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嘘つきな貴方は200回目のはじめましてを言う。

作者: 秋澤 えで

ふわりと水面から顔を出すように意識が上昇する。目を開けるといつも通りの天井が出迎えた。眠気の残る身体を起こすと部屋に違和感があることに気が付いた。天井も壁も、私の記憶にあるものと変わらない。けれど見覚えのない調度品やカーテン、それから机の上に並べられたノート達に首を傾げる。まるで覚えがない。

よく見れば見覚えのない服を着ているし、今の今まで寝ていたシーツも見たことがない。不安に駆られ、青いカーテンをひく。


私の部屋の窓からは、街が見えた。少し記憶をたどればわかることだ。昨日ここから見た景色は、雪が積もって白くなった屋根、青い空を突く時計塔、家々の間を行き交う人々、そしてその街の向こうに寒々しい空と混ざり合う遠い海。


けれど外を見て愕然とする。

高台にある家からは、街が一望できる。街のシンボルの時計塔から、人々の生活、空へとつながる海。それらはあった。だがそれは昨日私が見たはずのものとは全く違っていた。

街には一点の雪もなく、カラフルな屋根が日に照らされ、時計塔は眩い太陽を刺そうし、青々と煌めく海は空との境界に入道雲を乗せていた。



「夏……?」



私は訳が分からなくなってただ膝から崩れ落ちる。

確かに昨日は真冬だった。夜のうちに降った雪に、皆が雪かきに勤しんでいたはずだ。空気は刺すように冷たく、口から出る呼気は白く立ち上る。それから、それから、



「……それから?」



朝起きて、着替えて、皆に挨拶をして、家族で朝食を食べて、勉強をして、街へ出て、それから、


それからどうしたのだっけ。


辿れば辿るほど細くなる記憶の糸を追っているとき、背後から控えめなノックの音が聞こえた。しんと沈黙が落ちる。しばらくして、また遠慮がちにノックされる。どうしよう、と逡巡する。状況がまったくわからない。

自分の部屋なのに見覚えがない。昨日と今日で季節が逆転している。昨日の記憶があいまいで眠った覚えがない。


そして今、誰がノックをしている?



「お嬢さま、起きていらっしゃいますか?ステラ様?」



ノックに次いで掛けられた声にハッとする。

ステラ・フォン・ハインゼン、それが私の名前だ。

呼びかける声に聞き覚えはない、けれど彼はどうも私のことを知っているらしい。敵意のようなものは感じられないし、口調からして使用人か誰かのようだ。

決心つかずまごついていると、



「ステラ様、開けますよ?」

「え、」



口から零れた単音と共に開けられる扉。目を丸くしながら扉の向こう側から現れた人を凝視した。

青みがかった髪の青年が私を見て少し笑った。



「ああ、ステラ様起きていらしたんですね。」

「……貴方は、だれ」

「初めましてステラ様、私は貴女様の世話係をしている者です。どうぞお見知りおきください。」



彼の言葉に目を瞬かせる。今彼は何を言っただろうか。



「世話係ってそんな、聞いてないわ。」

「ええ、貴女様にとってはそうでしょう。詳しいことをご説明いたします。しかしお嬢さま、それはお着替えを済ませた後にいたしましょう。……30分ほどしたらまたこちらに来ますので、お待ちください。」

「ちょっと、どういう、」



無情にも扉は閉められ、再び私は一人になった。茫然と立ちすくむが全く飲み込めない現実にいっそ立ち直りかけている。何はともあれ、説明をしてくれるという彼を待たなければ現状の理解はできないだろう。

クローゼットを開き、すぐに着られそうなものを選ぶ。もちろん選んだ服も、見覚えがない。のそのそと着替えるが、やはりどこか身の置き場がない。自分の部屋だというのによく似た他人の部屋に入っているみたいだ。夢であってと願っても、窓の外の景色は変わらないし、部屋は少し蒸し暑い。


一体何があったというのだろう。

時間を与えられ、様々な考えが浮かんでは消えていく。

ここは本当に私の家なのだろうか。私は実は永い眠りについていて、半年ぶりに目覚めたのだろうか。

屋敷内が静かすぎる気がするたくさんの使用人がいたはずなのに、足音が聞こえない。それに世話人だといった彼だってそうだ。普通嫁入り前の娘の世話係に男性を付けるだろうか。

なぜ彼はこの部屋で自分が説明しようとしているのだろうか。なにも彼じゃなくてもいいだろう。一階のダイニングに行けば家族たちだっている。彼が説明しなくても家族のだれかに説明してもらった方が受け入れやすいし、何より初対面の人間に説明されるよりも自然だ。


悶々としているとノックの音に意識を戻された。さっきと同じ音だ。



「……どうぞ、開いてるわ。」

「失礼します、お待たせいたしました。お腹もすいたでしょう。説明は朝食を取りながらにしましょう。」



ガラガラと押してきた荷台にはティーポットに軽食が乗せられている。私の好きなスコーンだった。

どうすべきか、と悩む間もなく彼はどこからか椅子を引っ張ってきて座る。



「貴方も……?」

「ええ、失礼は承知ですが、私もお腹が空いていますので。」



一言で言わんとしたことが分かったのか、飄々と答えられ呆れる。使用人が主人の娘と一緒に食事をとるなど、聞いたことがない。悪びれる様子もない彼はちゃきちゃきと準備を進め、すぐに食べられる状態となった。文句の一つでも言ってやりたくなるが如何せん初対面。それに今から彼に話を聞かなければならないのだ。下手なことを言って嘘を教えられたり話を渋られてはたまらない。文句は紅茶と共に流し込んだ。



