外伝 鉄に咲く、火の残り香【零編】
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最初に願ったのは、刀だった。
富でもない。
地位でもない。
名でもない。
ただ、一本。
自分が生涯を賭けて打ち上げても、なお足りないと思える一本。
そんな刀を打ちたい、と男は言った。
口調は静かだった。
静かなほどに、その願いが本物だと分かる。
飛鳥は、隣でそれを聞いた。
天使は人の願いを測れる。
測れるけれど、測る必要がない願いもある。
これは、その類だった。
◇
男は鍛冶場を作った。
石を積み、炉を作り、風を通した。
火の癖を覚えた。
鉄の癖を覚えた。
槌の癖を覚えた。
飛鳥は、その隣にいた。
名を名乗らない日もあった。
名を呼ばれる日もあった。
飛鳥は、そのどちらも同じように受け取った。
任務の期限はある。
天界は、そういう仕組みだ。
だがこの男は、期限のことなど知らない。
知らないまま、刀を追い続ける。
飛鳥は、その背中を見ていた。
追うのは刀のはずだった。
だが、いつの間にか。
飛鳥は、男の指を見ていた。
火に焼かれた指。
刃に切られた指。
血を拭き、また槌を握る指。
その指が、刀よりも確かなものに見え始めた。
飛鳥は、それが何かを知っていた。
知っているのに、止められなかった。
◇
材料が足りない。
技術は積み上がる。
工夫も積み上がる。
だが最後に必要なのは、純度だった。
折れないための硬さ。
斬るための粘り。
両方を抱えてなお、軽い刃。
男は探した。
山を越えた。
川を辿った。
国を巡った。
それでも、見つからない。
いつも最後に残るのは、同じ結果だった。
刃は美しい。
だが、最高ではない。
男はそれを叩き割った。
迷いなく叩き割った。
叩き割ったあと、息だけが震えた。
飛鳥は、その震えを見ていた。
見ているだけだった。
◇
ある夜。
飛鳥は、自分の期限を思い出した。
思い出させられた、と言った方が近い。
天界は優しい場所じゃない。
期限は、黙っていても進む。
飛鳥は火を見た。
炉の火。
男が愛した火。
男の人生の火。
その火が、今夜は妙に冷たく見えた。
「もうすぐ、私は消える」
男は槌を止めた。
槌を止めて、飛鳥を見た。
驚かない。
疑わない。
怖がらない。
ただ、受け止めた。
受け止めてしまった。
「……そうか」
それだけだった。
飛鳥は、その笑い方が好きだった。
好きだからこそ、怖かった。
このままでは、この男は願いを叶えない。
叶えないまま、生き続ける。
それが耐えられなかった。
飛鳥が耐えられなかった。
◇
「最後に、叶えたい」
今夜は、任務じゃない声だった。
「何を」
「あなたの願い」
男は答えなかった。
炉を見た。
火を見た。
火の中にあるものを見た。
そして飛鳥を見た。
その目に、初めて迷いが宿った。
迷いは正しい。
正しい迷いほど、残酷だ。
飛鳥は笑った。
自分が消えるのに、笑った。
恋だった。
認めたくないのに、もう認めているものだった。
「どうせ消えるなら」
声が震えた。
震えを隠さなかった。
「最後に、あなたの願いを叶えて消えたい」
男の喉が動いた。
声は出なかった。
槌を握り直した。
握り直して、下ろさなかった。
飛鳥は一歩、炉の前へ進んだ。
止めない。
止められない。
「私を、材料にして」
炉の火が鳴った。
ぱちり、と。
◇
男は打った。
一打ずつ。
逃げないために打った。
忘れないために打った。
何も言わずに打った。
飛鳥は痛みを感じなかった。
感じる余裕がなかった。
ただ、見ていた。
自分が形を失っていくのを。
男の指が震えていくのを。
涙が落ちるのを。
落ちても拭かないのを。
飛鳥は、一打一打の中に自分の名前が消えていくのを感じた。
代わりに、ひとつだけ残るものがあった。
願い。
男の願い。
その願いだけが、飛鳥を繋いでいた。
◇
最後の一打。
男は槌を振り下ろした。
終わった。
炉の火が静かに落ちる。
そこに、一本の刀があった。
美しい。
それ以上の言葉が出ない。
男は刀を持ち上げた。
笑おうとして、声が出なかった。
刀を抱えて座り込んだ。
息を吐いた。
吐いて、戻らなかった。
火が消える。
鍛冶場が静かになる。
夜が明ける。
刀だけが残る。
飛鳥の名前も。
男の命も。
全部を置いて、刀だけが残る。
それが最高の形だった。
それが最悪の形だった。




