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指名手配犯 九条雅紀  作者: 綾見 恋太郎


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第十話 見つかった男

 押収袋は、思ったより軽かった。

 真壁彰は取調準備室の金属机にそれを置き、透明な袋越しに中身を見た。ファイル一冊、茶封筒二通、折り畳まれた導線図のコピー、数枚の確認紙、簡単な付箋の束、手帳から引き抜いたようなメモ片。拳銃も刃物もない。逃亡者らしい備品も、劇的な秘密文書の厚みもない。むしろ、誰かの机の隅から拾い集めた紙くずの寄せ集めに見えた。

 だが、その地味さがいかにも九条雅紀らしかった。

 一発ですべてを反転させる証拠ではない。見る者が勝手に結論へ飛びつくような派手なものでもない。順番がある。並べ方がある。単独では弱いが、繋げると説明の基礎そのものがずれる。その性質を、真壁は九条の仕事で何度も見てきた。

 手袋をつけたまま、真壁は袋の封を切った。立会いの係が横で記録を取る。日時、場所、押収者、押収物件の概略。紙の擦れる音だけが、小さな部屋の中で妙に乾いていた。

 一枚目は、確認紙だった。保管棟から別部署へ回される前の受領確認票。ごくありふれた内部文書で、誰がいつ何を受け取ったかを示す欄がある。だが日付を見ると、二年前のある一日に印が集中している。九条がずっと追っていた変死事案、その処理起点に当たる日だ。通常なら本票は別綴じで保管され、外へは出ない。そこに鉛筆で細い補記が入っていた。正式な備考欄ではなく、欄外の端。搬送先変更、確認者差し替え、整理前回収、という短い書き込みが、別々の筆跡で残っている。

 真壁はその紙を光へ透かし、次の紙と並べた。二枚目は運用変更メモ。公印もない、内部向けの簡易メモに過ぎない。だが確認紙と時刻を照合すると、受領確認の直後に運用が変えられているのが分かる。しかも変更理由の欄が妙に薄い。「保管効率のため」「一時的整理のため」といった抽象語だけで埋められ、誰の判断かが曖昧にされている。

 三枚目は、移送と保管をつなぐ導線図のコピーだった。古い施設図に、ごく薄い青で一本の線が引かれている。旧搬送路から保管棟、そこから整理室前の区画へ抜ける裏導線。正規の搬送ルートではない。だが、紙の端には別の確認印がかすかに移っている。つまり誰かは、その線の存在を知っていた。

 茶封筒のひとつには、差し替え前の説明紙が入っていた。広報へ渡る前の草案。事件の初期説明に使われるはずだった短い文面だ。だが最終版と比べると、二行だけ順番が違う。最終版では後ろへ回された事実が、草案では先に置かれている。たった二行だ。けれどその順序が変わるだけで、読む側の印象は大きく変わる。何が事故で、何が処理上の変更で、何が例外だったのか。その起点がずれる。

 真壁は無意識に舌打ちしそうになった。やはりそうだ。一枚一枚は弱い。だが、確認紙、運用変更メモ、導線図、差し替え前文書を順番に置けば、二年前の処理の最初の説明がどこでどうずらされたかが見えてくる。

 九条はこれを、自白として残したかったのではない。

 宿題として残したのだ。

 しかも、公的に読み直させるための宿題として。

 真壁は椅子へ深く腰を下ろし、押収袋の残りを見た。小さな付箋束には、さらに細かい断片が並んでいた。「確認前」「整理後差し替え」「先に広報」「番号不整合」「保管棟経由の理由なし」。どれも、単独ではただの疑問メモに見える。だが、さっきの紙束と合わせると、九条が何を辿ってきたのかが浮かび上がる。死体や記録が“説明”へ変換される時、その最初の順番を誰がどこで置き換えたのか。九条はそれをずっと追っていた。

 そして最後に、それを自分の逮捕時押収物にした。

 追いついたのではなかった。九条が最後に必要とした手続きを、自分の手で完了させただけだった。真壁はその不本意さごと、受け取るしかなかった。

 腹立たしさは消えない。むしろ強くなる。九条は最後まで、自分で全部を説明しない。必要な順番だけを置いて、あとの理解をこちらへ投げる。昔からそうだ。死体の説明でも、鑑定でも、言い切ってしまえば早いところを、あえて読む側に最後の一歩を歩かせる。理解の責任を相手に残す。

 だが、今回ばかりはそのやり方に、公的な強制力までついている。押収物として管理に入った以上、これはもう九条一人の私物ではない。部署が動く。照合が始まる。記録管理が触れる。広報も無視できない。切り捨てたくても、手続きがそうさせない。