「それで、これは一体どういうことなの?」

「どういうこと、と申しますと。お嬢様はどこまで認識しておいでですか?」

「……昨日まで真冬だった。雪が積もっていて息が白くなるような。なのに今は真夏みたい。それに部屋の中のものも見覚えがないものばかりだわ。それに、」



言葉を止める。聞きたいような聞きたくないようなこと。彼は片眉をあげて促す。



「それに?」

「……みんなはどこ。」



みんな、ハインゼン家の当主である父、母、それから二つ下の妹。屋敷の中で働いていたたくさんの使用人たち。



「みんなはどこに居るの?」

「……旦那様と奥様はここから馬車で一月ほどの土地にいらっしゃいます。新しく、そちらをお治めになられています。使用人の多くもそちらに移りました。」

「新しい、領地……?」

「ええ、先の戦争で隣国のヴァルテリア国から割譲された土地です。」



何を言ってるのか全く分からない。確かに隣国ヴァルテリア王国とこの国、クィントゥス王国は折り合いが悪かった。けれどここ数年はずっと冷戦状態で、戦争なんてものはなかった。それに土地を治めるにしたって昨日までいたはずの父と母がすでにいないのはおかしい。いくら何でも早すぎるし、それを娘に伝えないわけがない。



「そんなわけ、」

「まあまあ、話は最後まで聞いてください。」



質の悪い嘘を、と睨むがどこ吹く風。まるで気にした風もなく紅茶を注いだ。



「……マリアは?マリアもその領地に行ったっていうの?」



二つ年下の妹マリア。いつだって二人セットで扱われてきた。仲の良い姉妹。父と母が、そんな私たちをバラバラにするようなことするはずがない。



「いいえ、マリア様は王都にいらっしゃいます。」

「王都に?一人で?」

「マリア様は王都に嫁がれたのです。今は姓も変わっています。」



しれっと言い放った彼に言葉を失う。出来の悪い冗談だ。そんなことあるはずがない。私には婚約者がいたが、彼女にはまだいなかった。両親ともに過保護で、婚約者などまだ早いなんて言って吟味しては悉く断っていた。それなのに、昨日の今日でマリアが結婚するなんてありえない。



「そんなことあるわけないじゃない。嫁ぐにしてもいろいろ準備が必要なのよ?今までそんな素振り全くなかったわ。」

「ええそうでしょう。貴女様にとっては、」

「……どういうこと?」

「どうか落ち着いて聞いてください、ステラ様。」



アイスブルーの目がしっかりと私を見る。先ほどまで飲んでいたティーカップはもう机の上に置かれていた。真剣そうな顔つきに思わず息を飲む。



「貴女様はマリア様が嫁ぐ準備をご覧になっていました。」

「……一度だってそんなのは、」

「戦争の様子もご覧になっていました。」



私の言葉は聞かないとばかりに、言葉が紡がれていく。



「旦那様と奥様の出立にも立ち会われていました。マリア様の結婚も、ここで見送りになられました。結婚式にこそご出席にはなりませんでしたが、マリア様のウェディングドレスもご覧になっていました。」

「…………、」

「どうぞ、落ち着いてお聞きください。」



知らない知らない知らない。何も知らない。何も見ていない。何を言ってるのかわからない。

昨日まで、お父様もお母様もマリアも、家にいた。出て行くところなんて、見ていない。



「貴女様の記憶は、1週間しかもたないのです。」



頭が真っ白になった。




**********




端的に言って、世話係の彼の言っていることは事実らしかった。

私の最後の記憶は、数年前のものだった。季節が反転したのではなく、すでに何度も廻った後。



「落ち着かれましたか?」



滂沱する私にタオルと淹れ直した紅茶を彼は渡した。




パニックになりながら嘘だと連呼する私に、彼は慣れた風に机を指さした。



「混乱なされるのも当然です。貴女にとって初対面の私の言うことを信じられないことも、当然です。ですので、そちらのノートをお読みになってください。」

「ノートッ……?」

「ええ、そちらにすべて貴女にあったことが、貴女自身の手によって記されています。」



取り乱す私に対して、彼は冷静だった。淡々と、読むように促す。私にはそんなものを書いた覚えはない。恐る恐る手に取って、呼吸が止まった。表紙には日付が書かれている。今日の日付のものから数年後の日付まで。それは間違えようもなく、私の字だった。




「みっともない姿を見せて悪かったわ。」

「いえ、慣れていますので。」



そう言う彼はまるで動じた風もない。一体何度目なのだろう。混乱し半狂乱になる私に現状を説明することは。



「……貴方は、ソラっていうの?」

「え……、ああ、ノートにそう書いてありましたか。」



ノートに彼のことらしい「ソラ」という名前があったが、どうも違うらしい。



「違うの?」

「いえ、そう呼んでいただいて結構です。」

「違うなら名前を、」

「名前なんて、この場では些細なことですよ。それにお嬢さまがソラと呼ぶのは私しかいませんので、間違えることもありません。」



頑なに名前を教えようとしない彼は一歩離れて、それから恭しく頭を下げた。



「初めましてステラ・フォン・ハインゼン様。貴女のお世話をさせていただきますソラにございます。」

「今更取り繕っても手遅れよ。」



散々無礼な行いを見たうえでは、綺麗な笑顔も所作も、嘘くさいばかり。けれどソラはそれを崩そうともしなかった。



「一週間、よろしくお願いいたします、お嬢さま。」




********




二日目、私はソラに連れられて街を歩いていた。

一日目はかつての私が書いた日記を読み返すだけで終わってしまった。それでもすべてを読み返すことはできていない。そして私自身、昨晩一日のことを書いた。もっとも、一週間の一番最初の日は毎回ほとんど同じことが書かれている。要するに、混乱していること、不安に思っていること、それくらい。



