―異形―
「なに……あれ……」
リシェーナの声は恐怖に引き攣っていた。視線の先には何ともつかぬ顔ばかりの異形が、何処ともつかず世界を見渡している。その化物が無数にある瞳を僅かでも動かす度に、言い知れぬ恐怖が大き過ぎる霊力を伴って襲ってくる。
「ご無事ですかリシェーナさん」
その傍らにはオルヴスが膝をついて付き添っているが、その視線は空の異形へ、そして舞うように戦いをはじめているアーノイスらの所へと注がれていた。
「あ、アーノイスさんっ!?」
リシェーナはその彼の視線を追い、子供を二人、鎌を手にした女性を一人相手に立ちまわっている友人の姿を見、取り乱す。
「た、助けないとっ」
「お願いします。僕は、アレの相手をしなくてはなりません」
「そ、それじゃあオルヴス様が!」
慌てるリシェーナを遮り、オルヴスは言葉を続ける。
「出来れば、街の方までお二人で逃げてください。街には僕達の仲間もいるでしょうから、助けになる筈、頼みましたよ」
それだけ告げ、オルヴスは姿を消した。
遊ばれている。
そうアーノイスは理解していた。全身に霊力を纏わせ、飛び交う双子を追い、掌底を繰り出すものの、かわされて空を切る。時折飛んでくる正体不明の力に吹き飛ばされるも、致命的なものではない。
「あなた達は、一体何が目的なの!」
「悪い人をやっつけるんだ」
「そう、悪い人をやっつけるの」
息を乱しながら、問いをぶつけるも、返る答えは要領を得ない。女の方は戦うつもりがあるのかないのか、空間に潜り込んだままで姿が見えない。絶えず、宙を舞って逃げる少年と少女を追い掛けるアーノイス。
「アノ様」
と、その彼女の耳元にオルヴスの囁きが届いた。一瞬動きが止まり、同じように、何かを感じ取ったか微笑を浮かべていた双子の間にも戦慄が走る。同時、地面が割れて粉塵が辺りを覆い尽くした。オルヴスが地面を叩き割ったのだ。巻き起こった衝撃波で二、三歩後退するアーノイス。その彼女の腕を、誰かが引っ張った。
「な、何?」
引かれるがままその方向へと走らされるアーノイス。粉塵の向こうへと抜けて、ようやく自分を引く手の正体を知った。
「リシェーナっ、一体何を」
彼女の手を引いていたのは、先程少年の力に吹き飛ばされてしまったリシェーナだった。彼女が無事だった事に安堵を覚えるが、それも長くは続かない。
「オルヴス様に、アーノイスさんを連れて逃げろって言われて!」
そのまま、湖畔の周りを覆っている木々の中まで二人は走る。
「で、でも! オルヴス一人じゃ」
あの三人の実力は知らないが、籠から出てきた異形の危険さはアーノイスもひしひしと感じていた。今はまだ動かずにいたようだが、そのままということは有り得ないだろう。だからこそ、せめてオルヴスがあの異形をしている間は他の邪魔を入れさせないように、と思っていたのだ。
「街の中に仲間が居るって聞きました!」
リシェーナに言われ、ようやくアーノイスはガガ達翳刃騎士の存在を思い出す。彼等の実力の程は知らないが、確かに自分よりは強いだろう。そう思い直し、リシェーナに引かれている手を解いて自分の意志で走る足に力を込めた。
「そうね……行きましょう」
「またお前か!」
土煙りが晴れ、二人の少女が居なくなった湖畔で、オルヴスと相対した少年が敵意をむき出しに叫ぶ。以前、マイラの門前で会った二人の双子の片割れである事を、オルヴスは覚えていた。
「やれやれ、また貴方がたと戦う事になるとはね。いい加減うんざりですよ」
噛みつくようなジェイの敵意を受け流しがら、オルヴスは肩をすくめる。双子は勿論、ついこの前にも隻眼の女――ユレアとは戦ったばかりだ。
「勘違いしないでください。今回、あなたのお相手を務めるのは、私達の役目ではございません」
