3.黒の花嫁③
サミュエルは屋敷の屋根の上にいた。
豪壮な館の屋根の角。しなった屋根の先端に、片足を乗せて立っていた。
肩にはジーナ。頭上には目を覆いたくなるほどの輝かしい満月。
今、彼は非常に機嫌が良かった。頬をかすめる夜の風も心地良い。
シャルル警部率いる王立警察庁一行は既に引き上げた後だ。一部の人間がおぞましい犯罪に手を染めても、屋敷の大半の人間には無関係だ。いつもと同じような夜が訪れているだろう。
「出ておいでよ、カラス」
サミュエルはくく、と笑いを堪えきれずにいる。ジーナは彼の魔力を読み、人型をとって後ろへ下がった。
無人であった屋根の上に、不意にもう一つの黒い影が現れた。その影は微動だにしない。
「カーラース。私を待たせるなんて、随分偉くなったじゃないか。なァ?」
少年の姿は、ベリアルの姿へ変じていた。漆黒のジャケットに、一風変わったチェックの立て襟シャツ。葡萄色のアスコットタイとベストを隙なく合わせ、細身のトラウザーズを履いている。準礼装のような恰好は、本来ベリアルが好む服装だ。
しびれを切らしたのか、ベリアルはとん、と屋根から浮き上がった。
「魂まで塵にしてやるから、出ておいでよ」
チョコレートの髪がさらりと靡く。ぎらぎらと殺気を向けられている影は、月の光にその容貌を露わにした。
「……マルファス」
ジーナは獣の咆哮を上げた。
闇に紛れてしまいそうな褐色の肌は黒衣に覆われ、影は今にも夜に溶け込んでしまいそうだ。……煌々と輝く金色の目がなければ。
「……いつから気がついていたんです、ベリアル様」
「最初からだよ」
ベリアルは嘲るように酷薄な笑みを口元に刻んだ。
「エリザベスは私を呼ぼうとしていただろう。あの男を生き返らせるためにね。……お前だね? マルファス。お前があの人間に私を召喚させようとしたんだろう」
マルファスは答えない。だが、答えないことこそが返事だった。
ベリアルは片手に青火を灯した。ぼう、と燃え上がるそれは、悪魔であっても焼き尽くす、魂を燃やす火だ。
「――暇潰しにしては、随分と命がけじゃないか。何を考えている」
「あの女の……エリザベスの声が聞こえたんですよ。男に捨てられて恨みを持つ、哀れな女の」
マルファスの無表情な顔が凶悪に歪んだ。
悪魔といえど、嗜好は様々だ。だがベリアルはマルファスを配下につけて長い。
「……あの人間の男を生き返らせることができるなどというホラを吹いたな」
「希望を生み出してやっただけです。ベリアル様が答えて下さらないので、あの女は必死になって心臓を掻き集めていましたよ。ま、もう俺が頂いちゃいましたけど……美味かったなぁ」
悪魔マルファスの本質は厄介だ。嘘で人心を操り魂を貶めて喰らう。情報収集に長けているのはそれだけ嘘で周りを操作できるからだ。ベリアルが詐欺師と蔑むのはそういう理由である。
どんな悪魔であろうと、喩え最上位の天使であろうと、死んだ人間を蘇生させることは不可能だ。マルファスはそれを承知の上で、エデンのりんごのように、エリザベスに嘘を捧げたのだ。
「……どちらかというと、お前の本質は蛇ではないのかい。醜く、執拗で、惨たらしい」
「お褒めにあずかれるとは光栄です、ベリアル様」
「まあ、エリザベスのことはいい。どうせ蘇生できないことを知った時に魂でも喰らうつもりだったんだろう」
マルファスは頷いた。悪魔は飲食を必要としないが、定期的に魂を喰らうことを好む。
それはベリアルもどうでもいい。いっそこの所領の人間を喰らい尽くしても文句は言わないだろう。……問題は。
一気に大気の気温が下がる。
「……ベアトリスを狙ったね」
「そんな、ちょっと脅かしただけでしょう。十年経ってもあの娘に手を出しそうにないベリアル様が心配になったんですよ」
マルファスはそう笑おうとして――失敗した。
「成長しないねぇ、お前」
ベリアルがマルファスの元へ歩み寄る。大気を踏みしめながら、ゆっくりと。
近づくにつれて、言い様のない恐怖がマルファスの胸を締め上げる。
