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あれからひと月が経とうとしていた。けっきょく、ケンタロウには連絡してない。一応、もらった名刺は机の一番上の引き出しにしまってある。でもそこに書かれた番号からは目を逸らしている。アカリとお母さんはどこかの週末に二人で鷹匠のイベントに行ったみたい。
「アキナちゃんも行こうよ」
アカリがいつかみたいに誘いに来たけど、なんとなく断ってしまった。会いたくないわけじゃない。まだ会っちゃいけないと思ったから。
でも、いつかちゃんと再会したいとは思う。
だから、この一ヶ月でわたしの生活はかなり変わった。少しずつ、変わらなくちゃって思いが強くなった。
まず生活リズムを戻す。これがいきなり大変。数ヶ月にわたって染み込んだ時間の概念を無視した生活は、すっかりわたしを夜に寝られない体質にしてしまった。なんかね、空が暗くなると目が冴えてくるの! そこでわたしがとったのは一日中寝ない作戦。今まではだいたいお昼を過ぎたあたりから寝て夜に起きる生活だった。その昼に寝るってのを我慢する。夜九時に起きてから昼間寝ないで次の日の夜九時までおき続けた。さすがに最後の方はクラクラしたけど、少しずつ修正してなんとか夜寝る生活に戻れた。
あとは昼間に外に出るようにした。別にどこかに用事があるわけじゃなくてね。小学生が好き勝手に歩く道とか、近所の川辺を散歩してみたりとか。あとは公園で他の人に混じって昼の人間らしく振舞ったり。
昼間の生活に戻ってきて、鈍っていたいたわたしの感覚はオーバーヒートを起こしかけた。部屋の外ってものすごい量の情報が溢れている。
暑い風が肌にまとわりつく感じとか虫たちの鳴き声とか。日なたを歩いたあと木陰でゆっくり休むと、太陽の光ってものすごいエネルギーがあるんだなって実感する。ごろんって寝ころんで目を閉じると、カップルの笑い声とか子どもたちの笑う声が周囲に溢れてるのを感じられる。嫌いだと思ってたのに、ホントに見方によって世界が変わるの。
鷹匠のイベント以外ならアカリとも何度か出かけた。同じような散歩コースに飽きた日とかに少し遠くまで。ほとんどが買い物だったけど、一回だけわたしが行きたいところの希望を出したことがあった。
「ねえ早く次行こうよ。ぜったいペンギンの方がおもしろいんだから」
「待って。もうちょっとカワウソ見てたいから」
電車とバスを使って向かったのは隣の県の水族館。見たいなにかがあったんじゃなくて、一度も行ったことなかったから行ってみたかった。
半日かけてゆっくり回って、そろそろお腹がすいたからどこかで食べて帰ろうということになった。だけどわたしは、出口近くで本日二回目の「待って」をアカリに要求する。
「見てよこれ。このペンギンのぬいぐるみ。背中のとこの触り心地。さらさらで気持ちいいよ。こっちのエイのぬいぐるみも! ほら、触ってみ?」
わたしが一生懸命説明してるのに、アカリは距離を開けて変な人を見るような目を向けてくる。お土産コーナーで騒ぐ女子高生はそんなに異常か。
「アキナちゃんってほんとに動物好きだよね」
「そう? 普通じゃない?」
呆れたような声で言われたけど、エイとペンギンのぬいぐるみを交互に抱きながら返す。
「部屋にいっぱいいるじゃん。あたしの友達にもあんなに持ってる子いないと思う」
悩んだ結果、二匹とも無理やり購入。八千円弱飛んでったけど気分はルンルンって感じ。
「あれ、なんの話してたっけ? アカリ」
「お母さんにもらった軍資金を一人で使い切る悪人についてのさいばん!」
わかったわかった。帰りはアカリの好きなもの食べて帰ろう。
***
八月が半分くらい過ぎてから、お母さんが部屋にくる頻度が高くなった。そんなに長くは話さないけど、ちゃんと目を見てぎこちなくないようにしゃべろうと頑張る。それから、お昼ご飯と、お父さんが仕事で遅くなる日の夕ご飯は一階で食べるようにした。もちろん、引きこもる前みたいには振舞えなかったけど、少しずつ会話をして、おいしいって言えた。ご飯のリクエストを訊かれたときは、決まって大好物のハヤシライスをお願いする。
いつもおいしいご飯ありがと、お母さん。
***
それから、お兄ちゃんの部屋に毎日行くようになった。だいたい夕方の四時から五時までの間に。お兄ちゃんが大学の用事とか遊びに行くとかでいない日以外。なにをするかっていうと、二人でゲームをしている。しかもわたしが小学生のときにやっていた冒険ゲームだ。
「よくまだこんなの持ってたよね」
聞けば、いつだかわたしの寝床を占領していたおもちゃ箱は、お兄ちゃんが置いていったものらしい。中に入っていたのは古いテレビゲームの本体やゲームのソフトたち。