「随分、人が少なくなったのね。」

「ええ、最近は特に。やはりここはクィントゥスの中では田舎ですからね。広い土地ですがどうしても人は街の栄えている方へと流れて行ってしまいます。」



ちらほらと人はいるが、記憶の中にあるほどじゃない。前はもっと子供が駆け回っていたし、たくさんの店が立ち並んでいた。変わらないのは自然や大きな建造物くらい。少なくとも、街の中心にある時計塔は何も変わっていなかった。



「田舎でも、ここは素敵だと思うけど。」

「……お嬢さまはこの土地がお好きですか?」

「ええ、好きよ。」



ここには何もない。商業の中心地でもなければ、工業的に栄えているわけでも行政機関があるわけでもない。国の端々にある海に面した田舎町の一つに過ぎない。他人から見れば、大して良い土地ではない。けれど私はこの街が好きだった。街の中心にある時計塔は古く趣があるゴシック調、塔に昇れば空と海が混じりあう水平線が見え、夕方にはグリーンフラッシュが見えることもある。勾配の少ないなだらかな土地にはたくさんの木が植えられ、初夏には鮮やかな緑に包まれる。四季があって、自然があって、街がある。それだけで私にとっては良い場所だった。



「ソラの出身はどこ?」

「……もっと東の方です。海はほとんど見たことがありませんでした。」

「そう、ソラはここが好き?」

「ええ、好きですよ。穏やかな場所です。」



なだらかな坂を下る。舗装された道はところどころから雑草が顔を出している。おそらく、舗装する人が、指示する人がいないのだろう。こういった仕事は領主が指示を出すが、ハインゼンの領主はもういない。代わりに領主が来ることなく、ほとんど放置されている状態らしい。政治に関して明るくないが田舎なんてそんなものかもしれない。


街中へ降りてくると、記憶の中との差に目を細めた。街はあるのに、人がいない。もう使われずそのままになっている家がいくつもあった。まるで抜け殻のようなそれは、閑散とした寂しさを際立たせる。

ちらほらと子供や女性がいる。それからお年寄り。ふと思う。



「男性があまりいないようね。」

「ええ、働き盛りの若者のほとんどは外へ出て行ってしまいました。」

「……そう。」



そんなものか、と言ってしまえばそれだけだ。元領主の娘にできることはない。私はきっと、衰退していくその様子を見ていくことしかできないのだ。いやきっと、衰退していく、人が離れていくその様さえ、私はきっとただ見てきたのだ。



「いずれ、この街はからっぽになるのね。」

「……いえ、わかりません。これから王の手が加えられるかもしれません。すくなくとも、海に面したこの街は貿易には向いていますし。」

「あら?いつの間にこの国は海上貿易を始めたの?海を渡った貿易先なんてなかった思うのだけど。」



私の記憶にある限り、この国の同盟国は悉く地続きの西方諸国だったはず。海を挟んだ東側はヴァルテリア、妨害が入るため海上貿易は不可能だったと思っていたが。思わずため息をつく。数年の間に色んな事が変わっていたらしい。この世界から、私だけが切り取られたようにおいていかれる。



「大丈夫です。必要とあれば私が何度でもお知らせしますから。」

「そうしてくれると、ありがたいわ。」



私たち二人のすぐそばを、鬼ごっこをする子供たちが走り抜けていった。何の憂いも知らないような子供達も、きっとこの土地から出て行くのだろう。仕方のないことだが、どうか大人になってもこの街のことを忘れないでいてほしい。忘れ去られてしまうには、誰に知られることなく朽ち果てるにしては、この街はあまりに惜しい。更新されることのない私の記憶の中だけでは、寂しすぎる。



「……あの、今週は随分と落ち着かれてますね。」

「今までの私と違う?」



ぽつりと呟かれた言葉に反応すれば罰の悪そうな顔をされる。この青年は笑顔を張り付けてさえいなければ随分と考えが顔に出やすい。



「そう、ですね。今までは二日目の夜までは泣き暮らしてたり、パニックになっていたり、って感じでしたし。こんな風に外に出て落ち着いてるのは三日目以降でしたから。」

「そっか。……どうだろう、あのノートを読んでたらいろいろ思って。特に先週?のノートがあったから落ち着いてる、というか、パニックになるよりもしなきゃいけないことがあるみたいだから。」

「先週の、ですか。何か書いてあったんですか?」

「まあね。」



教えてほしそうな顔をするソラを笑うだけ笑って、内容は教えなかった。底の薄い靴がはげかけた舗装の上で軽い音をたてる。

私の感覚ではなく、この世界の流れで言う一昨日書かれたノートの最後に書かれていた言葉が、私を冷静にさせていた。

既に死んでしまった過去の私からのメッセージ。それはただの日記ではなく、明確に、何も知らずに目を覚ます私に向けて贈られた言葉だった。


『木曜の夜10時、馬の音が聞こえてくる。』

『馬に乗った人が、ソラに手紙を渡していた。』

『次の日、ソラはそれについて何も私に言わなかった。』


『貴女は私の見聞きしたこと、知ったことを忘れてしまう。けれどどうか、』

『忘れてしまったことを、忘れないで。』


先週の私は、一週間で何かに気が付いたのだろう。けれど私は気が付いただけで確信を得ることも、確かな何かを得ることもできなかった。きっとそれは偶然だった。それまでの忘れてしまった私は、一度たりともその何かに気が付かなかったのだろう。


