乙女ゲームの世界に転生しました?(1)
赤レンガのバルコニー、白っぽい空。テーブルの上のクッキーと紅茶。
目の前で紅茶を口に含む、黒シャツに黒ズボン姿の魔王様。
きっとこれは夢。懐かしい、六年前の記憶。
「さて、あっちの世界の人生も捨てたわけですし」
「まだ捨ててません」
魔王様の言葉にこう返せば、魔王様は胡散臭い顔で笑う。
「でも捨てる気だったでしょう」
今とは違う丁寧語。それに魔界語じゃなくて日本語だ。
「どうせ捨てた人生、この手に委ねてみませんか」
出会って十分足らずの不審者、というか誘拐犯に、あの時は警戒心しかなくて。
「嫌だって言ったら?」
「のたれ死にですかね。腐っても魔界なので、危険なら掃いて捨てるほどありますし」
あっさり言う彼に、恐怖よりも安心感を抱いてしまったのはなぜなのか。
死ぬことは怖くなかった。だからその場で席を立って魔界に飛び出したってよかった。
でも、私はずっと、誰かの手を取りたかったのかもしれない。
「交渉成立ですね」
初めて触れた彼の手のひらは温かく、やわらかかった。
穏やかな気持ちで目を開ければ、視界に入ってきたのは見知らぬ天井。
身じろぎすればベッドの上で、「お目覚めですか」と老齢の男性の声がする。
ドアが開き、閉まり、部屋の外で声がして、ばたばたと足音が聞こえて。
ベッドに寝かされていたことをようやく理解した。
「ここは?」
たしか私は研修施設のお庭で魔法に貫かれて倒れたはず。ということは軍の保健室だろうか。でもそのわりには広いし掛布団の柄が可愛すぎる気もする。
上半身を起こせば、誰かの私室なのかクローゼットや勉強机があって、カーテンはピンク色。きっと女の子の部屋なんだろう。
「ああ、アシュレイ! 起きたのね! 母さんのことわかる?」
ドアを開けて乗り込んできた銀髪のおばさんが声をかけてくる。
母さん? 誰の?
「アシュレイ! 父さんは心配したぞ、学園で階段から落ちたんだって? おまえはそそっかしいところがあるからな、痛いところないか? 骨は折れてないってお医者さんが言ってたぞ」
同時に乗り込んできた黒髪のおじさんも話しかけてくる。いや、おじさん私の父親じゃないし学園なんか知らないし階段からも落ちた記憶ないんだけど。
「お二人とも落ち着いてください、お嬢様は混乱なさっておいでです」
ずっとベッドわきにいたスーツ姿のおじいちゃんがたしなめてくれるけれど、私、お嬢様とか呼ばれる身分でもないよ。
「アシュレイどうしたの? まさか記憶がなくなっちゃったの? ああ、そうなのね? 大丈夫よ、母さんはアシュレイの味方よ」
突然抱きしめてくるテンションの高いおばさん。質のいいワンピースが頬に当たってちょっと気持ちがいい。って気持ち悪いなおばさん! いきなり抱きついてくるとか欧米か!
