3.黒の花嫁②
黒いインクが垂らされたような陰湿な夜。長い回廊を一つの影が駆け抜けていく。
無機質な白い柱が並んだ長く続く回廊だ。先は暗い。夜に沈んだそこを、小さな甲高い音が止まる気配もなく走り去る。息は荒く、彼女の表情は恐慌に満ちていた。
……けれどそれは、何の意味も成さなかった。
「どちらへおいでになるのです? レディ・マッキンゼー」
柔らかい声だった。甘く響く、天使のような蜜の声。
それなのに、エリザベスは声を聞いた途端、足を竦ませた。まるで闇の触手が彼女の足元に絡みついたように。
妹とよく似た美貌も、表情が引き攣って淑女の面影も見当たらない。恐怖と疲労と執着が、彼女の全てだった。
その理由を知った上で、近くの柱の影からゆっくりと人影が姿を現す。小さな薔薇色の唇が、にっこりと笑みを作る。……瞳は金色に煌々と輝いていた。
エリザベスはその瞳に呼吸を引き攣らせる。
「お行儀がよくないよ、レディ。そんなに急いで走るなんて。まるで何かにおびえているようじゃないか」
ご覧、とサミュエルは回廊に面した外の景色を悠然と眺め見る。
長く続くこの回廊は、マッキンゼー侯爵邸を一周できるように作られたものだ。サミュエルが静かに目を細めて見る景色に、エリザベスも促されて視線を向けた。
侯爵邸からは、遠くにダイヤモンドのように煌めく街の明かりが一望できた。
けれど、少年が見ているのはそれではない。見上げたのは天空だった。
何者にも遮られることなく、煌々と照らし続ける白い光。
銀色の星。……そして。
――満月が、紺色の夜空に浮かんでいた。
「こんなに美しい夜空になるとはね。墓地での強風が嘘のようだ」
けれど、と一瞬目を伏せたサミュエルはエリザベスに向き直った。
その瞳は、墓地で見たときと同じ。暗く淀んでいるように見える。
エリザベスが、ひ、と息を引き攣らせると、それに気づいたサミュエルは意識したようににこりと笑った。
「失礼。夜の闇はいけないね。僕の全てを表してしまうのだもの」
「……こんなところに、何の御用ですの……悪魔が」
震えた声に気づいたのは両者だろう。
止められない震えに、エリザベスは顔を顰めた。
それを気に留める様子もなく、サミュエルは墓地に居た時と同じように帽子を胸に当てて優雅に礼をした。
「君の罪を。流して差し上げようと思って来ただけですよ、レディ」
ふんわりと微笑む、あどけない少年。
それが昼間の薔薇園で見たものであればどんなに良かっただろう。
エリザベスは苦々しいとばかりに言い放った。
「わたくしの罪? わたくしに罪などないわ! あなたはどうせ、悪魔の花嫁になると誓ったベアトリスを攫いに来たのでしょう……っ」
その言葉をサミュエルは鋭く遮った。
「貴女は罪を犯しているよ。ベアトリス嬢の婚約者を殺害したのは、貴女なのだもの」
黒い小さな革靴の踵が、回廊に一定の音を立てる。
サミュエルがゆっくりと歩き出したのだ。
一定のリズムが静かな暗い回廊に重く深く、響いていく。
「や、やめて……来ないで……!」
「貴女はベアトリスが婚約者とハインリッヒから戻るのを見計らって、この領地に戻って来た。レディは滅多にご自分の領地からお戻りになることはないそうだね」
「……妹と話をする必要があったから戻ってきただけだわ」
ふぅん、とまた一歩、サミュエルの細い足が歩き出す。
エリザベスはその様子を、ただ目で追うことしかできない。……一歩も動けないのだ。
目の前の小さな悪魔が、そうしているのだ。
「でも、駄目だよレディ。……うん、エリザベス嬢とお呼びしよう。貴女は全く殺害に使用した痕跡を隠さなかった。もちろん、探す者がいるなどと思わなかったのかもしれないけどね」
「……どうしてもわたくしが妹の婚約者を殺したと、そう仰りたいのね」
「それが事実だもの。ねえシャルル」
「確かに。調べは簡単につきましたよ。エリザベス嬢」
よっこいしょ、と回廊の屋根から飛び降りてきたのは金髪の青年だった。訝しげに彼を見つめた後、すぐにエリザベスは開いた口を塞ぐことができなかった。
「ハートフィールド侯爵家の……!」
目の前の青年は、四大貴族の一翼を担う者。しかも飛びぬけて目立つ存在の彼を、貴族の誰が知らないなどと言えるだろう。何より彼は、王立警察庁の警部だ。
「お久しぶりです、エリザベス嬢。……といっても、夜会にはよくいらっしゃるようだから、もしかしたらお会いしていたかもしれませんが覚えておらず申し訳ない」
彼の太陽のような快活さは息を顰め、視線はまっすぐこちらを射抜いた。
