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上手く笑えないのは傷のせいだ。
記憶には残らないような幼い頃、わたしは出血多量で死にかけたことがあるらしい。重たいガラスの灰皿で、左の額を強く殴り付けられた。二歳頃の話だそうで、触れてみれば確かに指先がかるく凹んだ頭蓋骨を感じるような気がする。そこは大きく裂傷して、醜い痕が残った。ちょうど髪の生え際のところなので、前髪を厚く下ろせばまったく見えなくなってしまうのが救いで、一年に一度――昔はもっと頻繁だったけれど――の脳波検査を行なう以外に不便はない。それだって、学校を早退するか遅刻するかだけの話で、脳の異常はなく、いたって普通の高校生として生活している。昔の怪我にドラマ性を持たせて不幸がるほど、わたしはロマンチストな性格には生まれてこなかったようだ。
ひきつれて修復した傷は、白い肌にそこだけ薄いピンク色に染まっている。体があたたまったときなどは、その色が濃く増した。痛みはない。雨の夜も風の夜も、そこが痛んで眠れないということはまるでない。髪をかき上げないと、自分でも忘れている。忘れている、振りができている。
ただ、もっと思春期真っ盛りだった数年前までは、自分の傷が気になって仕方なかった。誰もが傷を指差して、ひそひそと陰口を言っているような、そんな妄想ばかりに苦しめられた。
――実の母親に殺されかけたなんて。
――どれだけいらない子だったのかしら。
――誰からも好かれないんだわ。
他人からの悪口なのか、自分の中から湧き上がってくる声なのか、判断はつかないまま苦しんだ。不幸がるドラマ性より、自分の体内で慈しみ育てたはずの人が、その存在を否定しようとしたことが受け入れられなくて恐ろしかった。
小学生、中学生の頃は目立つと傷のことをいろいろ言われてしまいそうで、人前ではずっと気配を消していた。笑うこともせず。そのうち笑い方など忘れてしまって、今でもうまく笑えない。笑うことは人間がもともと備えているものではなく、練習して習得する部類の表情なのかもしれない。
日に日に母に似てくる自分の顔に、嫌悪がないわけでもない。だから、余計にわたしは上手く笑えない。鏡に映る自分の顔が母親のそれと重なったとして、わたしは母が笑っている顔など一度も見たことがないからだ。
五分前の予鈴が鳴ったのは、保健室を出てすぐのときだった。合唱の練習中、歌うことに集中もせず人を目で捜していたら、うっかり貧血になってしまった。まさか目当ての吉村先生が助けてくれることになるとは、想像もしていなかったけれど。
その吉村先生に出会うため、瑞香女子高等学校へ転入してきたと言ったら、信じる人はいるだろうか。運命的な恋に落ちたのね、と目を細めそうなクラスメイトは何人かいるにしても。
「安藤さんっ」
大丈夫なの、と教室に入った途端に駆け寄ってきたのは小坂奈緒だった。小さくてガリガリに痩せている。ソバカスだらけの顔はよくみると可愛らしいけれど、頭の形がはっきり分かるようなベリーショートにしているので、男の子にしか見えない。いじめられっこという訳でもないのだろうけれど、わたしが転入してくるまでは友達がいなかったようで、やたらと懐いてきた。トイレも一緒、お弁当も一緒、登下校も一緒、他の女子と仲良くしたりしたら許さない、というべたべたした友人関係は好きでないけれど、寄ってくるのでなんとなく一緒にいる。多分他のクラスメイトからは、仲良し、だと思われているだろう。時々うっとおしいこともあるけれど、気にしなければ気にならない。
「ちょっと貧血っぽくなって」
保健室に行ってた、と告げると、美人だからねぇ、と感心したように言われる。
「……ごめん、意味が分からないんだけど、」
「だって、安藤さん美人だもの。貧血って美人しかならないでしょ?」
「どういう偏見……」
「あ、次の時間理科だけど行ける?」
理科は移動教室だけど、もちろん歩けないほどではないし休むほどでもない。
教科書とサイエンス資料集と、ノートと筆箱と。こまごました物を持って。
女ばかりの学校で、移動教室がある他のクラスの人とすれ違ったりもする。廊下の掲示板には、部活の勧誘ポスターが貼られていたりする。
「安藤さんは部活、やらないの?」
火曜日の五限目がクラブ活動の時間となっているので、全校がそれぞれ入っているクラブの活動をすることになっている。部活はそれとまた別で、任意で入りたいものがあれば朝や放課後、休日などを使用して練習をする。それでも大抵はバレー部はバレークラブに、合唱部は合唱クラブに入っていたりするので、そのままクラブの時間は部活の時間にもなっていた。
「やらない。そういうの、面倒くさくて」