 ドアが控えめに叩かれた。顔を出したのは二階堂だった。広報課の会議を抜けてきたらしく、ネクタイの結び目がわずかにずれている。ふだんならありえない乱れだった。

「入るぞ」

「もう入ってる」

 二階堂は薄く息を吐き、金属机の向かいへ立った。押収物が並んだ机を見下ろし、その視線がすぐに止まる。派手な証拠ではないことが、一目で分かるからだ。

「地味だな」

「九条だからな」

「嫌になるくらい」

 真壁は最初の確認紙を二階堂へ寄せた。二階堂は手袋をつけ、端だけを持って読む。次に運用変更メモ。導線図。差し替え前説明紙。読み進めるにつれ、二階堂の表情から余計なものが落ちていく。

「これ……」

「説明の起点がずれてる」

 二階堂は黙って最終版と草案の差を見る。たった二行の順番の違い。だが、広報の人間にはそれで十分だった。最初に何を置き、何を後ろへ回すかで、以後の読みはほとんど決まる。事故として読むか、例外処理として読むか、単なる運用上の変更として読むか。その入口が書き換えられている。

「顔まで使うか」

 二階堂がぽつりと言った。

 真壁は目を上げる。

「何だ急に」

「いや、言いたくなっただけだ」

 二階堂は机上の紙束から目を離さず、もう一度言った。

「顔まで使うか」

 その場に九条本人はいない。拘束後の手続きのため、隣室で待機させられている。だが二階堂はその不在に向けて言った。自分が広報として配った顔写真。危険性を整え、定型句をつけ、都市へばら撒いたあの顔。その公的像が、この押収を公的なものにする土台になったことを、二階堂は今まさに理解している。

「出たなら使えます」

 隣室から声がした。

 真壁と二階堂は同時に顔を上げた。ドアは閉まっている。だが完全に遮音される部屋ではない。九条の声は低く、平坦で、いつも通り無駄がなかった。

 使えます。

 その実務感に、真壁は思わず苦笑しそうになった。哲学でも反省でもない。ただ、そこにあったものを、用途に応じて使っただけだという声だった。死体を読むのと同じように、自分の顔も、公開捜査も、逮捕も、使えるなら使った。九条にとってはその程度の距離感なのだ。

 二階堂はしばらく黙っていたが、やがて椅子へ腰を下ろした。広報として、これほど苦い理解もないだろう。人を消すために整える言葉がある。逆に、誰にも消せない形で残すために整える言葉もある。九条は後者として使った。しかも、その言葉を発する役は広報自身だった。

「俺はずっと、“危険だが孤立した個人犯”に押し込めようとしてた」

 二階堂が低く言った。

「知ってる」

 真壁が返す。

「間違ってなかった」

「でも結果として、その顔を公的に固定した」

 二階堂は差し替え前説明紙を見つめた。

「そのおかげで、こいつは“逃亡犯の私物”じゃなくなった」

「そういうことだ」

 真壁は押収袋を指先で押さえた。透明な袋越しの紙束は、相変わらず頼りなく見える。だが、すでに意味は変わっている。私的な持ち出しではない。押収物だ。九条個人の主張ではない。読み直しを要求する公的な材料だ。

 隣室のドアが開き、係員が顔を出した。

「短時間なら話せます」

 真壁は立ち上がり、二階堂を見た。二人とも、いま聞くべきことは多くないと分かっていた。九条は長く語らない。聞いたところで、答えを全部は渡さない。ならば、必要な順番だけを確かめるしかない。

 隣室の九条は、簡易な椅子に座っていた。手錠は前で管理され、姿勢は妙に整っている。逃走直後の人間には見えない。疲れているはずなのに、身体の使い方に余計な乱れがない。見つかったあとも、まだ順番の中にいる顔だった。

 真壁は真正面に立った。

「最初から、これが目的か」

 九条はわずかに首を傾けた。

「最初からではない」

「じゃあ、いつからだ」

「見つかれば十分だと思った時だ」

「曖昧だな」

「具体的に言う必要はない」

 真壁は舌打ちしたいのを堪えた。こういうところだ。わざと曖昧にしているのではない。本当に、九条にとってはそれで十分なのだろう。目的は“見つかること”ではなく、“見つかった形で公的領域へ戻すこと”だから、そこが定まった時点で後は手順の問題になる。

「私物だと消えるから」

 九条が続けた。

 真壁は目を細める。

「だから押収物にした」

「そう」

「匿名で送ればよかっただろ」

「逃亡中の匿名は便利すぎる」

「第三者に持たせる手もある」

「私的になる」

 短い答えが、どれも嫌になるほど正確だった。匿名投函では出所が曖昧になる。逃亡犯の工作だと言われれば切られる。第三者に持たせても、私的な告発として扱われる。だが逮捕時押収物なら、管理記録が走り、誰がどこで受け取ったかが残り、関係部署が無視できない。九条はそこを見ている。

