1 春の報せ
アンデシュダリア国の春は、他地方に比べ少し遅い。
広大な大陸において四季が訪れる地域はさほど多くないが、厳寒に耐えねばならない北方や厳暑な地域と比較すれば、過ごしやすい地域の方が圧倒的に多いと言える。
そんな過ごしやすい地域として、ここアンデシュダリア国ではようやく春の花が咲き誇り、穏やかな日差しが人々の心を和ませようとしていた。
クリサンセマム家の庭では、色とりどりの春の花が咲き乱れている。
ヒヤシンスにフリージア、ネモフィラなど。
クリサンセマム夫人は非常に花好きで、特に自身の庭は自慢の一つであった。
夫人の指示を元に庭師がコーディネートした美しい庭で、友人たちとお茶を飲むことを日々の楽しみとしている。
国内で栽培される植物以外にも、遠い異国で売られている植物の種などを貿易商を営んでいる夫ベルドラドに頼んで輸入させるほどだ。
そして今日もアリエッタの母ジュリエは、朝から自慢の庭を散策しては庭師に細かく何かを指示していた。
二階の窓からそれを眺めていたアリエッタは、空がこんなにも晴れやかで透き通るような青色をしているというのに、どうにも気分が冴えない様子だ。
気分転換にと侍女レオナが温かいお茶を差し出した、ちょうどその時である。
玄関のある方角から何やら騒がしい声と共に、うららかな春の日差しとは縁遠い騒音が屋敷内を駆け巡る。
悪意を内に宿した人間ならば、穏やかな日常になるはずだった時間を壊されて気分を害し、騒音の元となる人物に対して憤慨していたところだろう。
だがここにいる悪役令嬢は違った。
例え穏やかな朝を台無しにされようと、その程度で気分を害したりなどしない。
むしろ心配そうに、怯えるように顔色を真っ青にさせてレオナに縋った。
「何事かしら……? 何か、私……何か失敗した?」
「お嬢様、ご心配なさらずとも大丈夫でございます。どうか落ち着いてください」
優しくレオナが抱き留める。
アリエッタは今にも涙がこぼれそうなほどに恐怖していた。
その様子を察したレオナが宥め、心配なら一緒に様子を見に行こうと部屋を連れ出す。
アリエッタは常に恐怖していた。
自分の失敗が、この家に住む人間全員の命を危険にさらすことと同意だとわかっていたから。
ほんの少しでも国の、教会の意向に逆らうことになれば一族郎党……従事者に至るまで全ての人間が抹消されてしまう。
そういった恐怖や圧力を相手に、アリエッタは今日まで生きて来た。
そしてそんなアリエッタを支えるために側にいるはずの侍女レオナは、教会の命令によって差し向けられた人間だ。
悪役を作り上げ、国民全員から忌み嫌われる存在として育て上げた後、その者を人々の前で断罪する。
そうすることで人々が偽りの正義に酔いしれるために、悪を断罪した王家や教会に対して国民から更なる支持を得るために。
国の安寧のための生贄、悪役令嬢を仕上げるためにレオナが遣わされたのだ。
「大丈夫ですわ、アリエッタお嬢様。きっとこれは、未来を切り拓くための朗報に違いありません」
「……?」
***
レオナがゆっくりまばたきする毎に、この騒ぎの中心を見聞きしていた。
瞼の裏側に映し出される映像は従僕が手紙を持って、急いでこの家の主人であるベルドラドの書斎へと向かっている場面だ。
『旦那様! 大変で――』
『失礼いたし――』
『――んだ、騒々しい』
まばたきの度にしか聞き取れない音声は途切れ途切れだが、情報量としてはそれだけで十分だった。
気が急いるアリエッタとは裏腹に、レオナは早めていた足を止めて呑気に外の風景を指さし、笑顔でアリエッタの気を逸らせた。
「お嬢様、ご覧ください。ジュリエ様ご自慢のお庭に、あんなにも蝶が舞っていますわ」
「え? えぇ、そうね……レオナ。でも、今はそれどころじゃ」
レオナはアリエッタの肩を片手で引き寄せ、まるで庭に釘付けにするよう体の向きを変えさせる。