……ベリアルの声はいたって穏やかだ。
「お前を拾って伯爵の位を授けたは良いが、どうにも目に余るよ。マルファス」
その声と同時に、マルファスの背後にジーナが回って後ろから羽交い絞めにした。
「な、何を! ベリアル様、あんなのただの戯れじゃないですか……!」
「いつかは殺そうと思っていたんだよ。それが今でも構わないさ。……遅すぎたと悔いているくらいなんだ」
でなければ、こんな小物を手元に置いておくわけがない。
それに、と歌うようにベリアルは続ける。
「お前、エデンの園を出て私があの子を妻にした時、神にそれを密告しただろう?」
……なぜ、それを! マルファスは真っ青な顔で絶句した。
絶対に知られるはずのない事実だった。
「残念だったねェ、そうやって自分の身を守ろうとしたんだろう。だが神はお前のようなやつをいたく嫌うんだよ」
しかもおかげで彼女は死んだんだ。
声の余韻は、呪詛のように。
「散々遊んでから殺してやろうと思ったけれど、潮時だ。覚悟はいい?」
ぞわり、と首筋に刃が当てられているような寒気。いつの間にか、ベリアルの魔力が己の喉に触れていたのだ。
だめだ、殺される。――しかも凄惨に。
「ひぃ、いやだ、助けてくれぇ!」
反射的にマルファスはベアトリスの部屋に転移した。
ぐら、と部屋が揺れた途端、壁一面の窓ガラスが一斉に粉々に割れて飛び散る。
「きゃあ……っ!」
「ベアトリス!」
ベアトリスは悲鳴を上げながら咄嗟にその場に蹲ろうとし、強い力で抱き寄せられる。
あ然と目を開けば、そこにはチョコレート色の髪をした青年が険しい表情で外に睨みつけている。彼はなんと片腕だけでベアトリスを抱き寄せると大きく横へ飛びのいた。
大きな寝台が音を立てて転がり落ちる。
(ベッドが転がるって、どういうこと!)
叫ぶ間も与えられず、「じっとしていて」と囁く青年の顔を見上げていることしかできない。
照明が破壊されたのか、部屋の明かりは月の光だけ。今夜は満月だからそれだけでも十分明るい。
「な、ど、どうなっているんです……」
一瞬の静けさに我を取り戻したベアトリスは、室内を見渡そうとして息を呑んだ。
窓ガラスだけが破壊されたのではない。バルコニーのあった方の壁が一面、ごっそりとなくなっていた。
強引にくり抜かれたようなそこは、破片がぱらぱらと零れ落ちている。石と化した破片はそこら中に散らばっていた。
「……ベアトリス、大丈夫?」
気遣わしげな甘い声に、胸がどきりと高鳴った。彼女を支えていた腕はぐいと距離を縮め、青年の胸に頬を押し当てられる。
「ああ……よかった。どこも怪我はないね」
「あ、ありません」
思わずきゅ、と青年の服を握りしめると、吐息で笑われたのがわかった。顔が紅潮するのがわかったが、どうせこの部屋ではそこまで見えないだろう。
それより一体、この惨状はどういうわけなのか。
「……ごめん、もう寝る時間だよね。……ああ、あいつ本当に邪魔だ」
キミを盾に取ろうとするなんて、と呟く声にベアトリスは覚醒した。
「ちょ、ちょっと説明してくださいませ! 何がどうなってますの?」
「あいつだよ、あいつがやったんだ」
顎で示された場所を見つめる。すると、破壊された壁の外――ここは四階だ――から、すうっと上昇してくる大きな影があった。
その、影には。
ひ、とベアトリスは息を呑む。青年は動揺を感じ取ったのか、ベアトリスを抱く腕に力を込めた。
その影には、巨大な黒い翼があった。
青年は驚きもせず、ふんと鼻を鳴らす。
「やはり鴉の翼か。ふん、なんとも醜いな」
ベアトリスは思い当った記憶に瞠目した。ある夜見かけた奇怪な翼の生き物はこれだったのか。
「……咄嗟に引き留めたつもりだったのになァ。しぶといね」
青年は笑っていた。そこにはかすかな恐怖も見当たらない。
そのせいか、ベアトリスは眼前の光景についていけない自分を自覚しながらも恐怖を感じることができない。
黒い影は、良く見るとあちこち傷がついて血を流していた。
しぶといというのは、この青年が攻撃したということなのか?
