毛を食べているわけじゃないよ」

「ここはやはり私が一万円札を!」

「や、やめて!」


 不思議な行為と発言をする人だなと思う。天然でやっているのだろう、彼女の仕草には嫌味もわざとらしさも感じられない。

 眼鏡を外したら美少女の月紫さん。けれど眼鏡を外さなくても彼女はファンタスティックに可愛かった。


「水瀬君の体毛も美味しいですか?」

「僕の髪の毛を食べようとしないで」


 ……たまについていけない時があるけど。


「フレンチドレッシングをかければ美味しくなると思います」

「……」

「あっ、ひ、引かないでくださいっ。顔色をマンドリルみたいにしないでくださいっ」

「僕、鮮やかな水色と赤色になっていたの?」

「水瀬君に嫌われたら私もう生きていけません」

「そんな大袈裟な」

「大袈裟ではありません。私にとって水瀬君は……」

「っ……?」

「の、喉が渇きましたねっ」


 何か言いかけた月紫さんが立ち上がる。

 ……僕もベンチから腰を上げる。出来る限りの作り笑顔を浮かべて。


「飲み物を買いに行こうか」

「はいっ」


 月紫さんにとって僕は何なのか。聞きたくて、でも聞きたくもないと思った。一瞬、不安がよぎったんだ。

 僕らは友達だ。僕は月紫さんを友達だと思っており、月紫さんも僕を友達だと言ってくれた。今こうして動物園に来て満喫しているし、友達として一緒にいて楽しい。


 けれど、もしも、月紫さんはそれ以上のことを思っているとしたら。友達以上の想いを、月紫さんが僕に対して好意を寄せているとしたら僕は……。


「月紫さんは何飲む?」

「私は甘めのコアラで」

「ココアだね。動物園の空気に当てられているね」


 ……馬鹿馬鹿しい。ありえないだろ。

 勘違いしてはいけない。友達ができて脱ボッチになれただけでも十分に奇跡なのに、そんな僕が誰かに好意を寄せられるわけがない。これだから陰キャは困る。すぐに勘違いしてしまう。そのせいで一年前にあんなことになったんだろうが。


「じゃあ僕はこれを飲もうかな」


 本当に馬鹿馬鹿しい考えだ。不要な心配はしなくていい。

 月紫さんが自販機の前で一万札を出して「はっ」と気づき、慌てて千円札に取り換えている横を通り過ぎて僕は売店の前に立つ。


「水瀬君は売店で買うんですか?」

「うん。自販機にはビールは売っていないからね」


 なんだと? スーパードライが四百二十円もするのか。い、いや、お祭り価格と思えば高値ではない。フェス会場やスキー場に比べたら安い方だ。

 気前良く会計を済ませ、僕はビールを持って頬を緩める。ココアを持った月紫さんが僕の手元を覗き込む。


「水瀬君は動物園でもビールを飲むんですね。私のお父さんみたいです」

「アル中と同列扱いはかなり辛いです。僕は試してみたいだけだよ」

「試す?」

「その名も、動物園ビールさ」


 本日のちょっとしたメインイベントだ。

 僕はビールが美味しいシチュエーションをいくつか知っていると自負している。それらは全て、僕自身が体験してすごく美味しいと思ったからこそ良シチュと認定したものだ。

 つまり探求あるのみ。新たな試みは積極的にするべし。その先に良シチュがあるのだ。


「動物の鳴き声に耳を傾け、家族連れが多い園内にて昼間からビールを飲む自分の駄目大人っぷりを反動にすることで美味しさに振り幅が発生するはず!」

「水瀬君が活き活きしていますっ」


 そうさ、これが僕だ!

 サル山、ロバ乗り場、クロシロエリマキキツネザルの群れ、様々な動物の姿を目に焼きつけてからビールをがぶ飲み。

 さあ果たして動物園ビールの味は……!?


「んぐ、んぐ」

「お味はどうでしょうか」

「こ、これは……!」

「これはっ?」

「……普通!」


 ビールの味は普通だった。普通に美味しい。普通だ。普通かよ。いやまぁいいんだけど。


「イマイチでした?」

「うーん、特別感があまりなかった。あと背徳感も」


 自分なりにシチュエーションを設定したものの、動物園の雰囲気とビールは上手く噛み合わず美味くなかった。ミスマッチとまでは言わないけども最高に美味しいとまでは感じなかったなぁ。少し残念だ。


「場所が悪かったのかな。ライオンの真正面かキリンを見る高台で飲めば結果は変わるかも。うーむ……」

「水瀬君がとても真剣です」

「ビールが僕の生き甲斐だからね」

「私にも少し飲ませてくださいっ」

「はい」

「ごぶぶっ」

「……そういやそうだったね」


 動物園ビールの改善点を考えながら渡したせいで完全にノーマークだった。月紫さんはビールを噴き出す系女子でしたね。

 僕のズボンはビールまみれ。サル山やクロシロエリマキキツネザルの檻から甲高い鳴き声が響く。い、威嚇しないで。


「あわわっ、この感じ久しぶりですっ」

「奇遇だね。僕もそう思っていたところだよ」


 訓練の賜物でほんのちょびっとだけ飲めるようになったとはいえ一杯完飲はまだまだ先だ。

 見てよ、クロシロエリマキキツネザルが歯を剥き出しているよ。クロシロエリマキキツネザルが見ている。クロシロエリマキキツネザルがこっちを見ている! クロシロエリマキキツネザル、声に出して言いたい名前だね。


「水瀬君のズボンが……ごめんなさい、今すぐ拭きます!」

「い、いいって僕が拭くから。こ、股、月紫さんは拭かないでぇ!」

「永湖です!」

「永湖さん!」

「ファンタスティックえへへーっ」

「ファンタスティックぐへぇ……」


 変な強調表現を連呼しながら僕らは動物園を楽しむ。

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