急にどうしたんだろう、とアリエッタが戸惑っていると書斎の方からアリエッタの父ベルドラドが慌てて出てきて名を呼ばれた。叫ばれた、と言った方が正しいかもしれない。
「アリエッタ! これは一体どういうことか、説明しなさい!」
「お、お父様……?」
「……」
血相変えて現れたベルドラドの元へ、アリエッタと共にレオナも書斎へ向かった。
つい先ほどまでか弱いリスのように身体を震わせ、レオナに縋っていたアリエッタ。
それが嘘のように今では姿勢正しく、威風堂々とした態度で優雅に廊下を突き進んでいく。自信に満ち溢れ、この世に怖いものなど何もないといった風な強気な顔で。
守ってもらおうと縋りついた侍女に対して、まるで自分が率いているとでも言ったような振る舞いで前を歩く姿は、さながら鋼鉄の女王のようだった。
そんな振る舞いの娘に対し、父ベルドラドは長年頭が上がらない状態に陥っていた。
成績優秀、運動神経抜群、淑女としての作法も完璧にこなし、魔力値に至っては国内でもトップクラスの高さを誇る。
魔法の制御も完璧で、あらゆる技術に精通していることから、ベルドラドはいくつかの事業をアリエッタにも手伝わせているほど、その才能に頼っていた節がある。
そのせいでさらに自身の立場は弱くなる一方であったが、それでも事業を支えるにアリエッタの才能は欠かせないと判断したベルドラドは、恥を承知で娘に率先してやりたいことをやらせているのが現状であった。
(どこで覚えたのか。高魔法石の精製にまで頼る羽目になるとは……)
ベルドラドは知らない。
アリエッタに様々な技術を習得させたのは他の誰でもない、侍女レオナであったことを。
娘の教育係として侍女レオナを付けていることはベルドラドも承知していたことだが、まさかただの侍女に高魔法石の精製技術まで教えられるとは思っていなかったのだ。
アリエッタの技術の幅広さ、奥深さに対して父親であるベルドラドが抱いた感情は、良く出来た娘などではない。
なぜそんなことまで出来てしまうのか、という違和感と不気味さであった。
アリエッタとレオナが書斎に入ったと同時に、執事が書斎周辺の人払いをしてからドアを閉める。
何やら物々しい雰囲気にアリエッタは内心動揺を隠せないが、それを表に出さぬよう完璧に演じた。
「一体どうしたというの、お父様? 早く説明してくださらない?」
「あ、あぁ……すまない。私もちょっと、驚くことがあってな……ははは」
額に汗をたっぷりと滲ませたベルドラドが書斎机の椅子に腰を下ろしたところで、レオナがすかさず執事に目線で合図を送った。
それに気付いた執事がこくりと小さく頷くと、レオナは書斎の中央に置かれた二人掛け用のソファに座るようアリエッタを促した後、お茶を淹れる準備に取り掛かる。
レオナの動きにベルドラドは小さく安堵のため息を漏らして、背もたれに上半身の体重を預けて両目を閉じた。
その間もアリエッタは不満げな表情を作りつつ、両腕を組んで沈黙する。
緊張の糸が張ったような空気の中、レオナはリンデンティーを二人に出した。
温度帯が高いと渋みの出やすいハーブティーではあるが、ベルドラドは渋いお茶を好んでいたので彼の口に合うよう調整してある。
一口すすり、ベルドラドは口の中に広がる渋みを感じながら眉間にしわを寄せ、そして落ち着くような表情でのどを潤した。
その様子を見つつ、アリエッタもお淑やかな手つきでカップに口を付ける。
ようやく話ができるようになったのか、ベルドラドはまず最初に「すまなかった」と謝ってから、ゆっくりと事の顛末を……騒ぎの発端を話し始めた。
***
「隣国、難攻不落の魔法大国グランディス国王から、事業拡大の提案? その取引交渉人に私を指名、ですって?」
ベルドラドから渡された手紙こそ、全ての騒ぎの元――グランディス国王からの取引依頼書であった。
震える手で手紙に書かれている一言一句を違えることなく目を通し、アリエッタは驚きを通り越して混乱していた。
(なんで? どうして隣国の国王様が……、私を名指しで? 私のことを知ってるの?)
