―邪魔―
夜の森をアーノイスとリシェーナの二人は走り続けていた。
月明かりはあれど、そこは木々に覆われた空間。足元はおろか前方すら不確かな世界だ。普通ならば夜でも湖から街までの路を素直に行けばそう遠くない場所なのだが、襲撃者から逃げなければという心情から森の中に飛び込んだ二人はすっかり、街までに至る道を確立出来ずにいた。土地勘のないアーノイスは元より、リシェーナもそう道に詳しいわけではない。彼女らが全くの冷静であったならば、街に辿り着く為の方法などいくらでも浮かんだかもしれないが、今は事態が事態である。ただ闇雲に、森に入る前から変わらない強大な異形の霊気から逃れるしか術を選べないでいた。
ふと、リシェーナの前を走るアーノイスが振り返って後方を確認する。先程まで彼女が戦っていた双子や眼帯の女の姿は見えなかった。ただ、少しばかり遠い場所で、例の異形の気配だけは色濃く残り、いや、さらにその濃さを増していたが。
「追っては、来てないみたいね」
走り続けすっかり上がった息ではあるが、どうにか言葉を成してリシェーナへとそう告げ、彼女を引く手と足を止めた。元が人魚でもある為、走るのが得意ではないリシェーナは返事をする前に一度、自身の両膝に手をついて息を整える。
「はっ……はぁ、で、でも。街まで、行かないと」
息を継ぎながらも必死にそう応えるリシェーナ。
「とは言っても、ここから街の方角なんてわからないわ」
見回す限り木と草と闇しか見えない周囲を見渡し、アーノイスはそう言った。言いながら、霊気の感覚を最大限広げてみるが、大き過ぎる異形の気配に邪魔されて上手く掴む事が出来ない。どうしたものか、焦る心でどうにか打開策を探るアーノイス。そんな彼女の横で、突然リシェーナがしゃがみ込んだ。
「ひっ……いや……!」
何かに怯えた様子で、小さく悲鳴を上げて自分の耳を抑えるその姿にアーノイスにも緊張が走る。感覚を研ぎ澄ませてその原因が周囲にあるのか探ろうとして、彼女はそれを止めた。一番はじめに感じたのは畏怖。あの異形が出現した時のような、それ以上の悪寒が冷や汗を出させる。何かが起きたのは明白だった。リシェーナはそれを敏感に感じ取っていたのだ。
「なに……この音……っ」
耳が良いという人魚の彼女には何かが聞えているのだろう。潰れてしまいそうな程に自分の両耳を抑え、小刻みに頭を振っている。
「落ち着いてリシェーナ。あのフェルとはオルヴスが何とかしてくれるから。だから、私達は自分の事くらい守らないと」
震えるリシェーナに語りかけながらその肩に手を置くアーノイス。しかしアーノイスとて、落ち着いているわけではなかった。フェルとの遭遇は少なくない。旅路の合間は常に着き纏わているくらいの付き合いだ。だがそれ故にわかってしまうのだ。今回の相手は何かが違っていることに。出来ることならば二度とは見たくない醜悪な姿、感じたくはない圧倒的なおぞましさ。絶望と呼ぶにふさわしい感情を必死にアーノイスは否定していた。
「なーんだ。もう鬼ごっこは終わり? つまらないねマルガ」
「そうだね、ジェイ」
そんな彼女の耳に、双子の声が届いた。気を緩めていた筈はなかった。それなのに、その子供たちはいとも簡単にアーノイスの眼前に現れていた。立ち上がり、未だ蹲ったままのリシェーナの前にアーノイスは立つ。
「でも、あんまり遊んでるとユレアさんに怒られちゃうよジェイ」
「そうだね、マルガ」
ここに来て、この子供達は依然遊戯的な調子をくずさない。微かに釣り上がる二人の口端には、何処か楽しんでいる様が感じられなくもない。けれどそれも何かが違っている。そんな気がして、アーノイスは目の前のたった二人の子供が恐くて仕方がなかった。だが、それでも。自分の背後のこの、人魚の少女だけは守らなくてはと、彼女は己を奮い立たせる。
「貴方達の目的は私でしょ? ならリシェーナには、この子には関係ない筈ね」
「そっちの人魚のお姉ちゃん? うん、そうだね」
「関係ないね」
双子の返答に、アーノイスは短く安堵の息を吐いた。自分の、鍵乙女という立場のせいで誰かを巻き込むのだけは御免だった。理由も曖昧に自分へ危害を向けてくるとはいえ、全く言語が通じない相手ではなかった事にほんのわずかばかり感謝して、彼女は振り返ってしゃがみ、リシェーナの肩をかるく叩く。言い知れない音に怯えていた少女は少しだけ過剰に身を震わせたが、アーノイスの口が開くのを見て、ゆっくりと耳を塞いでいた手を退けた。
「リシェーナ、貴方は逃げて。森の中でも街の方でもいい。とにかく、安全な所まで行きなさい。いいわね」
「あ、アーノイスさんは……?」
この期に及んで、今耳を塞いでいないのだって恐怖の限界という顔をしていて尚、心配の意を示す彼女に、アーノイスは状況が状況なのに少し嬉しくなってしまって、自然と優しく微笑む。
「大丈夫。貴方を見送ったらすぐに逃げるわよ。ほら、早く――」
「でも」
だが、言葉はその一瞬の安堵すら許さないとでも言うように落とされた。
「関係ないって事は」
「邪魔だって事だよね」
背後の気配が濃くなるのを、アーノイスは感じた。先程自分が“遊ばれていた”時を遥かに越えたその高まりを。咄嗟に振り向くも、すでにそれは放たれたとわかった。真っ直ぐに一直線にアーノイスの横を通り過ぎようとする見えない何か。狙われたのが彼女自身であったなら、まだしも。不可視の無邪気な力は呆気なく、アーノイスの視界の端を外れ、その先の標的に襲いかかった。