「なんかさ、ずっとアキナ暗い顔してたから。でもオレがアキナと遊んだのってこれくらいしかなかったから」
呆れたというか驚いたというか。わたしに笑ってほしくて子どものときのおもちゃ探してたって。しかもずーっと話し出せなくてようやくって。
お兄ちゃんのそういう不器用さが、なんだかとっても懐かしかった。
いつもみたいに今日はどんなゲームをやろうかなっておもちゃ箱の中にあるゲームソフトを漁っているとき、あるソフトを見つけてわたしの手が止まった。
「これって……」
入っているソフトは冒険ものばかりだったはず。ゲームそのものはお兄ちゃんのものだったから、自然とソフトもお兄ちゃんの好きなものを買ってもらってたはず。それなのに、一つだけ異彩を放つパッケージがあった。
「こんなの、あったなぁ」
わたしが持ち上げたソフトを見てお兄ちゃんが呟く。冒険とは全く無縁の、ただゲーム内で動物たちの世話をして育てるだけのゲーム。
「懐かしいなそれ。たしかアキナが唯一母さんに泣きついて買ってもらったやつじゃん」
ああ。遠い記憶を手繰り寄せる。そんなこともあったような。
「なんで忘れてたんだろ。すっごく必死でねだったはずなのに」
少し汚れて傷がついたソフト。ゲーム機に差し込むと、懐かしい音楽とドット絵がわたしの記憶を刺激する。ゲームをロードすると、画面の中でわたしと同じ名前の女の子が動物に囲まれている。
「このゲームやらなくなったのってアキナが五年の時くらいからじゃないか? ほら、。学校の飼育委員に入ってからだよ」
飼育委員。そういえばやってた気もする。
「ちょっと部屋戻る。続きやっていいよ」
持ってたコントローラーをお兄ちゃんに渡してわたしは立ち上がる。
「えっ、いや別にやらないからそのままにしとけば点けとくけど」
託されたゲームに困惑するお兄ちゃんを置いて部屋に帰る。アレはどこにやったっけ。どこかにしまってあるはず。
机の引き出し、中学生の頃の通学かばん、よく使ってたポシェットや手帳。懐かしいものを発掘しては中を見る。ダメ、無い。
額を流れた汗をぬぐったとき、ようやく机の裏から目的のものが見つかった。
すっかりホコリを被った長方形の箱。小学生のときに使ってたお道具箱。たしかこの中にしまったはず。祈るように蓋を取って中のものを取り出す。
「あった……」
小さいハサミやらカチカチの液体のりの下から出てきたのは何枚かの写真。そのうちの一枚を手に取る。
「やっぱりかぁ」
写っていたのはニワトリを抱いて笑う小学生のわたし。ウサギにエサをあげてる姿や飼育小屋を掃除してる写真も出てくる。一緒に写ってる人や動物は違うけど、どの写真でもわたしの笑顔は変わらない。それもほんとうにわたし? って疑いたくなるくらいの笑顔。
さっきのゲームの世界から飛び出してきたみたいなわたし。笑っている過去の自分の上に、1つ、二つ、と涙が落ちた。
「なんだ、わたしにもちゃんと、好きなものあったんじゃん」
例外は一番下の方にあった写真。たぶん六年生の最後の頃。小屋の前で無表情で立っている。この写真があるのはわかっていた。卒業式の数日前、寒い日の朝に小屋の中で冷たくなってるウサギを見つけてからあとに撮られた写真。下の方にあった写真のわたしは、どれも動物と一緒には写ってない。
見終わった写真を丁寧に箱に戻す。被っていたホコリをゆっくり拭いて、机の上にスペースを作る。最近はめっきり使わなくなったパソコンをどかすと、ちょうどいいくらいのスペースが空いた。
***
八月も残りが一週間になってしまった。引きこもってから感じた中で、一番短いと思った一ヶ月だった。少し前じゃ信じられないくらい外にも出た。家の中にいたら感じなかったことをいっぱい体験した。色んな人と、自然に話せるようにまで戻ってきた。話す相手はお年寄りが多いけど。少なくとも、わたしが見る世界は変わったと思う。だから、ちゃんと話さないといけない。
「お父さん」
夜の十一時。最近のわたしじゃかなり眠くなる時間。仕事から帰ってきた父がスーツのままリビングでお酒を飲んでいる。わたしは二人っきりのリビングで父の向かいに座る。
「珍しいなお前がリビングにいるなんて」
朝早く出て夜遅くに帰ってくる父は最近のわたしの生活リズムを知らない。お母さんから聞いてるけど知らないふりをしてるのかもしれない。
「うん。……あのね、わたし、ちゃんと学校行こうと思うの」
何回も頭の中で繰り返した言葉なのに、しゃべるのがものすごく難しい。父の細い目がわたしをじっと見つめる。
「そうか。お前がほんとうに嫌なら無理することもないぞ。生きていくだけなら、案外なんとかなる」