一週間しか記憶の持たない私は、すべての記憶を世話人であるソラに頼ることしかできない。

そしてそのソラは、何かを隠している。




*********




朝から雨が降っていた。ざあざあと激しく地面を打ち付ける音がする。



「ソラ、雨の日に海に入ったことはある?」

「いえ?そのようなことは。そもそも海に入ったことがありません。」



怪訝そうな顔をするソラに同意する。私だってそんな酔狂なことはしたことがない。

窓の外には糸のような雨にけぶる海が見えた。薄暗い空と黒い海は今日も境界があいまいだった。



「雨の日の海は天国に近いらしいわ。」

「……それは、まあそうでしょうね。こんな天気の時に海に入れば波にさらわれかねません。」

「そうじゃないわよ。雨一つ一つが空から糸を垂らすの。いつも空とつながってる海からなら、その糸をつたって天国へ行けるそうよ。」



海と空は、いくら繋がっているように見えても、それには大きな隔たりがある。でも空からたくさんの糸が降り注ぐ雨の日は、天から梯子がかかるように空へと行くことができる。その向こうの空の上まで。



「天国に、行きたいんですか?」

「少なくとも、地獄や煉獄に行くくらいならね。」



じぃと窓の外を見るソラの横を通って部屋を出ようとする。



「お嬢様どちらへ、」

「お父様の書斎。ちょっと知りたいことがあって。」

「……お供します。」

「お父様の書斎の場所くらいわかるわ。」



片手で払うような素振りをみせたけれど、ソラはそのまま私のあとをついてきた。雨の音のせいで屋敷内の静けさが際立った。


父の書斎の扉を押す。小さなころ勝手に入って怒られた記憶がある。今は扉を開けても誰も咎める者もいない。主人のいない部屋はかび臭かったり埃臭いのではないかと思ったが、何の匂いもしなかった。綺麗に片づけられた部屋はよく言えば清潔、悪く言えば閑散としていた。



「……ここにはもうほとんど何も残っていませんよ。旦那様は大事な書類のほとんどをすでに持っていかれました。」

「そう……、」

「私に答えることができることであれば、お答えします。」

「婚約者について、よ。」



一瞬ソラの身体が固くなる、がすぐにためらうことなく口を開いた。やはり今までの私は聞いたことがあったことらしい。慣れているように見えた。



「ステラ様、お気の毒ですがご婚約の方がすでに破談となっています……、」

「それはわかってるわ。その後のことよ。」



それはわかっている。こんな一週間しか記憶の持たない人間を婚約者にしたままにする奴なんてふつういない。こんなのが家の中にいるだけで笑い者になる。だから私はここにいるのだろう。廃れるだけの領地に取り残され、社会的には死んだも同然。血のつながりのある家族でさえそうなのだ、赤の他人である婚約者なんて、知れている。



「じゃあ質問を変えるわ。マリアは結婚して王都に出て行ったって一日目に言ったわね。相手は誰?」

「それは、」



焦りの色が見え、少し驚く。この質問は今の私が初めてだったのだろうか。婚約がどうなったかを聞いた時点で、私という人間はここまで聞いていそうなものだけど、そうでもなかったらしい。



「……殿下ね。」

「…………、」



確信をもって言うと、沈黙が帰ってくる。でもそれが答えだ。驚くことでもない。

私の婚約者はクィントゥス王国の王子だった。良い土地ではないけれど広大な土地を持つハインゼン家は歴史が長く由緒正しい家柄。それなりの爵位でもあった。婚約者として選ばれることもおかしくはなく、そしてその当人がこんな状態になっているのであれば、妹にそのお鉢が回ってくるのも順当だ。



「大方合点がいったわ。領地云々でお父様とお母様が他の土地へ移動したのは下賜されたからね。マリアが王都へ行ったのも殿下と結婚したから。間違ってる?」

「……いえ、大体そんなところです。今までの貴女様は気づいていて何も聞かなかったのでしょうか。」

「今週以前の私についてはわからないわ。」



手紙か何かでもあればはっきりすると思ったけれど、書斎にそれらしいものはなかった。もっとも、娘の結婚が破談になった内容の書かれた手紙なんて捨てて当然なのかもしれないけれど。

何もない書斎にこれ以上用はなかった。



「どちらへ?」

「部屋よ。とりあえずわかったことはノートに書いておくわ。来週になったらリセットされるとしても、すぐにわかるように書きまとめておいた方が来週の私のためにも良いでしょう。」



まごつくソラをそのままに部屋へと戻る。ここへ来た時と同じようについて来るかと思ったが、後ろから追う足音は聞こえなかった。使用人が彼しかいない今、いつまでも私に構っているわけにも行かないのだろう。


私が見覚えのない今に放り出されて今日で6日目。今日の夜が先週の私が言っていた日に当たる。



『木曜の夜10時、馬の音が聞こえてくる。』

『馬に乗った人が、ソラに手紙を渡していた。』

『次の日、ソラはそれについて何も私に言わなかった。』


今日の夜、何者かがこの屋敷を訪れる。





夜になっても雨は降りやまなかった。部屋の窓を開けると強くなり始めた風のせいで雨粒が激しく入り込む。窓ガラスが苦し気に音をたてた。部屋濡れるが、背に腹は代えられない。部屋にかけられた時計はもうすぐ22時を回ろうとしていた。クローゼットの中に隠れて、聞き耳を立てる。空いた窓ガラスの揺れる音、打ち付ける雨の音に混じって、ぬかるんだ地面を何かが駆ける音が聞こえた。息を飲んで、待つ。