「……シャルル様」
「勝手に入ってしまい、申し訳ありません。ですが彼ががどうしてもと言うものですから」
苦笑しつつも、申し訳なさは微塵もない。それどころか、彼は痛烈にエリザベスを批判した。
「正直なところ、こちらの少年が貴女を疑ったとき、私はまさかと思ったのです。マッキンゼー侯爵家の後継者ともあろう者が、このような愚かな行いに手を染めるなど」
「……こんな子供のいうことを信じると仰るの?」
「彼は優秀だ。そして論理的な人なのでね」
警部はエリザベスの嗤いを一蹴した。
「……私は殺人事件の方にばかり目がいっていました。心臓を持ち出すという怪奇な手口にばかり気を取られ、同時期に発生した事件との関連など調べもしなかった。彼はそれを見事に繋げてくれたのです。そして繋がりさえしてしまえば事は非常に単純だった」
向いたシャルルは、呆れたように眉間に皺を寄せた。
航海士の事件の方ですが、と前置きし、
「貴女はミスを犯したのですよ。実行者の口を封じておかなかったことだ。どうやらならず者を使ったようですね。貴女のようなお嬢さんがやりそうな拙い手口だ。本当に見つからないとでもお思いだったのか」
だが実際には、嵐の海で遭難事故だといえば誰も故意の犯行などと疑わない。船から落ちても落としてもそれは一緒だ。
しかし、エリザベスは手を汚さなかった代わりに駒をそのまま残していた。
苦笑するサミュエルは、まるで小さい子供に諭すように優しく言った。
「ベタベタな証拠を残したものです。……まるで殺すことそのものに意味を見出したのではないかのようだ……そう、相手を憎くて殺したわけではない、といったように」
「確かに! エリザベス嬢。船員に金を握らせて突き飛ばさせるだなんて、お粗末もいいところですよ。船員を脅迫したそうですが、そんな恨みを買えば口も軽いというものだ」
「そ、そんな……」
情報を入手しているということは、手配した実行犯の男を押さえているということか。エリザベスは、 指先が冷えていくのを感じた。
シャルルは、冷え冷えとした眼差しでもう一つ、と言葉を重ねる。
「でもね、根本はそんなものじゃない。……そうやって貴女は一体、何人殺させた?」
「目的は違ったでしょうが、やり方は同じでしたね。連続殺人も貴女が使用人たちを脅して起こさせた。……さっき自供は済みましたよ」
エリザベスは戦慄いた。
サミュエルは憐憫を滲ませて頭を振った。
「可哀そうに。貴女はアルヴィン・ロックフォードと旧知の仲だった。ベアトリスが彼と親しくなるよりずっと前。そう、貴女が所領を賜る前のこと。……男女の仲だったのでは?」
エリザベスはカッと頬が紅潮するのを止められなかった。羞恥で胸が焼き尽くされそうだった。
……知られている。この胸の内を。
――哀れな女の恨みを。
「退職した古い使用人は貴女方の仲を覚えていらっしゃいましたよ、エリザベス嬢」
シャルルは機械的に告げた。
サミュエルはエリザベスに微笑みかけた。
「可哀そうな人だ」
視界が恥辱で真っ赤に染まる。
聞きたくない。もう何も!
「やめて! 違うわ! わたくしはただ、かわいいベアトリスがあのような男に捕まってしまったことが許せなかったのよ! あの男はただの女たらしだといっても、ベアトリスは聞き入れなかったわ。誠実な人だと言い張ってね。……何が、誠実よ。……何が……ッ」
目を閉じれば昨日のことのように甦る。
穏やかな微笑。唇を辿る指。だけど結局、エリザベスはあの男に捨てられた。
ただの失恋ならまだ許せた。だけど違った。
アルヴィンは身分上、侯爵家の後継であるエリザベスの婿にはなれない。だが次女ベアトリスの婿なら可能だ。成長した妹をそのような目で見たことが許せなかった。だから殺してやったのだ!
「わた、わたくしは! ベティを守ったのだわ!」
「ええ。それは嘘ではありませんね」
「でも、それだけじゃないでしょう?」と、サミュエルはうっすら笑みを浮かべて付け足した。途端、ぎくり、とエリザベスは硬直する。
そして、そっと首を傾けて、彼女の耳元で囁いた。
「死んだ男を、悪魔を召喚して蘇らせようとした。幾つもの心臓を集めて。……結局貴女は、ベアトリスからその男を取り戻したかっただけなんですよ」
……悪魔の囁き。それは寸分の狂いなく、エリザベスの心の闇を暴いた瞬間だった。
エリザベスは目を見開いて、そこで止まった。
「正直、男が殺された事実そのものはどうでもいい。……でもあの子を悲しませた貴女を、僕は許さない。絶対に」