そう言った父は、わたしよりずっと後ろのなにかを見つめていた。
「なんとかなる、じゃダメなの。ちゃんと生きていたいの」
そう。人生意外となんとかなってしまう。吸って吐いて、機械とかぬいぐるみみたいにじっと存在しているだけなら。
誰にも邪魔されず、誰にも干渉しないように、じっと隠れるように生きていくだけなら。でもそれは違う。それを生きている、だなんて表現したくない。なにが? と訊かれても具体的には答えられないけど、なにか大事なものが足りない。
「わたし、医者になりたいの」
「医者?」
初めて父の表情が崩れた。不思議なものを見るようにわたしを見てくる。
「あっ違うの。医者っていっても動物のお医者さん」
まだ気持ちだけしかないけど、自分の好きな生き物たちのために生きたい。もう、苦しんでる子に気が付かないなんてしたくない。
「なれるかとか、全然わかんない。勉強もいっぱいしないとみんなに追いつけないのもわかってる。でも、ちゃんと目標持って、ちゃんと前に進みたいの」
父が目を閉じて、しばらく重い沈黙がリビングに広がる。わたしの心臓はすんごいバクバクしてて、今にも口から飛び出しそうになってる。
耐えられなくて、なにか言おうと思ったとき、急に父が立ち上がった。コップに水を入れた父が一気にそれを飲み干す。
「そうか」
それだけ呟いて、父がお風呂の方に歩いていく。
「お前が決めたことなら頑張れ」
父が脱衣所に消えた瞬間、自分が一回りくらいしぼんだんじゃないかってくらい全身から力が抜けた。今の今まで呼吸を忘れてたみたいに活発的に呼吸行為を繰り返す。
よし。
わたしは父とは逆の方向に歩き出す。リビングを抜けて玄関へ。スニーカーを履いて外へ。散歩とは違う。歩き慣れた道を、ダッシュで駆け抜ける。前に進もうとしてなのか、あるいはなにかから逃げようとしてなのか。理由はよくわかんないけど、少しでも気持ちが暗い方に行きそうになったり迷いそうになったら思いっきり走る。アイツと合ってから増えたわたしの新しい習慣の一つ。
走るとね、もやもやした気持ちとか抱えてる悩みとかがどっか遠くに行くの! ずっと走った先に、わたしを待ってるなにかがある気がする。
近所の公園は夜になると誰もいなくて、わたしの足音だけが周囲に響く。ペースを考えないからダッシュしたり早歩きになったりする。口の中にやっぱり鉄の味が広がるけどまだ走れる。もっと進める。
酸欠になりながら家に帰ると、さすがに父はもう寝てて、わたしは家族の邪魔にならないように静かにシャワーを浴びた。やばい、かなり眠い。
髪を乾かすのも億劫で、ゾンビみたいにベッドへ倒れこむ。寝る前に少しだけネットサーフィン。スマホを操作して気になる記事がないかチェック。前はこれを一日中やってたのかと思うとある意味すごいなと思う。
その時わたしが見ていたのは、誰でも自由に発言できてそのコメントを拡散したり褒めたりできるもの。半分寝落ちしながら画面をスクロールしていると、一瞬なにかが目に留まった。
『あなたには、愛する人がいますか?』
前に見たことある文句とサイトへのURL。たしかその時はくだらないってすぐに閉じた気がする。それが何千人もの人に拡散されてる。ついてるコメントは前と同じようにコメント主を嗤うようなものが多い。でもちらほらと「書き込みました」と報告みたいなものがある。
わたしはぼんやりしたままサイトへ繋ぐ。読み込み終わって現れたのは、すごくシンプルな画面。例のあなたには~という言葉と、サイト作成者に直接メッセージを送るためのページ。
愛、ねぇ。
最初にアカリの顔が浮かんだ。でもすぐに靄がかかって、次の瞬間には一匹のタカの顔になっていた。そのタカを撫でる男性の声も聞こえる。
「愛着はあるし」
そう言って、嬉しそうにタカを撫でるアイツ。
「ぜったいちがう!」
眠気が一瞬で吹き飛んだ。激しく起き上がったせいかベッド脇のぬいぐるみがコテンとわたしの方に倒れてくる。
暑いのは気温のせい? 心臓が激しく脈打ってるのは走ってきたせい? じゃああいつの顔がどんどん浮かぶのはなんのせい?
「なんなんだよもう」
とりあえず一番近くにあったぬいぐるみに手を伸ばす。ちょっとブサイク顔の猫のミャーナ。従妹のおばさんにもらったお気に入り。彼女をぎゅっと抱きしめる。
もう自分を誤魔化すのは無理かもしれない。
気が付くと、わたしはメッセージ作成の画面を開いていた。このサイトの作者の意図はわからないけど、個人が特定できるようなこと書かなきゃいいか。
たまになら、夜更かしも悪くない。動物の可愛さと、まあちょっとはアイツのいいところも書いてやるか。
「初めまして。わたしの愛する人は――」