「……ぅ……だ!……ちょっと待っ……、」



途切れ途切れの怒鳴り声に、階段を駆け上がる音。いよいよ気配を殺して息をひそめた。



「ステラ様、ステラ様!いらっしゃいますか!」



激しいノック音。クローゼットの中でいくら身を縮めても変わらないだろうに、身体を縮こまらせて洋服の波に溶け込もうとした。しばらくして内側から掛けていた部屋の鍵を開けられる音がした。



「ステラ様っ……!」



くぐもって聞こえていた声がはっきりと聞こえた。それから追うように誰かの足音。この屋敷を訪れていた人もここへ来たらしい。



「いない、まさか……!」

「た、大尉!まさかハインゼンの娘がいなく……!?」

「っ海だ!行くぞ、彼女は海へ向かったかもしれない!」

「は、こんな天気の中海って、そんな正気じゃ、」

「話はあとだ、さっさと来い!手遅れになる前に探すぞ!」



二人分の足音が遠ざかって行った。


恐る恐るクローゼットから這い出すと、二人の影も形もない。策略が成功したことに安堵の息を吐いた。

昼間にソラに話した、雨と海と天国の話は何から何まで私の創作だ。即席で考えた割には、それなりに聞こえたらしい。そしてその話をしたうえで、夜窓を開け放していれば、彼が勘違いするのは当然だ。それも私には自殺をしかねない要件が十分すぎるほどに揃っている。


色々と思うところはあるが、ソラのいないうちにしなければならないことがある。急いで玄関へと向かうと、玄関の側の棚に、それはあった。



「手紙……、」



きっと受け取ったところで訪れた男に聞いたのだろう。部屋の窓が開いていると。明るい色のカーテンがはためいていれば夜中でも十分目視できる。手に取った手紙はかっちりと蝋で封をされていた。その印に見覚えはない。

心の中で何も知らないで飛び出していったソラに謝りながら封を切った。


しかし封を切ったところで、先週の私の思い違いに気が付いた。


ソラルティエ・ヴァン・ウォルター大尉。

『王妃の実姉、ステラ・フォン・ハインゼンに関する観察報告』




**********




「お帰りなさい、ソラ。」

「す、ステラ様……!?」



朝、満身創痍で屋敷に帰ってきたソラを出迎えると濡れて垂れ下がった前髪の向こう側で目を剥いた。



「いつの間にお戻りに……、いえ、昨晩は一体どこへ!?」

「何を言ってるの?私は昨日ずっと屋敷の中にいたわ。雨の中、それも夜更けにどこかへ行くはずないじゃない。」

「で、でも窓が、」

「ごめんなさい、窓を閉め忘れて寝ちゃったみたいで。」

「そんな……、」



良かった……いやでも戸締りは……なんて、片手で顔を覆って空を仰ぐ彼の口からぽつぽつと零れる。

すっかり疲れ切った彼に少し申し訳なくなる。勘違いを誘発させたのは私だ。騙してはいないけれど確信犯であることは事実。多少は労わろう。



「そう、それとちょっと話したいことがあるの。」

「はあ……なんでしょうか。」

「その前に着替えね。そのままじゃあ風邪をひいてしまうわ。お茶も入れましょう。それと軽食は何かも用意しましょう。」

「い、いえそこまでせずとも、食事の方は着替えたらすぐに準備しますので、お嬢さまはお部屋でお待ちを、」

「いえ。」



疲れているだろうに、私に気を遣う優秀な世話係の言葉を最上の笑顔と共に切る。怪訝な顔をされても気にせず、週はじめの彼を真似るように。



「お客様にそんなことをさせるわけにはいきませんわ。」

「――は、」

「ハインゼン家長子、ステラ・フォン・ハインゼン。至らぬところもございましょうが家長としておもてなしさせていただきます、ソラルティエ・ヴァン・ウォルター大尉殿。」



さあ、ほんの二十時間弱しかもたない答え合わせの時間だ。




準備をして、彼の私室をノックすると硬い声が返ってくる。



「お待たせいたしました。」

「……お構いなく。」



柔和な表情も張り付けたような完璧な笑顔もソラの顔にはない。睨みつけるようなふてくされたような表情は笑っている時よりも幾分か齢を重ねているように見えた。



「ソラ、いえウォルター大尉殿でしたね。」

「ソラで結構。……なぜ、私がただの使用人でないと気が付いた?名乗った覚えはない。それから君が記憶障害を負う以前にも会ったことはないはずだ。」



敬語が外れると随分と不遜な口調だ、と自分のことを棚に上げて思う。



「非礼も承知で、手紙の方を拝読させていただきました。」

「は、良家のお嬢さまのすることではないね。」

「ええ、申し訳ございません。ただそれは貴方にも同じことです。大尉殿とあれば不用意に手紙を置いておくものではありません。それに、観察対象の自由に動ける屋敷内に報告書の複製を置いておくのも、あまり好ましいとは言えませんね。」

「……なるほど、すべて読んだということか。」



先週の私は、彼が誰かから手紙を受け取っていたと思い込んでいた。しかしそれは間違いで、実際は、彼が書いた手紙を母国の使者に預けるていたのだ。そして私は彼が預けるはずだった手紙、報告書を読むに至ったのだ。


彼ははあぁ、と長い溜め息を吐きぞんざいに椅子に座り直す。初めて彼を見たときは線の細い青年だと感じたけれど、笑顔を剥がし、敬語を外し、どかりと椅子に腰かけているともう執事の格好をした軍人にしか見えなかった。