「えー、安藤さんっていろいろ器用そうなのに」
器用なのと面倒くさがりは別問題だろう。小阪が真面目な顔で、もったいない、と何度も言うので、もしかしたら自分の部活に勧誘するつもりなのかと勘繰る。
「小坂さんは、なにか部活やってるの?」
それでそう聞いてみたのに、彼女はぶんぶんと首を横に振った。
「なんにも。帰宅部だし」
「……ああ、そう。なにかやりたい部活でもあるの?」
ひとりだと心細いから一緒に入って欲しいという話か。
掲示板に貼られたポスターの前で立ち止まり、小坂は浮きかけていた画鋲をぐっと深く挿し直す。
「運動嫌いだし、協調性とかないし、やりたいことなんて学校の中にはないし」
「学校の外にならあるの?」
彼女が画鋲から手を離して、わたしの顔を見た。視線の刺さる横顔が居心地悪くて、わたしも彼女のほうを向く。
「安藤さんって面白いね」
「ちょっと待って、わたし何か今面白いこと言った?」
「ううん。でもほら、なんか人にそう踏み込んでいろいろ聞かなそうな人だから。ギャップがあるよね」
怖い顔の人が子犬にパンをあげてたりする感じ、と言われても、少しも褒められた気はしない。
彼女の学校の外には、楽しいことがあるのか。わたしの学校の外にはそう楽しいものはない。七十を過ぎた父、半分だけ血のつながった出戻りの四十八歳になる姉と、四十と三十六歳になる兄がいる。とりあえず今現在父の子であると周囲に認められているのはその四人だけだけれど、父が死んだりすれば、もっと出てくるかもしれない。自称、兄弟が。姉と上の兄が同じ母親、二番目の兄が父の後妻の子で、わたしは三番目の妻の子だった。母はたまたま父の子を妊娠してしまっただけの小娘で、後妻を亡くしていた父がわたしのためにと結婚をしたらしいけれど、母は結婚などしたくなかったらしい。妊娠した子供を堕ろすこともできず、結婚の話が出てくると断ることもできなかったただの小心者で、ずっとわたしを産まなければ良かったと愚痴だけ言い続けて一生を終えた。
家庭環境が複雑なので、学校の外が楽しいと思ったことはない。姉は連れ帰った自分の子供と同じように、わたしを可愛がってはくれるけれど。そして、世間から見れば孫のような年齢である娘のわたしを、父もとても可愛がってくれていて、それで今回の無理をいった転校も目を細めて許してくれたのだ。父は笑ったこともない娘を、どう思っているのだろう。
「安藤さんは彼氏が欲しいとか、ないの?」
「彼氏? 別に。彼氏って欲しがるものなの? 好きな人ができて、お付き合いしたいと思って想いを伝えて、彼氏彼女の関係になるものなんじゃなくて?」
「なんかある意味斬新な意見」
「斬新も何もないでしょう、彼氏が欲しいっていうのが目的で付き合いだした人なんか、本気で好きになれるものなの?」
「すっごく頑なな女子中学生と話してる気分」
中学生となんかそんなに年は変わらないし、見た目がまるで男子中学生の小坂に言われたくない、と、むっとしてしまった。彼氏が欲しい、って、変な言葉だし考え方だと思うのだけど。
掲示板の前でぐずぐずしていたので、本鈴が鳴ってしまった。走ってはいけない廊下を、どちらからともなく走り出す。
「では前回の授業で自己紹介や一年間の授業内容、その進め方などは話しましたので、本日からさっそく授業に入ります」
研究者などが着ているイメージの長い白衣は、誰でも着れば格好良く見えるものだと思っていたけれど間違いだった。理科の伊藤先生は髪の薄い、いつも薄ら笑いを浮かべているようなおじさんで、髪が薄く、目がぎょろりとしている。生理的に得意でないというか、人間というよりは妖怪といったほうがしっくりくる外見をしていて、それを言うと小坂が笑い転げた。
「どうせこの学校なんて年寄りしかいないじゃないの」
「そうなの? でもほら、家庭科の先生とか英語の先生とか数学の先生とか、若い人がいたような気がするけど」
「でもそういう若い先生より、非常勤のじいちゃん、ばあちゃん先生が多いと思う」
私立だしね、と分からないくくりをされて、そういうものなのかと納得する。
開いた新品のノートは、黒板の写しで埋まっていく。丁寧に使うのは最初だけで、そのうちどうせ字が乱雑になってみたり、定規を使わずに線を引くようになってしまう。
「神経系には二種類あります。中枢神経系と末梢神経系ですね。中枢神経系は脳と脊髄からなり、身体の様々な部分の働きを調整しているわけです。また、その働きを制御する神経系機能の中枢にも当たり――」
黒板をチョークがすべり、脳の形が描き上げられる。そこから長く線を引き、大脳、間脳、小脳、脊髄とかかれて、大脳から働きが説明される。