言って、ユレアが上空の異形へ向けて手を翳した。まるでそれに呼応するかのように、異形が吠える。数多ある口腔から放たれる幾重もの叫びが木々を揺らし湖面をあわただせる。
「フェルを人が御せるとでも?」
「出来なければこうしていないでしょう」
異形が動き出した。吠え声を挙げた際に開いた口から無数の蛇が沸き出てくる。しばしの間うねり、さまよっていたそれが、オルヴスの姿を捉えた。猛然と向かってくる蛇の群れ。一匹一匹の大きさは人間の脚程度の太さだが、その数は視界を覆い尽くし、遥か上空から飛来してくるのに、まるで延々と伸びてくるかのように勢いが衰えない。後ろへと大きく跳躍して、回避を図るオルヴス。まるで流星の如く、蛇の頭が彼の居た地表を抉った。巻き上がる土埃、だが、それだけでは終わらない。今度はその着弾点からさらに伸びてオルヴスを喰らわんと、口を開けて迫る大蛇の一群。
「くっ!」
それに、両手両足に霊力の光を纏わせ、打ち払う事で応戦するオルヴス。しかし、その動きはこれまでのものと少し違って見えた。当然だ。これまでは最小限の力で敵の攻撃をいなす事を得意としていた彼が、一匹の蛇を払うにも大ぶりな一撃を加えている。そうでなくては弾けない、そう彼は瞬時のうちに悟っていたのだ。そしてその読みが正しい事を示すかのように、襲いかかり、手や足に払われた蛇が、すぐにまた進路を変えてあらゆる方向から彼に襲いかかるのだから。中空を、蛇を足場にしながら、攻勢を退けるオルヴスの姿が空へと上がって行く。
異形と同じ高度に上がった頃、それまで防戦一方であったオルヴスが動いた。彼へ向かって来る蛇の群れは一直線。殆どないようなその蛇と蛇の隙間を縫い、牙を剥く顎をかわしながら、空を蹴って醜悪な顔の集合体へ肉薄する。そして、直前で口腔から飛び出して来た一匹の首元を掴み、強引に本体を引き寄せ、交差させた両足による一撃を異形へと放った。異形の顔の内、一体の鼻っ面へ当たったそれは真下の湖を一瞬くぼませる程の衝撃波を生み出し、異形を森の方向へ大きく吹き飛ばした。木々をなぎ倒し地面を抉る破砕音を立てながら転がる異形。
「やはり……固いですね」
吹き飛ばした敵から視線を逸らさず、その次なる挙動を見逃すまいとオルヴスは目を光らせた。確かに当たった手ごたえはあったが、それで仕留められたという感覚がなかったのだ。
「魔狼」
ふいに背後から彼へ呼びかける声。低く、くぐもったような男のその声は、例のエトアールの人間のものではなく、オルヴス自身に覚えがある、教会の人間ものだった。
「ガガさん。来ていただいたところ恐縮ですが、あれの相手は僕にお任せください。出来ればその他の方々――あわよくばアノ様の助けをお願いしたいのですが」
振り向きもせず、かけられた一言と霊気を感じ取り、背後の人物がガガである事を見抜いたオルヴスは、矢継ぎ早気味にそう告げる。
「了解した。鍵乙女とはあの人魚の娘も一緒か?」
「ええ。お早くお願いします」
「承知」
短いやり取りで要件を終わらせ、ガガがアーノイスらを探索しようとした、その時だった。強烈なプレッシャーが辺りを覆い尽くす。それは言うなればあまりに濃すぎる気配。存在感。月明かりで仄かに照らされているこの場も、より一層濃い闇に覆われてしまったような感覚にさせてしまう程の霊気。紛れもなくそれは、オルヴスにより吹き飛ばされた異形の方からしていた。
「厄介な……」
オルヴスが苦虫を噛み潰したような顔で吐き捨てる。次の瞬間、膨れ上がった邪気が破裂した。飛び交うは、先程の異形よりも幾分か小さく、それでも人などとは比べ物にはならない大きさの黒い人面のひとつひとつ。無数にばらけた各々はそれまでとほぼ変わらない、おぞましい霊気を放ちながら、四方へと飛び散る。異形は、分裂していた。