「わかったこと、思い出したことを話しますが、よろしければ間違っているところは教えてもらえませんか?」

「……思い出したのか、最後の日のことも。」

「記憶にあった最後の日から、貴方がここへ来た日、今の今まですべて。」



草臥れた溜め息と共に続きを促される。



5年ほど前、私は雪の積もる街へと繰り出た。家族の目を掻い潜って、一人街の中へ。空気のきれいな冬の夕暮れ、時計塔の上から橙に染まった空と海に吸い込まれる夕日が見えるのだと聞いて。冷えて少し凍った道を歩いていた。それは唐突だった。


パン、と軽い音がして、鉛の矢に貫かれた。


今思えば王子の婚約者としての自覚が足りないの一言に尽きる。

幸い、命に別状はなく、私を銃で撃った犯人もすぐに捕まった。犯人は冷戦中の隣国の軍人でしばらくして処分されたらしい。そして撃たれた私はショックから記憶の障害が残った。撃たれたその日の記憶は途中でとぎれ、それ以降の記憶は一週間しか持たなくなった。


婚約者という役から罷免され、代わりに妹のマリアが婚約者となった。

家族の誰もが、悲しんでくれた。


この冷戦中の唐突な発砲事件で、クィントゥス、ヴァルテリア、両国の関係は悪化し、そして戦争になった。そんな中、マリアはクィントゥスの王と結婚し王妃となった。そして両親には田舎の管理ではない新たな仕事が与えられ、この土地から離れた。

本当は私も連れていきたかったらしい。記憶が持たないとはいえ家族であることには変わりはない、と。けれど結局、私はここへ残ることになった。それはとある週に覚悟した私の選択だった。この土地を離れたくないと、他でもない私が主張したのだった。


結果的に言って、戦争はクィントゥスの敗戦だった。田舎で火の粉を浴びることのなかったこの土地では、どれ程の戦いだったのか、どのくらいの期間の戦いだったのか、わからない。


王は、殺された。一族郎党、皆。父も母も妹も。

そして記憶障害を負い田舎で一人療養していた私だけが残された。


戦勝国ヴァルテリアは私という存在をもて余したのだろう。戦犯でなければ戦争があったことすら覚えていない。敵国の王の親族にあたるが、自分の妹が王と結婚したことすら認識していない。殺してもよかった。けれど元をたどれば戦争の原因は自国民の暴走であり、それにより狙われた私は完全な被害者だった。


撃たれる日の昼間で時間の止まった私は、結局監視の下捨て置かれることなったらしい。毎週毎週、何か異変がないか連絡をしながら。三年以上前からずっと、彼は一人で私の監視をしていた。



「……昨晩のあれは、私を屋敷から離すためのものか。」

「ええ、申し訳ありませんが、昼に話した雨と海の話も全て出鱈目です。」



流石に朝まで探し回られるとは思っていなかったが、申し訳なさがあるのは事実のため黙っておく。



「ところで、何故貴方が私の見張りをすることに?軍事の方面には疎いのですが、大尉殿ともなればこのような終わりの見えない仕事をいつまでもしていられるとは思えないのです。」

「…………、」

「お聞かせ願えませんか?どうせ明日の朝には何も覚えていないのですよ。」

「開き直るか。今週の君は随分と逞しい。聞いたところで明日には忘れているというのに。」



皮肉まじりのそれを黙殺して、促すようにじっと見る。彼はバツが悪そうにガシガシと頭を掻いた。



「……私は先の戦争で采配を間違え、部下を死なせた。実質これは左遷だ。時間無期限の罰則。そして、」



人当たりの良い使用人の皮を脱いでから初めてみる、少し戸惑うような躊躇する表情をした。



「……君を撃った男は、私の兄だった。」

「え……、」



あの日の夕方が蘇る。私は、私を撃った男の顔を見ていた。がっしりした体格の男。憎々し気な双眸で私に銃口を向けていた。



「あまり、似ていないんですね。」

「……言うことに欠いて、それか。結局のところ、私が適任だったのだ。戦争の引き金を引いた奴の親族、失策で部下を死なせた役立たず。無期限の任務を言い渡すには御誂え向きだ。」



自嘲する彼にかける言葉が見つからなかった。私が何を言っても、きっと白々しいだろう。


彼を恨めばいいのだろうか。彼の兄のせいで記憶に障害を負い、未来を失った。

彼を憎めばいいのだろうか。彼の母国のせいで私の家族は、国は永遠に失われた。



「それで、どうだ。」

「どうだ、というと?」

「私が君の持つすべてを奪った者だとわかった気分はどうだ。殺意でも湧いたか?罵るか?」

「……いえ、特には、」

「……何?」



怪訝そうに顔を顰める彼に、なんと返せばいいか逡巡する。



「だって、貴方を憎んだって恨んだって、何も変わらないでしょう。恨んでも、憎んでも、もう明日には忘れてしまいます。」

「……明日の君はその恨みも憎しみも覚えていないだろう。だが今の君には、怒る理由がある。」

「……怒るには、もう遅すぎました。強いて言うなら、何もかも忘れてしまっていた私自身に、怒りたくなります。」



恨むにも、憎むにも、もう遅すぎた。もう何もかも終わってしまっているのだから。


私の大切なものが失われたとき、きっと私は気が付いていなかっただろう。その時点でもう私は怒る機会を逃してしまったのだ。大事なものが奪われて、その奪われたときも、私はただゼロから始まる一週間を諾々と過ごしていたのだろうから。



