58 ガードが甘い
『昨日は野球観戦に行ってきました。バックネット裏のとても良い席で、しかもファウルボールをキャッチしました! 応援するチームも無事に勝ち、CS進出が決定して最高!』
レポート作業時とは比にならない速度の軽快なブラインドタッチで文章を打ち込んでいく。書きたいことを全て書き終えて一息つき、右上のバツボタンをクリック。パソコンから『保存せんでええの?』と問われて僕は『保存しない(N)』を押してパソコンを閉じる。
よし、ブログを書き終えた。背もたれに体重を預けて天井を見上げ、床に置いた本を手に取る。
SNSはやっていない、友人は少ない、ブログを開設する気も起きない。そんな僕は文章を書いて即座に消すというどこにも残らない方式で日記を書くことがある。中々に虚しいよ。しかし自己顕示欲は多少なりと解消出来る。
「だって昨日の出来事は書きたいよ。人生初のファウルボールだもの!」
誰かに自慢したい。不知火に言おうかな。そのくらい嬉しかった。
あと金束さんの機嫌も良かった。写真撮影後は不機嫌な顔をせず無邪気に野球観戦を楽しんでいた。そりゃビールが美味しいと言わなかったし写真は僕に送ってくれなかったけども。ともあれ楽しい一日だった。
「……楽しい、か」
パラパラとめくった本を閉じてまた天井を見上げる。
社員に怒鳴られる重労働のアルバイト、日凪君との飲みバトル、泥酔の金束さん、そして昨日の野球観戦。僕にしてはハードな日々だった。一般的な大学生ならば余裕でこなせるスケジュールであっても僕にはオーバーワーク甚だしい。
特にすごかったのは泥酔して泣き上戸になった金束さん。あれはとんでもなく可愛かった。
「朝起きたら『なんで私がアンタの膝で寝てるのよ馬鹿!』と怒られた。野球観戦では女性の売り子にデレデレするなと怒られた。金束さんは相変わらず怒ってばかりだ」
けれどそれが金束さんらしくて、いつも不機嫌な表情をしているけど最近はたまに笑顔を見せるようになって、会う度に新たな一面を知っていくことが出来る。
一緒にいて楽しいと思える。キレられて僕は「ひぃひぃ」と悲鳴を出すけど最後には楽しかったと思えるんだ。ハードな日々だったにしろ、それは充実していく日々でもあり、心から楽しめている。
一年前の自分が見たらビックリするだろうな……。
「っと、今日は何も予定がないことだしのんびりと過ごそう」
感慨深く何度も天井を見上げている自分に喝を入れる。一丁前に酔いしれてカッコつけるなよ。どうせ酔うならビールで酔おうぜ。部屋でゆっくりゆったり飲もうではないかっ。
「ベルジャンスタイルホワイトを飲もうかな。白ビールの爽やかな味わい~!」
僕はもうボッチではない。友達と飲むビールの美味しさを認めたのはつい先日の話。
しかしこれからも一人酒は定期的にやっていくつもりだ。一人で満喫するのも悪くはない。決して後ろ向きな一人酒ではなく、友達と一緒にいる楽しさを知ったからこそ、今までとは違う一人の時間を過ごせるのだと思うんだ。
「おっ、冷やしたビールと不知火特製焼きネギの南蛮漬けを発見! 素晴らしい組み合わせだ。ではでは、読書を嗜みながら一人でかんぱー」
ピンポーン。インターホンが鳴った。
は、はは……。
「どうせこうなるとも思っていましたよー」
僕が一人酒しようと意気込むと誰か来訪するシステムにも慣れてきましたよ、ええ。はいはいフラグフラグ。
早々に観念してドアを開ける。
「水瀬君っ、遊びに来ました」
ぴょん、と跳ねてショートボブの前髪が揺れる。僕の前に立っていたのは月紫さんだった。
「いらっしゃい」
「今日も暑いですね。残暑ですーっ。ざぶーんっ」
「その擬音は間違っていると思いますよ」
「ざばーん。ざっばーんざっぶーんっ」
「それも違う。どれも波を彷彿とさせる擬音ばかりだよ。」
「お邪魔しますねっ」
「ふ、フリーダム」
暑さの影響だろうか。いいや違う。月紫さんはこういう人だ。どの四季においても月紫さんは不思議でおかしく、そしてぽわぽわとしているだろう。
「うーん」
「どうかした?」
「うふふっ、ですっ」
「はひ?」
「ふへほ?」
「いやハ行を言ったつもりでは……え、急に笑ってどうしたの?」
「水瀬君、元気になりましたね」
月紫さんは上体を左右に揺らしてニコニコと笑う。すぐに笑顔を浮かべたが、その前に見せた表情はどこか心配そうに愁いを帯びていた。
「この前は辛そうな顔をされていたので」
「ああ……もう大丈夫だよ。気持ちがスッキリした」
「良かったです。ハイパー良かったですっ」
日凪君に馬鹿にされ、金束さんと喧嘩して色々とあった。僕は素直になれず意気地もなく、惨めに落ち込んでばかりだった。
どうにもならない僕を励ましてくれたのは月紫さんだ。僕自身でもハッキリと出来ない気持ちを肯定してくれた。友達と言ってくれた。あの言葉に僕は救われたんだ。
「本当にありがとう。月紫さんのおかげだよ」
「そう言ってもらえて嬉しいですっ。……水瀬君は誰か大切な人の為に悩んでいたんですよね……」
後半、月紫さんの口調が沈んだように感じた。顔を俯かせて、少し悔しそうで悲しそうな瞳が眼鏡越しに瞬きした。
「……月紫さん?」
「永湖ですっ」
「え、永湖さん」
「はいっ」
顔を上げた月紫さんは先程と同じ明るい笑顔。両手を合わせて首を傾ける仕草はいつも通りの天然天性のあざとい可愛らしさがある。
「今日はどういったご用で?」
「むー」
むー?