アリエッタの偉業、悪行は国内では有名となっていた。
その自覚だけはある。
外見の美しさも秀でたる才能も、あらゆるものを欲しいままに手にした完璧な令嬢。
そして先日、進級式とは別に開かれた新入生歓迎パーティーの場にて発表されたアンデシュダリア国の王子ランドルフとの婚約。
才能も、美貌も、地位も、権力も、果てには王妃の座をもいずれは手にすることになる、まさに誰もが羨む貴族令嬢アリエッタ・クリサンセマム。
しかしその実態は、高慢で悪辣でまさに氷のように冷徹な令嬢として。
世間では誰もがアリエッタのことを「悪役令嬢」と囁くほどに、偉業と悪行……その両方でその名を轟かせていた。
(私の悪名が、まさか国外にまで? 嘘でしょう? やだ、穴があったら入りたい!)
自分の悪名はアンデシュダリア国内だけで十分だと思っていたアリエッタは、自分のしてきたことが他にも知られてショックを隠せないでいる。
しかしアリエッタの心など露知らず、ベルドラドが抱える悩みはそんなところではなかった。
「確かにいくつかの事業はお前の名義で進めていたが。まさかグランディス国王がお前のことを知っているだなんて、一体どこで知ったのか……っ! 本当に心当たりはないんだな?」
「私を疑っているの? この私が取引において不利になるようなことをすると、本気で言っているの?」
アリエッタの持つ技術は相当なものだった。
それこそその技術だけで五百年は遊んで暮らせるほどの財を生み出すこと、それだけの動力を確保できること。
国同士でその技術を取り合って戦争になってもおかしくないほどに、アリエッタの持つ技術と魔力量は稀有なものであった。
ベルドラドは魔法知識に明るいわけではないが、貿易商を営むにあたって最低限の知識は備わっているつもりだ。
アリエッタは自分の持つ技術の全てを父親に打ち明けているわけではないが、毎日こつこつと精製し続けて来た高魔法石。
それを材料に父親が受け持つ事業の二割ほど、アリエッタに預けてみないかと持ち掛けたことが明るみに出た理由だ。
魔道具技術に乏しいアンデシュダリア国では、高魔法石の欠片ひとつで豪邸が建つほどの価値を持つ。
それを自分の娘は、鉱山で採れた魔力を含む石くれを使って高魔法石へと進化させることができる。
商いをする人間が、この技術をおいそれと他人に明かすはずがない。
だからこそグランディス国王がアリエッタを取引交渉人として名指ししてきたことに、これほど過度に反応を示したのだ。
「そうか、そういうことなら……」
そうしてまた一口、リンデンティーで口内を潤すと、ベルドラドはようやく緊張の糸が切れたのか。椅子の背もたれに深くもたれかかり、全身の力が抜けたようにだらりと項垂れた。
再び温かいリンデンティーをベルドラドのカップに注ぎながら、レオナは続きを促す。
「それで、ベルドラド様? グランディス国王へのお返事はどうなさるおつもりですか?」
「ん? そりゃあもちろん……」
レオナの釣り上がった目が細く、ベルドラドを捉える。
それからレオナは書斎に備え付けられていたキッチンカートから、ベルドラドの好物である東国イーステッドの茶菓子を出して機嫌を取った。
もちもちとした表面には苦みを含む茶葉が練り込まれた生地、中身は甘みの強いしっとりとした食感のお菓子を咀嚼する。
レオナはアリエッタにも目線を送った。
その視線にすかさず反応し、アリエッタはソファから立ち上がり両手を組んでおねだりのポーズを決めた。
「お父様! この役目、私に任せてくださらない?」
「しかし……」
「大丈夫よ! 絶対にクリサンセマム家にとって不利になるような交渉なんてしてこないから! 私がそんな失敗するわけないでしょう?」
アリエッタという財産を他国に干渉させたくないのが本音か、ベルドラドはなかなか首を縦に振らない。
そんな煮え切らない態度にレオナは心の中で舌打ちしていた。
元々釣り上がった目尻は、苛立ちのせいでさらに鋭さを増す。
(アリエッタお嬢様の恩恵に縋ることしかできないような凡愚は、黙ってお嬢様の言う通りにしていればいいものを。お嬢様の才能はお前のためにあるわけじゃないのよ)