「むしろ、仕事とはいえ軍人でありながら私の面倒を見ていてくれたことがありがたいです。毎週毎週、何もかもを忘れて、忘れたことを嘆く私は、鬱陶しかったでしょう。」

「……君は、あまり手がかからなかった。君のすることは大抵毎週一緒だし、言うことも一緒だった。ただまあ今回は凄まじいイレギュラーだったが。」



こんなことまで監視対象に言ってしまうなんて、という彼はもはや投げやりになっていた。



「それで、どうするんですか?」

「どう、というと?」

「異常がないか、報告していたのでしょう?今週の私は結局すべてを思い出してしまいました。あの雪の日から、今まで私が過ごしてきた5年以上の間に起きたことも。」



彼は嗤う。何を笑ったのかまでは、わからなかった。

監視が目的だった、報告書も毎週送っていた。ならば異常があったと報告した場合の行動は。



「君がすべてを思い出した時、反抗の意思を見せるようなら、殺せ、と。」

「…………、」

「そう、言われている。」



少し青ざめているように見える彼は、私を殺すつもりなんてなかったのだろう。彼がここへ来たのは3年以上前だ。最初はともかく、この3年私は何の異変も見せず、思い出すそぶりも見せず、ただただ1週間分の記憶を更新しては削除するだけの生活を送っていた。彼もきっとそれが続き、殺す日が来ることはないと諦めていたのだろう。



「そうですか、ではどうぞ。」

「……どうぞ、とはなんだ。」

「痛いのは苦手なので、一思いに殺していただけるとありがたいです。」

「なにをっ……!」



けたたましい音共に椅子が蹴倒され、目を丸くさせた。青い顔をしていた彼が、今は怒りに顔を染めていた。



「なぜ……なぜそんなことを軽々しく言える!生きることを許されているなら、なぜ容易くそれを捨てようとする!」



なぜ彼がこうも怒っているのか、わからなかった。



「もう、いいでしょう。」

「良いって……、」

「1週間分の記憶を得ては失う、それを認識し、もう私の大切なものは何もないことを知り、もはや私にできることは何もなく、ただ無為に生きていく。そこに何の意味があるのでしょうか。何一つ希望も未来もないことを知って、どうして生き続けたいと思えましょうか。」



もうここには何もない。大切な者も、脆弱な記憶も、希望も未来もない。生きていきたいと思えるものが、何もない。



「生きている理由がありません。しかし死ぬ理由はあります。」

「…………、」

「私は死ねば、きっと家族に会いに行けます。私は死ねば、永遠の無為な1週間に終止符を打つことができます。そして何より、私が死ねば貴方はきっと母国へ帰れるでしょう?」



明るい青い色の目が見開かれた。



「3年、貴方にはお世話になりました。貴方がいたからこそ私は生きながらえることができました。しかし、もう十分です。無期限の罰は、これで終わり。感謝しています。だからこそ、ここでもうおしまいにしましょう。」



心底、感謝していた。穴の開いた鍋のように記憶を取り落す私に随分と長い間付き合ってもらっていた。だからもうこれで彼を解放したい。私が死ねば、彼はもうお役御免。元の仕事に戻ることができるだろう。少なくとも私は、もうこんな無為な生活に彼を付き合わせたくなかった。



「…………駄目だ。」

「……なぜ、」

「駄目だ。私は、君を殺さない。私は君を、殺せない。」



強く握られた手、耐えるような低い声は何かを抑えつけるように震えていた。



「君は何も悪くない。ただの被害者だ。それを殺すなんて、すべきではない。」

「……しかし、貴方は私が死なない限り、この場所から離れることはできないでしょう。」



この街はもう、きっと死んでいくだけだ。人は減っていく。広すぎる土地はきっと持て余されわざわざ再統治されることもないだろう。私にはもう先がない。けれど彼にはまだたくさんできることがあるだろう。少なくとも、壊れかけの私に付き合うよりもずっと、素晴らしい未来がある。



「この話は、もう終わりだ。私は君を殺さない。私が報告をしない限り、今週の君が記憶を取り戻したことは誰も知らない。いつも通りの1週間だったと報告すればそれで終わりなのだから。」



切り上げるように、彼は部屋から出て行った。一人、彼の部屋に取り残され、途方に暮れる。自殺をすれば手っ取り早いのだが、私にそんな勇気はない。そして何より、あれだけ怒った彼の意に背くようなことをしたとき、彼はどんな顔をするだろうか。本当に、清々した、という顔をしてくれるだろうか。


私はどうしようもなくなって、自室へと向かった。

今週あったことを、来週の私へと伝えるために。



何も知らない、5年前の私が混乱しないように掻い摘んで、一部を隠して日記を書く。

記憶が1週間しか持たないこと。感覚として今が5年後であること。一人、世話をしてくれる人がいること。書いていてわかった。ノートを読んでもいまいち状況を把握できなかったのはかつての私たちが未来の私に対して配慮した結果だったのだろう。すべてを受け止めるには、1週間という時間は短すぎる。だからせめて辛うじて穏やかに1週間を過ごしていけるように。


でもハタと思う。私は来週の私にどうしてほしいのか。

悩んだ末「自害しなさい」と書いて、それを黒く塗りつぶした。


きっと私はどうすることもできない。


「忘れてしまったことを、忘れないで」


先週の私の言葉が痛いほどわかった。




夜まで結局、彼はいつも通り、今まで通りに過ごした。淡々と、私の世話をする。そこに笑顔も敬語もないけれど。きっとこの1週間の私をなかったことにするつもりなのだろう。明日からは今まで通り何度も交わしたやり取りをする。