「……確かにアンタに正攻法じゃ俺は勝てない。だがその娘を使えば、話は別だ――」
「そう、そこだよ。お前の敗因はそこだよマルファス」
青年のもう片方の手には、青い炎が燃え盛っていた。
「この子を、ベアトリスを巻き込んだ。……許しはしない」
ずん、と重力が重くなったような負荷が体にかかる。思わず呻くと、宥めるように青年はベアトリスの額に口づけを落とした。
「ごめん。少しだけ、がまんしていて――」
そう耳元で囁いて、青年は黒い影へ向き直った。ベアトリスを放す選択肢はなさそうだ。
「……はい!」
場違いにも力の入った返事になってしまった。その声に青年はきょとんと目を瞬かせて、華のように華麗に微笑んだ。
「こっちから、行かせてもらうゼ……ッ!」
ばさり、と周囲のものを巻き込む大きな羽音。瞬く間に強烈な風が生じ始める。
青年がジーナ、と呟くと同時に、眼前に赤い炎に包まれた乗り物が現れた。二頭引きの戦車だ。促されるままそれに乗る……全然熱くない。
青年が手綱を引く。黒い馬が歩き出すと、馬車は空中にふわりと浮きあがった。
「大丈夫。ベアトリス、キミは僕が守るから――どうか信じて」
青年は影を強く見据えている。けれどベアトリスは、しっかりと頷いた。戦車は華麗に反転して影に向き直る。
馬の嘶く声と同時に、二つの衝撃がぶつかり合う音がした。青年の青い炎が増幅して影の生み出す風に衝突したように見えた。一度、二度、体制を変えてもう一度。
最後の衝突はどぉん、と重く響いた。
「この子が見ているから、派手に殺してやれないのが残念だよ。カラス」
青年の瞳は爛々と輝き出す。……ああ、なんてきれいな瞳なんだろう。ベアトリスはぼうっとそれに見惚れてしまう。
(きっと……この方は悪魔だわ)
敵を屠るその姿は美しく、そして酷く楽しげだ。
青い炎は影の生み出す風を押しやり、確実に傷をつけていく。
「グ……! アガッ……!」
「ああ、羽を剥いで四肢をもいでやりたいなぁ」
必死で戦車にしがみつきながら、ああ、とベアトリスは眩暈する思いだった。この青年は確実に残忍に殺すだろう。これではまるで、悪役だ。
「……だ、だめです! もういいじゃありませんか……!」
思わず腕を引いて青年を引き留める。
「どうしてだめなの? この男はそれはそれは酷い事をしたんだよ。キミにもね」
「それは……だとしたら、ちゃんと罪を償ってもらいましょう!」
そんな無残に殺そうとするのはダメだ。ベアトリスは必死で頭を振った。
「私が綺麗に消し去ってあげるんだよ。魂も残らないように」
「そこまでしなくても……!」
(やっぱりこの方は悪魔なのだわ……! 考え方が違うのかもしれない。でも……)
どう説得したものかと考えるが、思いつかない。どうしたら悪魔にわかってもらえるのだろう……考えて、思いついたのは一つだけ。彼の言葉を信じるしかない。
「あ、あなたはわたくしを守ってくださると仰いましたよね?」
「もちろん。……って、え、ベアトリス?」
じゃあ、とベアトリスは思い切って戦車を飛び降りた。着地に失敗して多少転がったが、影の元へひた走る。途中で靴が脱げたが気にしている余裕はない。
「な、何を……! ダメだ、ベアトリス!」
「ひどい仕打ちをなさらないでくださいな! 悪いことをしたのなら相応に償うもの、むやみに殺すのはどうかと思います!」
綺麗事を言っている。しかも悪魔に。ベアトリスも無謀なことを自覚していた。だから、ほら。……広げた両腕も、膝も、震えて立っているのがやっとだ。
ベアトリスはただ、彼が染まって笑うのを見たくなかった。
青年は戦車に乗ったまま、苛ついたように髪をくしゃりと掴んだ。
「……っ、キミは! 何を考えているのか知らないけれど、そこを離れなさい!」
「い、いやです! 離れたらあなたはこの方を殺してしまうでしょう……!」
だめです。だめ。いつの間にか頬を涙が伝っている。
償う道は与えるべきだ。……何より……。
「あなたの手が血で汚れるのを、わたくしは見たくないの!」
――その時、背後の影が躍りかかった。その動きはとてもゆっくりと、ベアトリスの視界に入り込む。
チョコレート色の、おいしそうな髪の色……ああ、そうだ。
あの方は、チョコレートを知らない、不思議な人。
「おにい、ちゃま……」
見開かれた瞳。……ああ、思い出せて正解だったみたい。
黒い外套の男が、何かを叫びながらベアトリスに刃物を振り下ろす。
なんだ、悪魔も結局は刃物なのね――……
「ベアトリス!」
――ベアトリスの意識はそこで途切れた。




