最終話《人を模した君へ》
海は、静かで、広くて、誰のものでもなかった。
そこに、優希がいる。
波打ち際まで駆けていく。
水しぶきに驚き、思わず笑う。
その声は、ニュースの中にも、研究データの中にも存在しない音だった。
潮風が髪を揺らす。
足元の砂が、沈む。
「不安定な地面」
そう言いながら、もう一歩踏み出す。
後ろで、美悠が小さく笑う。
「転ぶなよ」
「転倒確率、上昇中」
「だから分析すんな」
蓮が肩をすくめる。
空は高く、青く、果てがない。
あの日、灰色のニュース画面に閉じ込められていた世界とは違う。
BHCのニュースは、もう過去の話題になりつつある。
世論は移ろう。
議論も、炎上も、やがて別の対象を探す。
けれど。
ここにいる三人の時間は、誰にも奪えない。
優希が空に片手を伸ばす。
手のひら越しに、太陽を透かして見る。
波が足元に寄せてきて、くるぶしを掠めた。
「足に水分付着。これ、しょっぱい?」
「それ海水だから!」
笑い声が、風に溶ける。
少し離れた場所で、美悠と蓮が並んで立っている。
守るでもなく、守られるでもなく、ただそばにいる。
それだけでいい距離だった。
美悠がぽつりと言う。
「さ、どうする? これから」
優希は振り返り、ほんの少し考えて言う。
「未定。けど、選択可能」
蓮が息を吐く。
「前より、人間っぽいな」
優希は首を傾げる。
「前も、人間だった」
その言葉に、美悠の胸が高鳴る。
優希が波の方へと戻る。
砂だらけの足で、また笑う。
その姿を見ていると、ふと、美悠の胸に温かい風が通りすぎた気がした。
視界の端に、もう一人の優希がいる。
九年前の、あの日のままの優希。
制服姿で、少し照れくさそうに美悠を見ている。
海ではしゃぐ今の優希の隣で、同じように笑っている。
そして、ゆっくりと美悠に向き直る。
そして――また微笑んだ。
許された気がした。
もしかしたら、最初から責められてなどいなかったのかもしれない。
気づけば、そこにいるのは、いま走っている優希だけだった。
美悠の胸の奥に、長く絡みついていた何かが、ほどける。
守れなかったという後悔。
止まったままの時間。
それが、波にさらわれるように静かに引いていく。
美悠は、小さく息を吐いた。
「……ありがとう、優希」
声は風に溶ける。
「今、目の前にいるあんたは、必ず守る」
美悠は涙が止まらなかった。
「美悠……どうした?」
蓮が心配そうに顔を覗き込む。
「大丈夫。なんでもない」
涙を拭う。
「……生きてるんだね、私たち」
蓮を見る。
海ではしゃぐ優希を見る。
「私も、蓮も、優希も」
小さく、でも確かに言う。
「これからも、生きるよ」
その言葉は、過去への誓いではない。
未来への選択だった。
人を模した君へ。
君は法律の条文じゃない。
研究資料の番号でもない。
炎上の象徴でも、成功例でもない。
あの日、拘束された部屋で震えていた君も、今、海に向かって走る君も、――同じ君だ。
人権は、与えられるものじゃない。
倫理は、誰かが定義して完成するものでもない。
隣で「生きている」と認めた瞬間、それはもう始まっているのだと、私たちは知った。
優希が、砂浜に座り込む。
指で砂をすくい、こぼす。
「形、崩壊」
「それ普通だから」
「けど、また作れる!」
両手で、小さな山を作る。
すぐに波が来て、さらう。
優希はそれを見つめる。
「消える」
美悠が隣に座る。
「でも、また作れるでしょ」
優希は頷く。
「再構築、可能!」
その言い方は、もう機械的ではなかった。
――優希。
君は人を模していたんじゃない。
君はただ、生きていた。
優希が振り返り、大空に両手を広げる。
「……温かい!」
それは廃熱じゃない。
太陽の熱。
風の温度。
隣にいる二人の気配。
あの夜、廃熱を逃がせないほど感情を振るわせた君は、いま、波と戯れて笑っている。
確かに、生きている。
それは不具合なんかじゃない。
優希は小さく息を吸い、言った。
「ここにいる」
それは報告ではなかった。
宣言でもなかった。
ただの事実だった。
その声を聞いたとき、思った。
それは、きっと――生きると決めた、この世界に恋をしたんだ。
優希。
君は、確かに生きている。
そして、これからも。