「つまり、お前が欲しかったのは自由じゃなくて、公的な読み直しか」

 真壁が言うと、九条は少しだけ目を伏せた。

「自由はこの件では役に立たない」

 真壁はその返答に言葉を失った。役に立つか、立たないか。その基準で、自分の顔も逃走も逮捕も切り分ける。どこまでも九条だと思った。

 二階堂が壁際から言った。

「指名手配犯って立場まで使ったのか」

 九条は視線だけを上げた。

「使えたから使った」

「被動的な汚名だぞ」

「公開される立場だ」

 その言い換えが、二階堂にはいちばん堪えたようだった。指名手配犯。普通なら追われる側の汚名でしかない。だが九条は、その立場を“公的に顔を配られる位置”として使った。つまり被動ではなく、最後の配置の一部として受け取っていたことになる。

 真壁はようやく、この作品の終わり方を自分なりに理解し始めていた。九条は指名手配犯だった。だがそれは、ただ追われる男という意味ではない。都市へ公開されることでしか届かないものを、公的に見つけさせるための立場だった。指名手配犯という仮面を被ることで、顔も目撃も逮捕も全部、公的な回路へ乗る。その回路の最後に、押収物が置かれる。

 だからこの逃走劇は、逃走ではなく配置だったのだ。

「見つかれば十分だった」

 九条が静かに言った。

 真壁はその一言を、今度は真正面から受け取った。十分。つまり、それ以上の物語を本人は求めていない。英雄譚でも、告発者としての正しさでもない。ただ、公的に消されにくい形で戻ること。それだけだ。

    *

 取調準備室へ戻ると、真壁は押収物を再び机へ並べた。今度は最初から順番を決める。確認紙、運用変更メモ、導線図、差し替え前説明紙、付箋束。端に小さな時刻表の切れ端もあった。港湾搬送の便が二年前だけわずかにずれている。それだけでも別に不思議はない。だが、他の紙と重ねると意味が変わる。

 九条はこれらを“遺言”として残したのではない、と真壁は改めて思う。遺言ならもっと情緒がある。自白なら結論がある。これはそのどちらでもない。読むべき順番だけが置かれた、公的な宿題だ。

「ここを見ろ」

 二階堂が差し替え前説明紙の一行を指した。

「この語順、最終版で変わってる」

「おまえなら分かるな」

「分かる。変えた側の論理も分かる」

 二階堂は苦い顔をした。

「最初の印象を弱くするためだ。意図的に事実を消したんじゃない。だが順番を入れ替えてる。最初に読むものが変わる」

「九条はその“最初”を戻したかった」

「戻すというより、もう一度始めさせたかったんだろう」

 その表現のほうが正確だった。九条は過去の説明を消そうとしているのではない。別の始点を、公的に作ろうとしている。そのために自分の逮捕をここまで持ち込んだ。

 真壁は報告書のフォーマットを開いた。指がすぐには動かない。いつもなら定型で入る一文が、今日はやけに軽く感じるからだ。容疑者を現認、確保、押収物件あり。そう書けば事実ではある。だが、それだけでは何も残らない。最初の一語を軽く置けば、また処理される。

 二階堂も同じことを考えているらしかった。持参したノートPCを開き、次の広報文案の下書きを見直している。いつもなら早い。だが今日は、一文打っては止まり、また消している。

「断定、外すのか」

 真壁が訊くと、二階堂は画面を見たまま答えた。

「一つだけ」

「どこを」

「“逃走の末”を削る」

 真壁は少し驚いた。

「珍しいな」

「違うからな」

 二階堂は言った。

「逃走の末じゃない。少なくとも、それだけではない」

 その修正は小さい。だが大きい。最初の一語を少しだけ慎重にするだけで、以後の読みは変わる。九条が残した順番は、もうそこまで浸食している。

 隣室で、椅子の金属が小さく鳴った。九条が姿勢を変えたのだろう。手錠の音はもうしない。静かなものだった。だが、その静けさの中に、真壁はこの一連の終わりを見た気がした。

 顔が出た。見つかった。捕まった。それだけなら、どこにでもある指名手配の終わりだった。だが九条が残したのは、終わりではなく、そのあと誰も最初の一語を軽く置けなくなる順番だった。

 真壁は押収袋から、いちばん薄い確認紙を一枚だけ取り出した。紙自体は何の変哲もない。番号、受領者、時刻、補記の跡。二階堂が横から覗き込み、言葉を失う。何が書いてあるかではない。これを今、自分たちが“押収物”として読んでいることの重さが、ようやく二人に同じ形で落ちたのだ。

 九条は隣室で黙ったまま座っている。

 真壁は新しい報告書の最初の一文へ、ゆっくりと文字を打ち始めた。いつもよりずっと慎重に。二階堂は別の画面で、広報文案の断定を一つ外したまま、次の語を選んでいる。

 港の旧搬送路一帯で見つかった男は、もう単なる逃亡犯ではなかった。

 その顔も、目撃の連なりも、逮捕された事実も、これから全部、読み返される。

(了)



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