時計が深夜を指していても、眠る気にはなれなかった。もしかしたら、寝なければ記憶は保持されるかもしれない。寝てしまうからいけないんだ、と。起きてさえいれば、来週の私はまだ今週の私でいられるはず。

わかっていたのに、わかっていたのに恐ろしくなった。この記憶が失われてしまうことが。また私は何も知らず、明日から無為な一週間を送ることが。



「まだ、起きていたのか。」

「眠りたく、ないので。」



ああついにノックすらしなくなった。いよいよ着ている執事服がただの飾りになってしまう。



「でも眠いのだろう?」

「……ええ、でも眠りたくないんです。」



眠ればきっと、この一週間はなかったことになってしまう。

突然、腕を掴まれベッドに転がされる。



「ちょっと何をっ……!」

「……良いから、寝ろ。寝てしまえ。」



一瞬の危機感のあと、ふかふかのベッドの中へと詰め込まれた。手足をばたつかせてもまるで抵抗にもならない。寝たくないのに、眠りたくないのに眠気が襲う。温かく寝心地の良いベッドを初めて恨んだ。私の身体を抑えつける手は乱暴ではない。それなのに全く振りほどけなかった。ゆるゆると、温かい水の底に沈んでいくように意識が溶けていく。


ああ嫌だ。眠りたくないのに、忘れたくないのに。



「忘れてしまえ、すべて。何も気にすることはない。何も憂うことはない。ただ君は、生きていればいい。」

「嫌……私は、」



身体が重く、目を開けていることさえも億劫になる。

ひどく、眠かった。

追い打ちを掛けるように、大きな手が私の目元を覆う。真っ暗になる視界、触れた手のひらから伝わる温かさに、足をとられた。



「愛してる。」



思わず意識が浮上した。起き上がろうとしてまた抑えつけられる。



「だから、」



何のつもりか、聞かなくては。仕事を押し付けられた可哀想なこの軍人が何を考えているのか。そう思ったのはほんの一時のことで。



「だから、何もかも忘れると良い。真実も、私の思いも、すべて。」

「ソラ、」



忘れたくない、忘れちゃいけない。どうか私から奪わないで。



「おやすみ。さようならステラ、また明日。」



また明日、なんて。明日の私は貴方の名前も呼べないのに。


何度でも私を騙し続ける貴方は明日、何回目のはじめましてを私に言うんだろう。


はじめましてと私に言う貴方は、どんな顔をしていたっけ。




*********




ふわりと水面から顔を出すように意識が上昇する。目を開けるといつも通りの天井が出迎えた。眠気の残る身体を起こすと部屋に違和感があることに気が付いた。天井も壁も、私の記憶にあるものと変わらない。けれど見覚えのある調度品やカーテン、それから机の上に並べられたノート達に首を傾げる。


期待に駆られ、青いカーテンをひく。

私の部屋の窓からは、街が見えた。少し記憶をたどればわかることだ。


外を見て愕然とした。

高台にある家からは、街が一望できる。

街には一点の雪もなく、カラフルな屋根が日に照らされ、時計塔は眩い太陽を刺そうし、青々と煌めく海は空との境界に入道雲を乗せていた。



「……ああ、」



見覚えのある景色だった。

それは昨日、私が見た景色そのものだった。



「覚えてる……、」



何もかも覚えていた。取り落すことなく、私は昨日から継続された私であれた。

茫然としながら、青々とした空と海を一人眺めていた。


なぜ記憶を保持できなくなったか。それは撃たれたという命の危機にさらされたショックからだった。何か身体に異常があったわけではなく、精神的なもの。

そして私は昨日、そのショックを受けた日のことをソラの手紙を読んでいる最中に思い出し、さして衝撃を受けるでもなく受け止めた。もう過ぎたこととして、終わったこととして。

ある意味必然と言えば必然だったのだ。防衛機能で働いた記憶の放棄。防衛する必要がなく生きていけるのであれば、その機能は働かない。


一週間で記憶を失うことは、私を守るためのものだった。

けれどそれももう必要ない。



控えめなノックが部屋に響いた。

扉を開けてすぐ、はじめましてなんて嘘を吐く彼に、なんて言ってやろうか。



「……どうぞ。」



全部忘れろ、なんて無理な話。血反吐が出そうな苦し気な声じゃ、上手に嘘も吐けないでしょうに。

盛大に笑ってやろうか。泣いて困らせようか。何もかも忘れたふりをしてにやにやしようか。



「ああ、ステラ様起きていらしたんですね。」

「貴方は、」

「初めましてステラ様、私は貴女様の世話係をしている者です。どうぞお見知りおきください。」



ニコリと笑って言いなれた嘘を吐く、それは。



「ああ、ひどい顔ね、ソラ。」



明るい空色の目が見開かれたのが見えて、それから滲んだ。

後でしっかり笑い飛ばすから、今は見てみぬふりをして。


これからのことはわからない。でもきっとそれはこれから考えて行けばいい。

私たちにはまだまだ、時間があるのだから。

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― 新着の感想 ―
[良い点] ソラはあまり手がかからなかったと言っていますが、毎週記憶を失う主人公を5年間世話するというのは、罪とはいえ重すぎるのでは感じてしまいました。はじめましてといった回数も200回では済まないで…
[一言] なん度も読みに来てしまう。余韻やら切なさやら、最後、打ち明けた時がとても好きです。 続編の執筆予定があるとのことでとても嬉しく思っております ラスト、ソラがどんな反応をみせるのかとても楽しみ…
2017/08/31 20:49 退会済み
管理
[一言] 読み終わってとても心地よかった。 できるなら続きが読みたいです。
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