実験などの授業なら、まだ楽しく興味も持てるかもしれないのに。あくびを噛み殺しながら、妙に高くてそう耳障りがいいとは思えない伊藤先生の声を聞く。
吉村先生は。
さっきの保健室での会話を思い出す。なんだか不真面目そうではあったけれど、声はなかなか耳に心地よかった。低すぎないやわらかなテノール。煙草を吸おうとしたのには驚いた。そういえばうちの父は葉巻を吸うだけで煙草は吸わない。兄達はほとんど会うことがないので、煙草を吸う姿も見たことがない。煙草を吸う人は身近にいなかった。母も、吸わなかった。
「脳の図解をプリントで配りますから、ファイルしておくように」
理科室の机は真ん中に蛇口のふたつついた流しがある。ステンレス製のそこに、誰かがペンを落としたりしたのか、からんかんこん、と軽く安っぽい音が立った。席順は基本的にどこの移動教室もクラスの席順と同じで、週番が座席表の貼られた出席簿を持っていく。ただ、理科室だと黒板を向く座り方でなく、班の中で向き会う形になるので、なんだか他の授業より親密度が増す。気のせいだとしても。
「あっ、」
プリントが配られる、がさがさという音の中で誰かが声を上げた。続けて、数人の悲鳴が上がる。プリントに気を取られていたので、他のクラスメイト達はなにがなんだか分からないままざわめく。
「なんだ、どうした」
窓際の席の女子達が立ち上がり、窓の外を指差している。友達に抱きつくような形で寄り添っている人もいる。なにかがぶつかるような、重たいものを放り投げたような、鈍い音がした、ような気がした。ひとりが窓を開けて、覗き込んだ。誰かが、と叫ぶ。
「せ、先生、今、人が、」
人が上から落ちてきました。
震えるその声で教室の中が一斉にざわめきを増す。伊藤先生が慌てて窓に駆け寄り、覗く。理科室は二階で、上は音楽室と家庭科被服室がある。B棟は面白い造りになっていて、一階と三階では教室に当たる部分が二階では廊下になっていて、二階で教室の部分は一、三階で廊下になっている。廊下の方が狭いので、半分くらいは教室と教室が重なっているが、窓から落下する人が見えたということは、三階の廊下の窓から転落したということだろう。
「ボ、ボクは確認しに行ってきますが、君達は教室を出ないように!」
伊藤先生の声は混乱しているのかイントネーションがおかしくなっていた。とりあえず三階の窓からも誰か先生が顔を出しているようで、救急車は、だとか、校長を、だとか叫んでいる。
「え、なんか大変なことに――、」
なってるね、と言いかけて、隣の小坂が真っ青な顔をしているのに気付いた。
「小坂さん?」
「……音楽、三年だったよね?」
「え?」
「今の音楽の授業、三年生だよね?」
他のクラスの授業割当てなど知らない。学年が違うなら尚更のこと。そんなの知るわけがない、と笑い飛ばすには小坂の顔が真剣すぎた。彼女の言葉を聞いたわけではないだろう、先ほど窓から覗いたクラスメイトが、緑色の、と言うのが聞こえた。耳に入ったのはわたしも小坂もほぼ同時だったと思われる。ただ、わたしは座ったままだったけれど、小坂は勢いよく真っ直ぐに立ち上がった。後ろに倒れた木の椅子が、派手な音を立てたので教室内が一瞬静まり返る。
「ちょっと、小坂さんっ、」
飛び出そうとする袖をつかんで引き止める。放して、と鋭い声で言われて、ひるんだけれど手の力はゆるめなかった。
「どこ行くつもり、どうしたのいきなり」
今年の一年生は卒業生が赤ラインだったのでそれを引き継ぎ。わたし達現二年生は青いライン。そして、今の三年生は緑色のライン。上履きの色で、ここの生徒は学年が分かるようになっている。さっきの耳に入ってきた、緑、が上履きに入ったラインの色のことだったら。
「窓……」
「窓? 窓がどうか――」
「私の知り合いかもしれない……」
え、と驚きが声になって漏れた。袖をつかんでいた指先から力が抜ける。小坂が、窓の方に走った。途中ぶつかったのか、ノートや教科書がばさりと落ちる。
「南條!」
小坂が叫んで、みんなが驚いた顔でそちらに向いた。わたしも慌てて近付いて、スプラッタだったら、と思いながら恐る恐る下を覗く。
「あ……、」
男の先生が三人、ぐったりとした女子生徒を運ぼうとしているところだった。想像していたような血の海も何もなく、背の低い木が一列に植え込まれている、その一部が上から見るとつぶれたようになっている。保健の先生が走ってくるのが見えた。
「……生きてる、よね?」
小坂の声が震えていたので、わたしは彼女の手に思わず触れた。
「知ってる先輩?」
「……家が、近所」
南條、と呼び捨てにしていたのは、幼馴染みかなにかだからだろうか。クラスはざわめいたままで、しばらくしてから帰ってきた伊藤先生が、チャイムのなる前に授業を終わらせたので、ずっとざわついたままになっていた。