激しく罵り毒づくが、レオナの表情は涼しいものである。
優柔不断なこの男に判断を委ねる他ないならば、今日答えが出るとは思えないと見限ろうとしたレオナが、両手を前に揃えて話を打ち切ろうとした時だ。
ずいと前に出たアリエッタが、書斎机に向かって両手を叩きつける。
魔力も両手に込めていたのか。叩きつけた瞬間に細かい稲光のような粒子が散った。
大きな音と光の粒子に、ベルドラドが驚き、危うく茶菓子を喉に詰まらせるところだった。
だがそんなことはお構いなしに、アリエッタはついさっきとは全く異なる表情を父親に見せている。
父親に甘える娘の顔、甘い汁をすするために言い寄る顔、欲しいものはどんなことをしてでも手に入れようとする我が儘な子供の顔。
それらの表情がアリエッタの顔から剥がれ落ち、今あるのは邪魔する者はどんな相手だろうと排除するといった、野生の獣のような鋭く残酷な顔がそこにあった。
父親を父親と見ない蔑みを込めた眼差し、文句や反論など一言だって許さないという凄みを帯びた威圧的な顔をしたアリエッタは、ベルドラドに対して首をひねるような仕草で食い入るように訊ねる。
「この私が、新しく事業を拡大させてくるって言っているのよ? ここまで走れたのは誰のおかげかしら。誰の技術があって、誰の助言があって、誰の働きがあって、ここまで大きくできたと思っているの?」
さらに書斎机に乗り上げる勢いで、アリエッタは両手をついたまま上半身を伸ばすようにベルドラドに迫る。そこに親子の関係性など存在しない。
あるのはどちらが上か、どちらが会社に利益をもたらすのか、それだけだ。
「お父様は今まで通り、取引依頼が来たら何も考えず私に回せばいいの。せっかく娘がお願いしてあげたのに、こうして立場を逆転させられてまで言われなくちゃわからない?」
「アリエッタ、ま……待ちなさい。まずは話を」
「話はもうとっくに終わっているの。今はお願いしているんじゃあない。私は命令しているの。この取引交渉は、私が引き受ける。名指し通りにね。わかった?」
アリエッタの気迫に負けたベルドラドは、さっきまでとはすっかり立場が逆転してしまい、こくこくと首を縦に振るだけの人形に変わり果てていた。
気を静めるように、機嫌を損ねないように、これ以上責め立てられないように。
嵐が過ぎることをひたすら待つベルドラドに、色よい返事を受け取ったアリエッタは再び無邪気な微笑みを浮かべて感謝を述べた。
「やったー! 初めての国外旅行よ、レオナ!」
「おめでとうございます、アリエッタお嬢様。変わらず私、レオナがお供いたします」
子供のように飛び上がって喜びを表現した後、それがはしたないことだと我に返ってから一言。アリエッタは天使のような微笑みを浮かべながら、悪魔のように父親を貶める。
「大きな取引になりそうだから、この案件は私が全部引き受けるわね」
「あぁ、好きに……しなさい」
納得の返事をもらい、アリエッタは意気揚々と書斎を出て行こうとした。
主人の情けない姿を一通り目にした執事は、主人と娘を交互に見やる。
片手で「もういい」と振ったベルドラドの合図に、執事は悩ましそうに肩を竦めてから不承不承といった風にドアを開けた。
二人ともが書斎を出て行き、ぱたりとドアが閉められ、人払いの効果がまだ継続していることを確認してから……アリエッタは腰が抜けたように床にしゃがみこんでしまう。
浅く早い呼吸をしながら、アリエッタは迫真の演技をした直後に見られる疲労で、すっかり満身創痍の様子だ。
「さすがアリエッタお嬢様でございます。見事な悪役っぷりでした。このレオナ、感動で前が見えません」
「こわ……かったぁ。あんな風に、お父様に強く出ることなんて……あんまりしてこなかったから」
小刻みに震える肩に手を添えて、レオナはしっかりと労う。
この小さな肩に、屋敷に住む者全員の命が背負わされていると思うと、レオナは胸が苦しくなってくる思いだった。
アリエッタの背中を押すことしかできない自分自身に、レオナは激しい嫌悪感を抱かずにはいられなかった。