「用もなく遊びに来たら駄目なのでしょうか」
「あ、いえ、大丈夫です」
「大丈夫ですねっ。ではお邪魔します」
ペコッと頭を下げて、月紫さんは靴を脱ぐ。
まぁそうだよね。遊びに来ることに理由は不必要。友達なら当然だ。
「今日も訓練しようか……って、ぇ……!?」
靴を脱ぐ月紫さん。屈み、その際にブラウスの胸元が緩み、そこから谷間がチラ見、ああぁあぁ!?
「つ、月紫しゃん?」
「永湖ですっ」
「今はそれよりも! そ、その」
「?」
僕は目を背ける。だが一瞬のうちに目に焼きついた光景、またの名を絶景が脳裏に焼きついて離れない。
屈むことで見えた服の下。恐らくは重力によって真下へと零れ落ちそうになる丸々ぷるぷるとしたおっ……げほんごほんんんっ! やめろ僕! いかがわしい思考をするな!
艶然とした見事で魅惑な谷間と程良い大きさ。月紫さんって着痩せするタイ……いやだからやめようよ!? 考えるなと自制した直後に煩悩リターンさせるな!
「ぐおぉぉ」
「水瀬君、首が千切れそうですよ?」
「な、なんでもないでふ」
「噛んでます」
「僕はパニックに陥ると噛むんです」
卒論発表を噛まずに言える自信は現時点で既にありません。
「パニック? ワニワニですか? 大丈夫ですか?」
「ち、ちょ、屈んだ体勢のまま近寄らないでぇ」
「?」
「あぐぐぐぅ……!」
……その、月紫さんはガードが甘い気がする。上着を脱いだり生足を出したりと、緩くなる時がある。その度に僕は幾度となく首を千切る思いで視線を逸らしてはコソッと盗み見してきた。いや盗み見してるんかい。
「改めてお邪魔しますね」
僕なんかに見られても気にしないってことなのだろうけど、本人は自覚あるのか……?
「あ、この本知っていますっ。私も読んでいますよ」
リビングに入った月紫さんが床の本に気づく。立った状態で拾おうとして、背後に立つ僕の視界には短いスカートから露わになる生足とパ、っ、危ない!
「ぐおぉぉ!?」
「? 今度は上方向ですか? 水瀬君は首をあらゆる方向から痛めつけたい系ですね」
危うく! 危うくだよ! あのまま直視を続けていたら確実に見えていた。めくれあがったスカートの中身が拝めていた。
だ、駄目だよ月紫さん。女の子なら床の物を拾う時はちゃんと腰を下ろして拾わないと。
今完全に見えていたよ!? 僕は見ていないけどね! 僕って紳士! と言いつつ脳ではガッツリ見た太ももや先程の谷間の光景を『保存せんでええの?』と表示されている。やはり僕は最低だ。保存しなくていいだろ! ……脳内メモリーの奥底に保存しとこ。
「ところで水瀬君」
「う、うっす」
「動物園に行きませんか?」
「動物園?」
「ざっぶーんっ」
意味不明な擬音と純粋な笑み。眼鏡に両手を添える。ぴょん、と跳ねた月紫さんはさくらんぼのように染まった顔を綻ばせていた。