「奥様、お嬢様が白目をむいておられます。落ち着かれてからになさった方がよろしいかと存じますが」
スーツ姿のおじいちゃんがおばさんを優しくなだめ、おばさんは「そうね、またあとで来るわね」とおじさんと目配せし、まるで嵐のように去って行く。
いったいなんなんだあの二人。
「お嬢様、大丈夫ですか」
スーツ姿のおじいちゃんはそう言って肩にショールをかけてくれる。ちょっと暑い。
「あの、あなたは? それにここはどこですか」
私が聞けば、おじいちゃんは目を伏せて、ややあって答えてくれる。
「爺やでございます、アシュレイお嬢様。あなたの生まれる前からお仕えしております、当カプチーノ家の執事でございます。ここはお嬢様のお部屋でございますよ」
この人は何を言っているのか。
「私は雪子です。アシュレイではないし、この部屋も知らないし、きっと人違いです。私帰らないと」
ベッドを出ようとすると、爺やは私の方をぐっとつかんだ。
「いけませんお嬢様、まだ意識が戻られて間もないのです。もう少しお休みになってください」
ぐいぐいと肩に力を籠められ、強制的にベッドに倒される。爺やは私の肩からショールを回収して首元まで掛布団を引き上げると、ようやく少し離れる。
「爺やはお嬢様が生まれた時から見守らせていただいておるのです、人違いなどではございません。よほど現実味のある夢を見られたのでしょう。アシュレイお嬢様は夢の中で雪子という人物であったのですね」
爺やはレースのカーテンを引くと「お食事の前にお呼び致します」と言って去って行く。扉のしまる音を最後に、何も聞こえなくなった。
アシュレイ。みんな私をそう呼ぶ。夢の中で雪子という人物だった? まさか。
お父さんの記憶も、お母さんの記憶も、私がどうやって魔王様と出会ったかもこんなにしっかり覚えているのに、どうして夢なんて言えるのか。それに私にアシュレイとして育ってきた記憶はない。だから絶対、私はアシュレイなんかじゃない。
ベッドから起き上がれば髪が視界に入ってくる。いぶし銀のように光る黒髪。魔王様にもらったヘアゴムはどこにもなくて、身に着けているのはネグリジェ。首元から下着をのぞけば、上品なレースが使われた見たことのない下着だった。
ベッドから出て踏みしめる絨毯は知らない踏み心地だし、クローゼットを開ければ、鏡に映るのは黒い髪に黒い目、ぱっとしない顔立ちと言う、私の知っている私そのもの。でも、クローゼットのどこにも着ていた服はないし、私の持っている服よりもフリルが多くて少女趣味だ。
クローゼットをあさるのをやめて机の引き出しに手をかける。そこに入っていたのは一冊の冊子。茶色い革張りの表紙には金色で「ティラミス王国立高等学園 学生便覧」と書かれていた。この学校名、「異世界王国物語」で主人公が通っていた学校と同じだ。中を開けば、色ペンで時間割が囲ってあったり、必要な教科書のところに線が引いてある。妖精学や魔法射撃演習、騎士科特修コースといった、ゲームの中で見たことのある授業名が羅列していた。
冊子を引き出しに戻して他の引き出しを探すけれど、他に手帳や冊子は見つからない。本棚には「ティラミス王国史資料集」や「妖精と思考する五十選」といった本が入っているだけであまり役に立たなさそうだ。
ただ、どうやら妖精は存在するらしい。
魔界に来てからだって妖精なんか見たことがなかったのに、ここでは妖精がいるのが常識だなんて、まるで異世界に来ちゃったみたい。
魔王様に魔界に連れてこられたのも一瞬だったし、光の筋に貫かれたせいで新たない世界に飛んできちゃったというのもあり得るかも。
そういえば、異世界王国物語の世界では魔法を使うためには妖精の力を借りる必要があって、ヒロインのキャラメル・マキアートは妖精に愛される体質のおかげで魔法がべらぼうに得意だった。
ということは。
もしもここが異世界王国物語の世界だとして、私が今ここで妖精を使わずに魔法を使えたら、私がアシュレイとか言う人とは別人だということが証明できるんじゃないか。
そう思い立って手の平を上に向ける。
『火の玉出てこい』
手の平から火の玉を出すようイメージしながらささやく。火の玉は……出ない。
え、うそでしょ? さっきまで余裕で出てた気がするけど?
『ちょっぴりリリース』
吸収した魔法が余っているかもしれないとリリースしてみるけれど、何も出てこない。
どうしよう、どうしようこれ。
『火の玉出てこい』
もう一回チャレンジするけれど駄目。
『引き出し開け』
火が駄目なら移動魔法はどうだ、と試しても不発。
光の魔法も不発。
一か月かけて使えるようになった魔法はことごとく使えなくなっていた。
これは……異世界に飛んだというよりもむしろ……いやどうだろう。
うめきながらベッドに戻れば、ふわふわのお布団。
もうどうにでもな~れ。
考えることをやめれば優しい眠気がやってくる。眠気にひきずりこまれながら、起きたら魔界に戻っていられるといいな、なんて思った。




